第七話
美由紀の小説が更新されたのは、彼女と三年振りのセックスをした、二日後だった。
いつの間にか、俺は、美由紀の小説の更新が、待ち遠しくてたまらなくなっていた。
美由紀の本心が語られている、小説が。
昼休憩中。
食堂にある、四人掛けのテーブル席。
この席に座っているのは、今は俺ひとり。
美由紀が作った弁当を食べながら、俺は、彼女の小説にアクセスした。
※ ※ ※ ※ ※
夫が、久し振りに私を抱いてくれた。
彼は凄く興奮していて、少し恐いくらいだった。
私のパジャマを強引に、乱暴に脱がして。
夫自身も、自分が着ていたものを脱ぎ捨てて。
激しく私を求めてきた。
少し恐かったけれど、それ以上に嬉しかった。
夫が私に覆い被さってきて。
彼の肌の感触を、私の肌で直に感じて。
呼吸を荒くして、何度も唇を重ねて。
私の体を貪るように動いて。
幸せな時間だった。
この幸せな時間を夫と過ごせるなら、私は、何だって我慢できる。
夫の不倫にだって、目を瞑れる。
夫の体が、綾さんを抱いていてもいいの。
綾さんを抱いた後で、私を抱いてもいいの。
それでも、別れたくないの。
それでも、一緒にいたいの。
それでも、抱いて欲しいの。
「大好き」
精一杯の勇気を振り絞って、私は夫に伝えた。
それはきっと、霞のように消えてしまいそうな声だったと思う。
本当は、夫の目を見つめながら伝えたかった。
綾さんのように豊かな表情で、伝えたかった。
でも、どんなに練習しても、私の感情は、顔に出てくれない。
こんなに夫が大好きなのに、表情は、この気持ちを語ってくれない。
だからつい、夫に「大好き」と伝えるときに、顔を伏せてしまった。彼の顔を見ながら、視線を絡ませながら言いたかったのに。
この変わらない表情で「大好き」と伝えても、信憑性がない気がして。嘘だと思われるような気がして。
どうしても伝えたくて。どうしても信じて欲しくて。どうしても、私の本当の気持ちを知って欲しくて。
だから、目を伏せて顔を見られないようにして、伝えた。
ねえ、あなた。
私は、あなたが大好きなの。
あなたが外で何をしてもいいの。
私と一緒にいてくれたらいいの。
私の夫でいてくれたらいいの。
たまにでも、私を抱いてくれたらいいの。
あなたは、私の体を求めてくれた。
私で興奮してくれた。
それで幸せ。
一緒にいられるなら、幸せ。
夫婦でいられるなら幸せ。
あなたとの結婚生活がずっと続くなら、間違いなく、ずっと幸せなの。
※ ※ ※ ※ ※
美由紀の小説に、またも俺は興奮していた。
俺に三回も求められて、あんなに乱暴なセックスをされて。
それでも美由紀は、喜んでいた。
喜びながら、悦んでいたんだ。
ドクンッ、と心臓が高鳴った。まずい、と思った。
この感覚。この興奮。あのときと同じだ。美由紀が、俺の不倫を知って。俺が他の女とセックスしているところを想像して、オナニーをしていた。それを知ったときと同じくらいの興奮。
今すぐ滅茶苦茶にセックスしたい気持ち。できれば美由紀とセックスしたい。でも、この興奮を発散できるなら、正直なところ誰でもいい。
この興奮は、そう簡単に消えない。以前は、定時で退社して、亜弥と一緒にホテルに行って発散した。それはもう、滅茶苦茶に乱暴なセックスをした。そうしないと消えない興奮。欲求。
俺は顔を伏せ、額を押さえた。
今日も、定時で退社しよう。急いで帰るんだ。急いで帰って、帰宅したらすぐに美由紀を押し倒してやる。寝室に連れ込んで、すぐに裸にして。俺も裸になって。
ここから家に着くまで、一時間もかかる。ということは、セックスできるのは今から約六時間後か。長いな。長すぎる。いっそ、体調不良とか言って、早退するか? いや、昇格の話が出ているのに、早退なんてしたくない。
「祐二さん」
悩んでいるところで、声を掛けられた。語尾にハートマークが付きそうな喋り方。振り向くまでもなく、誰か分かる。
「お昼ご飯、ご一緒していいですか?」
「ああ、もちろん」
顔を上げて、俺は、亜弥に向かって頷いた。
相変わらず綺麗な顔だ。相変わらず大きな胸だ。色気が服を着たら、こんな外見になるんだろう。そんな間抜けなことを考えた。
同時に、名案のように思い浮かんだ。亜弥となら、帰宅して美由紀とするよりも、一時間早くセックスができる。この興奮を、一時間も早く静めることができる。
亜弥が、俺の向かいの席に座った。コンビニの弁当のフタを開ける。フワッと、フタが開いた弁当から湯気が出た。割り箸で、おかずを口に運ぶ。リップの光沢がある、色っぽい唇。
美由紀とは、全然違う。
俺が今求めている女とは、全然違う。
俺が求めているのは、もっと幼い外見の女だ。
俺が求めてるのは、もっと胸が小さい女だ。
俺が求めているのは、もっと背が小さい女だ。
俺が求めているのは、美人というより、可愛いタイプの女だ。
でも、仕方がない。
こんな興奮を抱えたまま、あと六時間も我慢するなんて嫌だ。
こんな興奮を抱えたまま地下鉄に揺られるなんて、絶対に嫌だ。
「なあ、亜弥」
俺は、亜弥の方に身を乗り出した。
「はい?」
亜弥が、首を傾げて俺を見た。綺麗な顔とはアンバランスな、可愛い仕草。大きな目で俺を見つめる彼女の視線は、何かに気付いたらしい。
「祐二さん、もしかして、凄くしたいの?」
亜弥から、敬語が消えた。先日と同じように。
「この間と同じ。すっごくエッチな顔してるよ」
そうだろう。俺は今、先日と同じ気持ちなのだから。
少しでも早く──一秒でも早く、この興奮を誰かにぶつけたい。家に帰るまでの時間すら惜しい。
美由紀を相手にするのが理想だ。でも、時間を短縮できるなら、誰でもいい。早く解放されたい。早く発散したい。
「わかるか?」
亜弥と、熱っぽく視線を絡ませる。
彼女は自分の唇を舐めて、ふふ、と笑った。
「わかるよ。そんな祐二さんの顔みてると、私まで興奮しそうだもん」
綺麗な顔立ちによく似合う、色っぽいセリフと色っぽい仕草。
違う。俺が求めているは、こんな女じゃない。
でも、この際、どうでもいい。
「じゃあ、今日も、一番出口のところで」
「何時頃になりそう?」
「定時で上がる」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
頷いてから、俺は言い直した。
「いや、仕事は大丈夫だけど、仕事じゃない方は、大丈夫じゃない」
亜弥は一瞬キョトンとした後、プッと吹き出した。口元に手を当てる。細くて綺麗な指。手荒れなんて、まったくない。家事など縁遠い手と指。
「いいよ」
亜弥がますます色気を出した目付きで、俺を見た。
「今日も、好きにして」
──結局俺は、今日も、残業を断った。
すぐに亜弥を連れてホテルに入り、乱暴にセックスをした。
自分の下にいるのは、美由紀じゃない。それは、目を閉じて視界を閉じることで、誤魔化した。無駄に大きく揺れる胸の動きは、強く抱き締めることで封じた。耳に届く大きな嬌声は、唇を塞いで黙らせた。
それでもやっぱり、美由紀とは違った。
こんなに興奮していたのに、俺は、二回しかできなかった。