第六話
美由紀の小説が更新されたのは、前回の更新から三日後だった。
今まで知らなかった妻の新しい一面を知り、そのギャップに興奮した。どうしようもなく興奮し、業後には、亜弥と滅茶苦茶にセックスをした。
その、三日後。
思っていた通り、美由紀は、興信所から、俺の動きの報告を受けていたようだ。
亜弥はあの日、ホテルの中でも帰り際にも、何度も「大好き」と繰り返していた。
その内容が記されていた。
※ ※ ※ ※ ※
興信所は、私が想像していたよりも遙かに優秀なようだ。夫と綾さんの密会現場。夜でも鮮明に撮れている写真。写真だけじゃなく、動画まで撮ってくれた。
動画は夫達と距離をおいて撮っているはずなのに、どうやったのか、彼等の声まで拾っていた。
ホテルから出て、駅まで一緒に歩いている。
綾さんは、夫の腕にしがみついていた。綺麗な顔立ちなのに、仕草や行動には可愛らしさを感じる。夫のことが大好きと、豊かな表情で語っている。
もちろん綾さんは、表情だけじゃなく、しっかりと言葉にして夫に伝えていた。満面の笑みで。別れ際にも、当たり前のように。
「また明日ね、祐二さん。大好きだよ」
そういえば私は、夫に、ちゃんと「好き」と伝えたことがあっただろうか。交際期間を含めて七年。その間に、私は、しっかりと夫に愛情表現をしていただろうか。
記憶になかった。どれだけ頭の中を探してみても、見つからない。私が夫に「好き」と伝えた記憶が、浮んでこない。
当たり前だ。私自身が、言葉にすることを敬遠していたのだから。
私は、可愛くない女だ。表情に感情が出にくい。意図的に顔の筋肉を動かして、笑うことはできる。けれど、綾さんみたいに、自分の感情を表に出して笑うことができない。どんなに好きだと思っていても、それを顔に出して表現することができない。
夫の気持ちが離れていくのも、当然かも。
だからといって、夫に捨てられたくはない。別れたくない。綾さんに渡したくない。
あなたが綾さんに会ってもいい。彼女とセックスしてもいい。
でも、私をあたなの妻でいさせて。私の側にいて。私を捨てないで。
願いばかりが募る。してほしいことばかり頭に浮ぶ。なんて身勝手な女だろう。
夫に願うだけじゃ駄目だ。そう思い始めた。
ちゃんと、夫に伝えないと。
私も、あなたが大好きなの。
綾さんよりもずっと、大好きなの。
あなたに口説かれる前から、あなたのことを素敵だと思っていたの。
あなたに口説かれて、本当は、舞い上がるほど嬉しかったの。
交際期間を含めた七年間、あなたに夢中なの。
ちゃんと伝えたい。できれば、綾さんみたいに、とびっきり可愛らしく。
私は洗面所に行って、鏡を見つめた。
下手をすれば高校生に間違われる童顔。
それなのに表情に乏しくて、可愛らしさがない。
綾さんは、綺麗なうえに可愛いのに。
私は顔の筋肉を動かして、笑顔を作った。
ぎこちない笑顔。
唇を動かしてみる。
「大好き」
ぎこちない笑顔が、わざとらしさを感じさせた。言葉が、嘘っぽい。
目を細めてみたり、もっと口角を上げてみたり。
口をすぼめてみたり、歯を見せてみたり。
色んな顔をして、繰り返してみた。
大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。
口調も色々変えてみた。可愛らしく。綾さんみたいに、語尾にハートマークが付きそうな感じで。
大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。
でも、どうやっても可愛くない。
興信所がくれた綾さんの映像みたいに、可愛くなれない。
だけど、伝えたい。
もう遅いかも知れないけど、夫に伝えたい。
だって、大好きなんだもの。
誰よりも、夫が大好き。
一緒に生きて、できれば一緒に死にたい。
あなたを失った世界で生きるのなんて嫌。
あなただけ残して死ぬのも嫌。
それくらい、あなたが大好き。
私は決意した。
不器用でも、可愛くなくても。
わざとらしくても、嘘っぽくても。
それでも、夫に気持ちを伝えよう。
ずっと、あなたが大好きでした。
