第九話
亜弥に別れ話をしたとき、大泣きされた。
「ホテルまで来て、なんでそんなこと言うの!?」
泣きながら、亜弥は怒鳴り散らしていた。その気だったのだろう、服は脱ぎかけだった。彼女が脱いでいる最中に、俺は話を切り出した。
ホテルの薄暗い部屋で、亜弥が下着になっている姿を見ても、俺は興奮しなかった。
亜弥の泣き喚く声を聞きながら、俺は思い浮かべていた。美由紀の小説の一節を。
『綾さんを抱く元気があるなら、その分だけ、私を抱いて』
早く帰りたい。早く帰って、滅茶苦茶に美由紀を抱きたい。明日はきっと寝不足になるだろう。それでもいい。美由紀と、好きなだけセックスがしたい。
それだけを思いながら、泣き、怒鳴り、捨てないでと縋る亜弥の声を聞き流していた。
「もう終わりだ。もう、会社以外で、お前とは会わない」
終わりの言葉を告げると、亜弥は、ボロボロと涙を流しながら恨みの形相で俺を引っぱたいた。いつもの、綺麗な顔も可愛らしい仕草も、そこにはなかった。
そんな亜弥の様子が、一層、俺を萎えさせた。
引っぱたかれたとき、亜弥の爪で、俺の頬に傷が残った。
俺の顔についた傷に気付く様子もなく、亜弥は、その場で顔を押さえて大泣きした。
話し合う余地も余裕も、亜弥にはない。
俺は亜弥をおいて、ホテルから出た。支払いの金だけ置いて。
ホテルから出ると、俺は全力で駆け出した。
早く家に帰りたかった。夜の道を地下鉄駅まで駆け抜けた。発車のベルが鳴る中で、地下鉄の中に駆け込んだ。
自宅の最寄り駅まで走る地下鉄の中で、再度、美由紀の小説を読んだ。
美由紀が、俺を求めてる。オナニーしかけて、自分の指と俺の体との違いを感じた美由紀。亜弥とセックスする元気があるなら、その分、自分としてほしいと書き綴った美由紀。
すぐに帰るから。
帰ったら、寝室に連れ込んで、押し倒してやる。着ているものを乱暴に脱がせて、俺も裸になって、滅茶苦茶にしてやる。
下着姿の亜弥を見ても興奮しなかったのに、美由紀の小説を読むと、驚くほど興奮した。地下鉄内で勃起してしまって、周囲に隠すのに苦労した。
自宅の最寄り駅に着いて。
地下鉄から降りて。
改札を抜けて。
駅から出て。
俺は自宅まで全力で走った。我慢できなかった。走ることで体力を奪われ、息切れしているのに、それとはまったく違う力が体の奥底から湧き上がってくるようだった。
情欲という名の、力。体力。気力。
家についた。玄関を開けると「ただいま」も言わずにリビングに駆け込んだ。
声を掛けることもなく家の中に入ってきた俺に、美由紀は、少し驚いたようだった。彼女にしては珍しく、目を見開いていた。
「あ。おかえり、祐──」
おかえり、祐二さん。その言葉を、俺は最後まで言わせなかった。美由紀を抱き締め、唇を塞いで黙らせた。んんっ、という彼女の吐息が漏れた。
唇を離すと寝室に連れ込み、ベッドに押し倒した。皺になるのも気にせずにスーツを脱ぎ捨て、全裸になって美由紀に覆い被さった。
彼女の着ているものも乱暴に脱がせて、全裸にして、強引にセックスした。
異常なほど興奮して、何度もした。
結局俺は、次の日、徹夜明けで仕事に行くこととなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
亜弥が突如退職した。一週間の無断欠勤の後に、家族都合という理由で。
契約社員の退職に関する仕事は、俺の業務範疇ではない。俺のひとつ上の職位の、マネージャーの仕事だ。だから、彼女がマネージャーにどういう理由を説明して退職したのか、俺は分からない。
ただ、亜弥の退職について、マネージャーには何も言われなかった。どうやら、俺のことを理由にせずに退職したようだ。正直なところ不安だったから、ホッとした。
亜弥の退職が、俺の昇進に悪影響を及ぼすことはなさそうだ。
美由紀の小説『夫を不倫相手から取り戻したい』は、今日、最終話が投稿された。
※ ※ ※ ※ ※
夫が、綾さんと別れた。
どうしよう。嬉しい。
夫が綾さんと付き合っているときは、不安で、辛くて、苦しくて。彼女とセックスしててもいいから私を捨てないで、なんて思っていたのに。
それなのに、こんなに嬉しい。
私って、もしかしたら、独占欲が強いのだろうか。
綾さんと別れた日。
夫は、寒い季節に似合わないほど汗をかいて帰ってきた。
駅から全力で走って帰ってきていた。そのことを私が知ったのは、後日、興信所からの報告をうけたときだ。
綾さんと別れた夫は、帰ってきて早々、私を求めた。
私の口を塞ぐようにキスをして、寝室に連れ込んで。裸になって、私を裸にして。
乱暴で、強引なセックスだった。
いきなりセックスをするなんて思っていなかった私は、全然濡れていなかった。だから、最初は少し痛かった。でも、夫があんなにも私を求めていることに幸せを感じて、すぐに気持ちよくなった。
それから夫は、その晩のうちに、何度も何度も私を求めてきて。
結局、徹夜明けで仕事に行っていた。
私も、徹夜明けでヘトヘトだった。でも、幸せだった。
夫に愛されている。そう、強く感じた。
とても甘美で、とても贅沢な幸せ。
この幸せに見合う妻になろう。
夫は、もう、私だけの人になったんだ。
だったら、もう、興信所の調査も、出た報告もいらない。
夫の不倫の事実は私の胸の中だけにしまって、お墓まで持っていこう。
この幸せの中で生きられるなら、夫が不倫していたことなんて、どうでもいい。
私は、興信所から提出された不倫の証拠をシュレッダーにかけると、部屋の掃除を始めた。
徹夜明けで、体が少し重かった。
(終)
※ ※ ※ ※ ※
美由紀の小説のエピローグを読んで、俺は、頬が緩むのを自覚した。もちろん、同時に興奮もしていた。
あんなに乱暴なセックスを朝まで何回もしたのに、それでも美由紀は喜んでいたのか。
美由紀は、喜びながら、悦んでいたのか。
じゃあ、今日も、帰ったらセックスするか。
さすがに徹夜はもう無理だが、二、三回はしたい。
今さらながらに実感する。
俺は、いい女と結婚した。
こんなに興奮できて、こんなに妻として優秀で。
さらに、決して表情に出さなくても、俺とのセックスを心から求めてくれる。
こんな妻がいたら、もう、一生不倫なんてできないな。
そんなことを思いつつ。
俺は、帰宅が待ち遠しくて仕方なくなっていた。