第四話
この一週間、ずっと美由紀の粗を探していた。小説内にそれを臭わせる何かがないかと、彼女の最新作を読み込んだ。けれど、投稿済みの『夫を不倫相手から取り戻したい』を全て読み、さらに三回も読み返したが、それらしいものはなかった。
美由紀の小説で分かったのは、彼女がどれだけ俺のことを愛しているのかということ。どれだけ、俺が不倫することで不安になっているのか、ということ。
美由紀の、無表情に隠れた本心が知れて、多少なりとも罪悪感を覚えた。俺のことを愛しているからこそ、ここまで完璧な妻でいられるんだ、と。そんな彼女を、俺は裏切っているんだ、と。
それでも、どうしようもない。俺は、もう、美由紀に、女としての魅力を感じないんだ。亜弥には、それを感じる。亜弥と一緒にいるとき、俺はひとりの男だと自覚できる。
美由紀には悪いが、俺は、これからは亜弥と生きていたいんだ。生涯、ひとりの男でいたいんだ。
かといって、会社での地位を脅かされるわけにもいかない。俺と美由紀が離婚する、正当な理由がほしい。俺が亜弥と再婚する、正当な理由がほしい。
だから俺は、美由紀の小説を読み込んだ。彼女の粗を探し、俺の望む結果へ結びつけるために。
昼休み。
俺は、食堂で美由紀が作った弁当を食べながら、彼女の小説にアクセスした。
『夫を不倫相手から取り戻したい』
最新話が更新されていた。
これまで更新されていた内容は、暗記できるほど読み込んだ。けれど、そこにあったのは、美由紀の俺に対する気持ちだけ。
何かないか。いっそ、俺と無理心中をする計画でもいい。どうにか粗を探したい。
期待を抱いて、俺は『夫を不倫相手から取り戻したい』の最新話にアクセスした。
※ ※ ※ ※ ※
興信所からの報告を受けて、私はまた落ち込んだ。
夫は相変わらず、綾さんと会っている。会社を出てすぐに彼女と待ち合わせて、時間がないときはすぐにホテルに行って。
私には、残業だと言っている時間。
でも、きっと、あたなにとっては、仕事よりも大事な時間なのね。
悲しい。苦しい。辛い。胸が、ギュッって締め付けられる。
でもね、私、どこか変なの。
すごく嫉妬してるのに。
すごく胸が痛いのに。
あなたが綾さんとセックスしていると思うと、興奮するの。体が熱くなってくるの。
悲しすぎて、頭がおかしくなったのかな。
もう数え切れないくらい届いた、興信所からの報告。あなたが、綾さんとホテルに入っていく写真。二人でピッタリとくっついて、体を寄せ合って。
これから、二人で、ホテルに入って。
これから、二人で、裸になって。
これから、二人で、肌と肌を重ねて。
これから、二人で、互いに求め合うのね。
あなたは、自分の下にいる綾さんに、何を囁くの?
あなたの下にいる綾さんは、どう応えるの?
つい、想像してしまう。
私にとって、悲しくて、苦しくて、不安を煽る光景。
でも、それなのに、私の体は熱くなるの。
息が荒くなって、堪え切れなくなるの。
涙が、ボロボロと零れる。
泣きながら、興奮してるの。
私はつい、手を動かした。
あなたと付き合うまで、セックスなんてしたことのなかった体。
あなた以外の男の人を、知らない体。
その体に、私は、生まれて初めて自分の指を伸ばした。
驚くほど濡れていて。
初めて、自分で自分を慰めた。
初めてのオナニーは、とても不器用で。
自分を刺激する場所が分かっているはずなのに、上手くいかなくて。
満足できるまで、一時間もかかった。
自分の中の興奮が落ち着いて、頭の中が冷静になって。
そうしたら、凄く惨めで。
自分が、情けなくて。
大泣きしちゃった。
子供みたいにわんわん声を出して、泣いちゃった。
自分の心がおかしい。そう自覚できる。
一通り泣いたら、今度は、ひどく悔しくなった。胸が焼けるように熱くなって、何かに気持ちをぶつけないと治まりそうにない。怒りにも似た感情だった。
「あっ……ああああ……」
涙声が出た。涙声だけど、悲しい気持ちだけじゃない。
私は、下半身だけ裸の間抜けな姿で立ち上がった。
目についたのは、リビングの窓際の、鈴蘭の鉢植えだった。
可愛い蕾をつけた鈴蘭。その可愛さに、なんだか苛立った。まるで、あなたが可愛がっている綾さんのようで。
ほとんど無意識のうちに、私は鉢植えを持ち上げた。頭の上まで大きく振りかぶって、思い切り床に叩き付けた。
ガシャンと音を立てて、鉢植えは割れた。土がフローリングの床に散らばって、蕾をつけた可愛い鈴蘭が横たわった。根がむき出しになって、放っておくと死んじゃうことが分かる姿で。
これは、意味のない八つ当たりだ。鈴蘭の姿を見た途端、そう自覚してしまった。
可愛い鈴蘭。このままだと、本当に死んじゃう。でも、うちには、代わりの鉢植えなんてない。
一生懸命土を集めて、山のようにして、そこに鈴蘭を植え直した。ごめんなさい、ごめんなさい、って謝りながら。
急いで出掛ける用意をして、新しい鉢植えを買ってきた。
でも、帰ってきたときには、鈴蘭はもう萎れていて。
私は、また泣いた。ごめんなさいと何度も繰り返しながら泣いた。
可愛い鈴蘭。あなたは悪くないの。
可愛くない私が悪いの。
私は、綾さんのように可愛くなれない。上手に自分の気持ちを表現できない。夫に「好き」と伝えられない。「好き」という感情を、表に出せない。
でも、失いたくないの。
お願いだから、私から夫を奪わないで。
お願いだから、私を捨てないで。
このままだと、私、あなたを道連れに死んでしまいたくなるから。
※ ※ ※ ※ ※