あなたが私を口説き始める前から、私はあなたが大好きでした。
※ ※ ※ ※ ※
妻の小説が更新されたのは、今日の昼前だった。
不倫された妻が、夫に伝える「大好き」を練習するシーン。
昼休みの食堂でその内容を読んだ俺は、一刻も早く家に帰りたくなった。
あの美由紀が。
自分の感情を表に出すことのない美由紀が。
俺に「大好き」と伝えようとしている。
それを思うだけで、俺の胸は異常なほど高鳴った。
まるで、初恋のようだ。
心に浮んだ月並みな表現に、つい苦笑してしまう。俺に、美由紀みたいな小説は書けないな。
俺は、今日も残業を断った。亜弥からの誘いも断った。
亜弥は不満そうだったが、具合が悪い振りをした。この間、頑張り過ぎたかな。俺も、もう歳かな。そんなことを言って悪びれた顔をすると、心配してくれた。
でも、今の俺の関心は、亜弥にはない。
俺の心は、美由紀への期待でいっぱいだった。
あの美由紀が、俺に「大好き」と言ってくれる。
付き合い始めてから一度も「好き」なんて言ってくれなかった美由紀が。
業務が終わると、俺は、一目散に会社を後にした。他のSVへの引き継ぎが適当になってしまったが、そんなことなど、どうでもよかった。
あの美由紀が、俺に「大好き」と言ってくれる。
ほとんど表情が変わらず、俺に対する愛情なんてまるで顔に出さなかった美由紀が。
思えば、俺は、今まで、美由紀という女をまるで知らなかった。あんなに情が深い女だなんて、思ってもみなかった。
先日の、小説の内容。俺の不倫を──俺が亜弥とセックスするところを想像して、泣きながらオナニーをしていた美由紀。泣きながら鉢植えを割り、悲しみに暮れていた美由紀。そうかと思えば、俺の気持ちを取り戻そうと、必死に「大好き」と伝える練習をする美由紀。
どれもこれもが新鮮だった。どれもこれもが、今までの美由紀からは考えられないものだった。
俺の頭の中は、もう、美由紀のことでいっぱいだった。
地下鉄に揺られ、下車し、帰り道を急いだ。
暮らし慣れた二LDKのマンションの一室。それが、まるで知らない場所のようだった。初めて来たラブホテルに入るときのような、期待と興奮。
そわそわしながら、俺は、鍵を開けて家の中に入った。
「ただいま」
声を掛けて、リビングに足を運んだ。
美由紀は、夕食の準備をしていた。
「おかえりなさい、祐二さん。今日は早いんだね」
「ああ、早く終わったんだ」
美由紀の表情は、いつもと変わらないように見える。しかし、少しだけ違う気がする。若干、固くなっているような。それはきっと、俺の気のせいなんかじゃない。
美由紀は、緊張しているんだ。俺に「大好き」と伝えることに。きっとそうだ。
「すぐに夕飯、用意するから。私もまだだから、一緒に食べる?」
「ああ」
頷いて、俺はスーツからスウェットに着替えた。
夕食を一緒に食べる。ということは、夕食のときにでも言ってくれるのだろうか。いや、それはあまり期待できないか。そんな、甘い雰囲気に欠けるところで言ったりはしないだろう。いや、でも、そういうことを言い慣れていない美由紀なら、その可能性もあるかも。
意味のない自問自答を繰り返す。期待に胸が膨らむ。
着替えて、テーブルの椅子に腰を下ろした。
すぐに美由紀が夕食を運んできた。
美由紀の料理は旨い。それなのに、俺は、味なんて感じられなかった。ただただ、機械的に食べ物を口に運びながら、チラチラと美由紀の顔を見ていた。
幼い顔をした美由紀は、相変わらずの無表情で食事を口に運んでいる。
俺は、もう知っているんだ。その澄ました表情の奥に、強い感情があることを。俺を愛してやまない気持ちがあることを。俺の不倫を知って、悲しんでいたことを。泣きながら、それでも興奮して、初めてオナニーをしたことを。
俺は知っている。だから、いつでも言っていいんだ。むしろ、言って欲しいんだ。お前が、俺を、どう思っているか。
だが、俺の期待に反して、美由紀は、食事中にその言葉を言ってくれなかった。淡々と食事を済ませて、片付けを始めた。
いや、そうだよな。まさか、食事中なんて色気のない場面で、そんなこと言わないよな。
