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第五話


 美由紀が作った弁当を食べながら、俺は、彼女の小説を読んでいた。


 途中から、箸の動きは完全に止まっていた。


 驚いた、としか言いようがなかった。


 美由紀は、感情の薄い女だと思っていた。いつも無表情で、喜びも悲しみも顔に出ることはない。そういえば俺は、彼女に「好き」と言われたこともなかった。


 一緒に働いていたときの電話対応で、美由紀は、客に合せて上手に声の表情を変えていた。笑った声。申し訳なさそうな声。普段の美由紀から、俺は、演技だと思っていた。仕事のできる演技派。


 それが間違いだったと気付かされた。


 美由紀は、こんなにも強い感情の持ち主だったんだ。ただ、それが表に出ないだけ。自分を表現するのが下手なだけ。演技では感情を見せることができる。でも、本心を上手に出せない。


 ドクン、と心臓が強く脈打った。


 俺は画面をスクロールして、再度、美由紀の小説を読み返した。彼女が、オナニーをするシーン。彼女にとって、初めてのオナニー。


『私はつい、手を動かした』

『あなたと付き合うまで、セックスなんてしたことのなかった体』

『あなた以外の男の人を、知らない体』

『その体に、私は、生まれて初めて自分の指を伸ばした』

『驚くほど濡れていて』

『初めて、自分で自分を慰めた』

『初めてのオナニーは、とても不器用で』

『自分を刺激する場所が分かっているはずなのに、上手くいかなくて』

『満足できるまで、一時間もかかった』


 ゴクリと、生唾を飲み込んだ。


 小説に書いている通り、美由紀は、俺が初めての男だった。


 初めてのときはひどく痛がっていたが、それでも「続けていいよ」と言っていた。「結婚したら、当たり前にするんだから。だから、いいよ」と。


 その健気な様子に俺は興奮して、遠慮も加減もできなかった。


 あれから七年近く経つが、未だに美由紀は、亜弥のような淫らな声を上げることはない。まあ、もう三年も美由紀としてないんだけど。


 すっかりセックスレスな美由紀が、自分で自分を慰めている。俺しか知らない美由紀が、自分で自分を慰めている。きっと、自分の指を、俺に見立てて。


 強い心臓の鼓動が、連続する。ドクンドクンと、うるさいくらいだ。


 弁当を食べることなんて、すでに頭の中になかった。食欲よりも強い欲求が、俺の頭の中を支配していた。美由紀の小さな胸。美由紀の小さな体。どこか苦しそうに漏れる吐息。しばらく見ていない美由紀の裸が、頭の中に浮んだ。彼女が、その小さな体を丸めて、自分で自分を慰めている。


 初めて知る美由紀の姿に──これまで知っていた美由紀とのギャップに、俺はひどく興奮していた。


「祐二さん」


 何度も美由紀のオナニーシーンをスクロールして見返していると、唐突に声を掛けられた。


 ビクンッと肩を震わせて、俺は視線を移動させた。声や呼び方でそれが誰なのか、分かってはいたが。語尾にハートマークが付きそうな呼び方。


 亜弥だった。綺麗な顔立ち。大きな胸。少し前屈みになって、俺を覗き込むように見ている。


「一緒に食べてもいいですか?」

「あ、ああ」


 つい、少し言葉が詰まってしまう。


 俺はスマホのホームアイコンをタップして、ディスクトップを表示させた。


 亜弥はコンビニで買ってきたと思われる弁当を出し、食べ始めた。口からは、甘えるような声。午前中に対応した面倒な客の愚痴だった。


 色っぽい唇が、動いている。目を下に動かすと、大きく膨らんだ胸。つい、何度も見ている亜弥の裸を想像した。大きく揺れる胸。色白の肌。ピンク色の、やや大きめの乳首。


 美由紀の小説を読んで湧き出てきた興奮は、まだ冷めていない。冷める気配すらない。


「亜弥」

「何ですか?」

「今日の業後に会えるか?」


 少しでも早く──一秒でも早く、この興奮を誰かにぶつけたい。家に帰るまでの時間すら惜しい。


 亜弥は、嬉しそうに微笑んだ。


「大丈夫ですよ。嬉しいな。祐二さんから誘われるなんて。しばらく、私ばっかり誘ってたから」


 そうだったか。まるで意識していなかった。


「でも、今日は、残業はないんですか?」

「用事があるって言って、早く切り上げる。だから、駅の一番出口で待っててくれ」


 会社近くの地下鉄駅。その一番出口。すぐ近くに、ホテルがある。


 我慢するのが苦しい。正直なところ、午後の仕事だってまともにできるか分からない。それくらい、俺は興奮していた。はっきり言って、誰でもよかった。この欲求を発散できるのであれば。


