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第八話


 一昨日、亜弥とホテルに行った。

 家に帰るまで我慢できなくて、どうしようもなくて。


 亜弥で、自分の欲求を発散した。


 二回目が終わった後、彼女は相変わらず俺にしがみつき、胸を押し当ててきた。大きな胸。今の俺が求めているものとは、違う胸。


 甘えるような上目遣いで俺を見て、亜弥は素直に、自分の気持ちを口にした。


「祐二さん、大好き」


 甘ったるい声。美由紀とは違う。


「やっぱり私、祐二さんのお嫁さんになりたいなぁ」


 語尾にハートマークが付きそうな口調。


 外見も、中身も、声も、喋り方も──何もかも、今の俺が求めてるものとは違った。俺が求めている女とは違っていた。


 昼休み。食堂で四人掛けの席にひとりで座って、俺は美由紀が作った弁当を広げた。


 美由紀の手は、いつも少し荒れている。手入れはしているのだろう。しかし、家事に手を抜くことのない彼女が綺麗な手や指先を維持するのは、難しい。


 あの手で。あの指先で。パソコンのキーボードを叩いているのだろう。俺に対する気持ちを綴るように、小説を書いているのだろう。

 

 箸を片手に、もう片方の手でスマホを操作した。美由紀の小説にアクセスした。


 最新話が更新されていた。


 ※ ※ ※ ※ ※


 調査を依頼している興信所から、最新の報告が届いた。


 夫が、また綾さんとホテルに行ったらしい。前回のように、夫が綾さんの手を引いて。


 写真で見る夫の顔は、興奮しているみたいだった。興奮を抑え切れない。そんな顔。すごくえっちな顔。


 やっぱり私より、綾さんの方がいいの? 


 心の中で夫に問いかけて。

 私は大きく溜息をついた。


 そうだよね。普通に考えて、当たり前だよね。


 私は、綾さんみたいに美人じゃない。

 私は、綾さんみたいに色っぽくない。

 私は、綾さんみたいに胸が大きくない。

 私は、綾さんみたいに上手に甘えられない。

 私は、綾さんみたいに、上手に「好き」と伝えられない。


 きっとあなたは、ホテルに入って、興奮して、綾さんを滅茶苦茶に抱いたよね。


 何回くらいしたの?

 この間、私としたときよりもたくさんした?

 私としたときよりも、乱暴に、強く綾さんを求めたの?


 私は、夫に抱かれてから、少し贅沢になったみたいだ。


 夫が一緒にいてくれるなら、他の女の人とセックスをしてもいい。


 そう思っていたはずなのに、悲しくなっている。悔しくなっている。辛くなっている。


 以前と同じようにオナニーをして、自分の気持ちを落ち着かせようとした。自分の体に指を伸ばして、自分で自分を慰めようとして。


 以前と同じくらい、濡れていた。

 でも、私の指は、途中で止まった。


 三年振りのセックスで夫の体を思い出したから、どうしても気付いてしまう。私の指は、夫の体とは違うんだ、って。自分の指では、自分を満足させられないんだ、って。


 私が欲しいのは、私の指の感触じゃない。

 私が欲しいのは、私の指の動きじゃない。


 あなたが欲しい。

 あなたに抱かれたいの。


 私はどんどん贅沢になってきている。つい、思ってしまう。求めてしまう。


 綾さんを抱かないで、私を抱いて。綾さんを抱く元気があるなら、その分だけ、私を抱いて。綾さんの分も、私を抱いて。


 ねえ。

 お願い、あなた。


 ※ ※ ※ ※ ※


 美由紀の小説を読んだ俺は、以前と同じように、箸を止めてしまった。箸を持った右手が、動かなくなっていた。


 荒くなりそうな呼吸を、必死に抑える。興奮している。まるで、耳元で、美由紀が俺に囁いているようだった。そんな妄想を抱いた。

 

 小柄な美由紀が、目一杯背伸びして。

 俺は、少しだけ背筋を丸めて美由紀と視線の位置を近付けて。

 その状態で、美由紀が、俺の耳元で囁く。俺を求める。


『祐二さん、抱いて』


 そんな妄想。


 何回でもセックスできそうなほど興奮する、妄想。


 美由紀が、俺を求めてる。他の女とする元気があるなら、自分としてほしい。そう訴えている。俺が抱えている欲求や興奮を、自分にぶつけてほしい。そう望んでいる。


 抱きたい。美由紀を抱きたい。美由紀を滅茶苦茶にしたい。美由紀と目一杯セックスしたい。


 美由紀の小説は、俺にとって媚薬のようだった。官能小説じゃないのに。露骨な性描写などないのに。


 それなのに、俺は、美由紀の小説を読んで興奮していた。美由紀の小説を読んで、美由紀に対して興奮していた。


「ゆーうーじさんっ」


 可愛らしい声が耳に届いた。甘い雑音。俺の興奮を、霧散させるような。


 声の主は、確かめるまでもない。


「お昼ご飯、ご一緒してもいいですか?」

「ああ」


 落ち着いて、俺は亜弥の言葉に返答した。


 不思議な感覚だった。

 先ほどまで、あんなに興奮していたのに──。


 亜弥が、俺と向かい合うように座った。


 相変わらずのコンビニ弁当を、俺の目の前で開ける。

 美由紀と違って、弁当を手作りしない。


 綺麗な手と指先で、亜弥は箸を動かす。家事などとは縁遠い、綺麗な手。

 美由紀の手は、荒れて、少しカサカサしている。


 リップを塗った色っぽい唇が動いて、亜弥は食べ物を口に含む。

 美由紀の唇は少し薄くて、どこか子供っぽさを感じさせる。


 大きな亜弥の胸が、テーブルの上に乗っている。

 美由紀の胸は、テーブルに乗るほど大きくない。

 

「ねえ、祐二さん」


 次に何を言うのか分かるほど、感情が乗った声と表情。


「今日の業後は、会えますか?」


 美由紀は、こんなに、感情を表に出さない。出せない。


 だからこそ俺は、初めて知った美由紀の本心に、心を打たれた。自分でも驚くほど、強く。


 亜弥の揺れ動く胸も、色っぽく俺を求める表情も、耳の奥に響くような喘ぎ声も、もういい。


 美由紀の小説を読んで湧き上がってきた興奮が、亜弥の姿を見て冷めた。自分でも驚くほどだった。一昨日は、美由紀の代わりに抱いたくらいなのに。


 もう代わりはいらない、なんて思った。


 亜弥の姿を見ていたら、落ち着いていられる。興奮せずに済む。淡々と話ができるだろう。


「ああ。俺も、亜弥に話したいことがあるんだ」


 俺の「話したいこと」が自分にとっていい内容だと思ったのか、亜弥は「え」と声を漏らした後、にんまりと笑みを浮かべた。


「じゃあ──」


 亜弥が俺に顔を近付けてきた。上目遣い。いやらしい、とも思える綺麗な顔。


 胸焼けしそうだ。


「──今日も、一番出口のところでいい?」

「ああ、いいよ」


 ホテルの中の方がいいだろう。密室の方がいい。


 どこかの店や道端で泣かれても、迷惑だから。


 亜弥と二人で会うのも、今日で最後だ。



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