少なくない落胆を覚えながら、俺は、夕食の残りを口にした。食べ終え、片付けをし、美由紀の言葉を待った。
風呂に入って、髪の毛を乾かして、歯を磨いて。
美由紀は、まだ言ってくれない。
時刻は、いつの間にか午後十時になっていた。
まだか。それとも、今日は言ってくれないのか。もしかして、やっぱり恥ずかしいとか思って、言えなくなっているのか。
期待と落胆。そんな感情を、この一、二時間の間に何度も味わっていた。ちょっと美由紀に声を掛けられるだけで、心臓が跳ね上がりそうだった。
でも、未だに、美由紀は言ってくれない。
時刻が、午後十時半になった。
「祐二さん」
美由紀に声を掛けられて、俺の心臓は、また跳ね上がりそうになった。
「なんだ?」
できるだけ平静を装う。美由紀の無表情を、少しだけ羨ましいと思った。
「あの……少し早いかも知れないけど、今日は、一緒にベッドに入らない?」
美由紀の顔が少しだけ赤く見えるのは、気のせいだろうか。気のせいではないはずだ。これまでの俺なら見逃していた。今の俺は、見逃さない。感情表現に乏しい、美由紀の変化を。
「ああ。そうだな。たまには、一緒にベッドに入るか」
心臓が早鐘を打っていた。期待が高まる。心臓の鼓動が速くなる。
寝室に一緒に行って、一緒にダブルベッドに入った。
明かりを消した。
でも、眠くなんてない。眠くなるはずがない。こんなに期待し、興奮しているのだから。
隣合わせの枕。一緒に使っている、大きめの羽毛布団。互いの寝息さえ聞こえる距離。当たり前のように、美由紀との距離は近い。けれど、今まで、心の距離は離れていた。俺は、美由紀という女を何も知らなかった。
今は違う。俺は、美由紀が何を思っているのか、知っている。
暗闇に目が慣れてきた。うっすらと、寝室が見渡せる。
「ねえ、祐二さん」
美由紀が、声を掛けてきた。
「もう寝ちゃった?」
「いや、まだ起きてる。どうした?」
「眠い?」
俺は固唾を飲み込んだ。
「それほどは。というより、あんまり眠くない」
「あの、ね。聞いて欲しいの」
一緒に羽織っている羽毛布団が動く。衣擦れの音。美由紀がこちらを向いたのが、彼女を見なくても分かる。
俺は、首だけ動かして美由紀を見た。できるだけ冷静を装った。
暗闇で、視線が重なった。
「どうした?」
そう聞いたが、俺には分かっている。美由紀が、俺に、何を言おうとしているのか。
「あの、ね。いきなりこんなこと言うのは変かも知れないし、少し恥ずかしいんだけど……」
美由紀の言葉が詰まった。
俺は何も言葉を返さなかった。返せなかった。期待で、変な声が出そうで。
美由紀が、俺に体を寄せてきた。体が密着する。そういえば、こんなに彼女に近付くのは、ずいぶん久し振りだ。
「あのね、祐二さん」
「あ、ああ」
間抜けな声を出してしまった。期待が過ぎて、緊張しているのかも知れない。
「私、ね。今までずっと言えなかったけど……」
美由紀は、俺から視線を逸らした。恥ずかしそうに俯いた。
「……祐二さんのこと、大好きなの」
ドクンッ、と強く、心臓が脈打った。俺の頭の中で、何かが弾けたような感じがした。
期待が大きかった分だけ、衝撃が大きかった。
体が、柔らかく溶け出しそうた。それほどまでに甘美な、美由紀の言葉の響き。それなのに、体の一部だけ固くする、刺激的な響き。
俺の理性は弾けた。
「美由紀」
俺は美由紀を抱き寄せると、強引に唇を奪った。
んんっ、と美由紀が吐息を漏らす。その声がなんだか可愛くて、愛しくて、たまらなくなった。
唇を離すと、美由紀は、ハアッと息をついた。
俺は、彼女に休ませる暇を与えなかった。理性が弾けた俺は、自分の興奮のままに体を動かした。むしり取るように、彼女の着ているものを脱がせた。
美由紀は、抵抗しなかった。ただ、途中途中で、俺に抱き付きたそうな仕草をしていた。その顔は、どこか切なそうにも見えた。
俺も裸になって、美由紀に覆い被さった。
この日、俺は、三年振りに、美由紀とセックスをした。
気持ちが高揚して、興奮して、立て続けに三回も。