「はい」


 相変わらずのハートマークが付きそうな声で、亜弥は頷いた。ふふっ、と小さく笑う。


「祐二さん、なんか、欲求不満そうな顔してる」


 会社の中では敬語で、というのが亜弥なりのルールだった。けれど今は、二人っきりで会うときのように言ってきた。


「凄く、したいみたい」


 大当たりだ。けれど、その原因は、亜弥じゃない。


 もちろん、そんなことは口にしない。俺は素直に、正直に応えた。嘘は言わない。ただ、全てを伝えないだけだ。


「ああ。正直なところ、滅茶苦茶にしたい」


 じっと、亜弥の目を見つめて言った。滅茶苦茶にしたい。欲求の発端は、亜弥じゃないけれど。


 俺の馬鹿正直な回答に驚いたのか、亜弥は少しだけキョトンとした。大きな目を、さらに大きくしている。文句なく美人だ。驚いた顔も綺麗だ。淫靡な欲求が似合う、色っぽい美人。美由紀のような、幼さの残る可愛さとは違う。


 そんな色っぽさには似合わない可愛らしい声と様子で、亜弥はまた、ふふっ、と笑った。


「いいよ。好きにしてね」


 無意識のうちに、俺は、亜弥の言葉を美由紀の言葉にすげ替えていた。頭の中で、今の亜弥の言葉を、美由紀に言わせる。


『好きにしてね』


 また、興奮の波に襲われた。心臓の鼓動が、どんどん速くなる。


 俺は亜弥から視線を逸らして、美由紀の弁当を一気に口に押し入れた。まずい、と思った。抱ける女が目の前にいるこの状況は、まずい。我慢が効かなくなる。


 弁当を一気に食べて鞄の中にしまうと、俺は席を立った。


「ごめん。亜弥の顔を見てると我慢できなくなるから、もう行くよ」


 亜弥は、プッ、と吹き出すように笑って、悪戯っぽく俺の動きを視線で追った。


「祐二さんの、えっち」


 無視するわけにもいかず、俺は亜弥に愛想笑いで応えて、食堂を後にした。


 ──午後の業務は、はっきり言って地獄だった。欲求が湧き上がってくる中で、仕事をしなければならない。常に邪念が頭の中心にある。思考の一番重要な部分を乗っ取られたまま、業務をした。頭の回転力は、最悪だった。何をしても、上席対応をしていても、常に頭に浮んでいたのだ。


 美由紀が、自分で自分を慰める姿が。

 そんな美由紀に襲いかかる、自分の姿が。


 昼休憩から通常業務終了までの、約五時間。長い長い時間を終えて、俺は、他のSVに業務の引き継ぎをして、早々に会社を後にした。


 最寄りの地下鉄駅の一番出口では、すでに亜弥が待っていた。


 俺は亜弥の手を取り、すぐに歩き出した。早足。


「ちょっ……祐二さん、慌て過ぎ」


 後ろで亜弥が何か言っているが、気にしている余裕はない。俺の欲求は、爆発しそうだった。


 美由紀が興信所を雇っているなら、きっと、今も見張られているのだろう。ホテルに入るところを、写真に撮られるのだろう。けれど、そんなことなど、どうでもよかった。


 頭の中から、美由紀が消えない。彼女が、自分で自分を慰めている。泣きながら、オナニーしている。俺が不倫するところを想像して。俺が、亜弥とセックスするところを想像して。


 興信所から、今日の俺に関する報告を受けたら、またするのか? またするんだろ? 悲しくて、不安で、でも興奮して。


 息切れするほどの早足でホテルまで来て、部屋に入って。


 亜弥をベッドに押し倒して、キスをした。


 亜弥の口から吐息が漏れた。祐二さぁん、と甘い声を漏らす。


 違う。美由紀は、そんなふうに俺を呼ばない。


 俺は、邪魔な亜弥の服を全て脱がした。乱暴に、むしり取るように。

 俺は、邪魔な自分の服を全て脱ぎ捨てた。皺になることなんて気にする余裕もなく、投げ捨てるように。


 即座に、亜弥の体を貪った。


 俺の動きに合わせて、亜弥の大きな胸が揺れる。

 口から、激しく淫靡な声が出ている。大きな嬌声。


 奇妙な感覚を覚えた。いつもは興奮する亜弥の胸や声に、興奮しない。それどころか、ここに来るまで爆発しそうだった欲求が、萎れてゆく。


 頭の中に、亜弥を否定する言葉が駆け抜けた。


 違う。美由紀の胸は、こんなに揺れない。

 違う。美由紀は、こんな声を出さない。


 俺が求めているのは、明かに、目の前の女ではなかった。

 けれど、そう思って中断しようとすると、また欲求が襲ってきて。

 思い切り発散しなければ、治まりようがなくて。


 俺は、目を閉じた。大きく揺れる胸を見ないように。


 視界が閉ざされて、聴覚が敏感になった。

 耳障りにすら感じる亜弥の声が、頭に響いた。

 キスをして、彼女の口を塞いだ。


 視覚と聴覚を誤魔化すと、自分の下にいるのが美由紀だとイメージできた。彼女にしては体が大き過ぎるが、それは無視できた。


 イメージが固まると、さらに興奮した。


 クールだと思っていた美由紀が、あんなに激しい感情の持ち主だったなんて。


 俺とするまで男を知らなかった美由紀が、ひとりでしているなんて。


 自分の指を自分の体に這わせて、小さな体をさらに縮こまらせて。


 体を丸めて、俺を想って、泣きながら興奮して。


『このままだと、私、あなたを道連れに死んでしまいたくなるから』


 興奮する頭に浮ぶ、美由紀の小説の言葉。


 一緒に死ぬことすら考えるほど、美由紀は俺に惚れているんだ!


 そう思った直後に、俺は達した。

 全身に、驚くほど汗をかいていた。

 息切れがひどい。酸欠になりそうだ。

 よほど激しく動いていたのだろう、急激に全身が重くなった。


 俺は亜弥の上から離れ、彼女の横で寝っ転がった。背中にかいた汗が、シーツに染み込む。ジワリとシーツに広がる汗を、肌で感じた。


 先ほどまで俺の下にいた亜弥が、腕にしがみついてきた。胸を押し付けてくる。Gカップの大きな胸。


「なんか、凄かったね、今日の祐二さん。本当に凄く我慢してたんだ」

「まあ、な」


 ふう、と俺は大きく息をついた。


 我慢していたときとは違い、急激に頭の中がクリアになった。


 どうして俺は、セックスの最中に美由紀のことを考えた? あいつには、もう魅力を感じなくなっていたのに。


 腕にしがみつく亜弥に、視線を移した。大きな胸。薄暗いホテルの部屋でも分かるくらい、綺麗で色っぽい顔立ち。美由紀より七歳も年下の女。若い女。


 美由紀と離婚して、結婚を考えている女。美由紀よりも、遙かに魅力を感じる女。


「なあ、亜弥」


 声を掛けた。セックスの最中にも考えたことが、頭に浮ぶ。


 美由紀の小説の中の言葉。


『このままだと、私、あなたを道連れに死んでしまいたくなるから』


「何? 祐二さん」


 甘ったるい声。いちいち語尾にハートマークが付きそうな口調。


「もし、俺達が絶対に結ばれないとなったら、お前は、俺と一緒に死んでくれるか? 死んででも、俺と一緒にいたいと思うか?」

「当たり前だよ」


 一瞬の躊躇いもなく答えて、亜弥は、強く俺の腕にしがみついた。ギュウッと、胸をさらに押し付けるようにして。


「私、祐二さんのこと、大好きだもん。死んでも一緒にいたいよ」

「……」


 気のせいだろうか。

 亜弥の言葉を、驚くほど軽く感じた。


 美由紀が小説に記した文面に比べると、あまりにも軽く、薄っぺらに。


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