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第三話

 俺は、帰路をトボトボと歩いていた。


 時刻は、午後十時。


 仕事は午後七時には終わった。俺の会社は、長時間残業を禁じている。最近は、働き方にうるさいのだ。離職率の高いコールセンターにおいて、過剰な残業があるという事実は、行政に目を付けられる要因となる。そのため、残業が多くなりそうな場合は、他のSVなどに仕事を引き継いで帰宅させられる。


 けれど俺は、すぐには帰宅しなかった。昼休み中に、食堂で、亜弥から誘われたのだ。


「今晩、少しだけでいいから会えない?」


 亜弥は綺麗な女だ。セーターを着ていても分かる──いや、セーターの上からだからこそ目立つ、胸の膨らみ。リップをつけた、色っぽい唇。大きな目での上目遣い。


 美由紀には、こんな魅力はない。


 ほとんど条件反射で、俺は頷いていた。美由紀の小説を読んで、不安でたまらないのに。


 ──出勤時の地下鉄を降りた後も、俺は、暇を見つけては美由紀の小説に目を通した。


 どうやら美由紀は、完全に、俺達の不倫の全容を掴んでいるようだった。


 俺と亜弥の関係が始まったキッカケも、小説の中にあった。亜弥がクレーマーに因縁をつけられ、俺が上席対応をした。泣いていた彼女を、俺が慰めた。それが始まり。亜弥に礼を言われ、数回食事をし、すぐに体の関係になった。


『奥さんがいても、修二さんが好きなの。できれば、修二さんのお嫁さんになりたい』


 そんな亜弥がチャットで送った言葉まで、小説に書かれていた。


 今日も結局、亜弥の誘いを断れなかった。それほど、今の俺にとって彼女は魅力的だった。つい先ほどまで、全てを忘れたかのように亜弥とのセックスに没頭していた。


 もっとも、することをして亜弥と別れると、一気に心は重くなったが。家に帰る足取りも重い。


 美由紀の小説内に、彼女の粗と言える部分は見つからなかった。いっそのこと、美由紀も不倫をしてくれていたらいいのに。そんなことを考えた。しかし、それを示す内容は、今のところ、小説内にはなかった。


 家に着いた。二LDKのマンションの一室。鍵を開け、玄関に入った。


「ただいま」


 今や形式だけとなった、感情の入っていない帰宅の言葉。新婚の頃は、美由紀がいる家に帰るのが楽しかったのに。


「おかりなさい。晩ご飯、すぐに用意するから。少しだけ待ってて」

「ああ」


 返事をしつつ、美由紀を見た。彼女にしては珍しく、柔和な笑顔を見せていた。いつもは無表情なのに。その笑顔は、どこか苦笑に見えた。


 ふいに、美由紀との始まりを思い出した。七年前だ。彼女は当時、二十三歳だった。今の亜弥と同じ歳。


 美由紀は、電話対応が上手かった。普段の話し方はぶっきらぼうだが、電話では、客に合せて声の表情を変えていた。楽しんでいるような声。悲しんでいるような声。心から詫びるような声。


 その反面、亜弥とは違い、どんな罵詈雑言を客に吐かれても、決して泣いたりしない。常に落ち着いて客対応をしていた。幼い顔立ちは、亜弥よりもよほど泣き顔が似合いそうなのに。


 幼い可愛らしい顔立ち。小柄な体。小さな胸。それに似合わない、冷静で演技派な対応。


 俺は、ギャップに弱いようだ。今更ながら、そんな自己分析をした。美由紀に惚れたときも、亜弥をいいなと思ったときも、キッカケは、彼女達が見せるギャップだった。


 とはいえ、今となっては、美由紀に惚れたキッカケなんてどうでもいい。今の俺は、美由紀に好意を抱けない。いい妻だとは思うが、いい女だとは思えない。


 スーツからスウェットに着替えて、俺は、リビングのテーブル席に腰を下ろした。


 頭の中にあるのは、ひとつだけだった。どうやって、美由紀の粗を探すか。小説内には、今のところ見当たらない。


 いっそ、俺も、興信所でも雇うか。


 いや、何の根拠もなくそんなことをしても、意味がない。金の無駄になる可能性がある。まずは根拠がほしい。美由紀の粗を見つけられる根拠。


 どうにか美由紀の粗を見つけて、俺の不倫と相殺できるような罪を美由紀に突きつけて。


 その後は、どうしようか。


 亜弥が言っていたな。美由紀の小説にも書いてあった。


『お嫁さんになりたい』


 それもいいかもな。交際期間も含めて七年付き合った美由紀を捨てて、俺より十五歳も若い亜弥と再婚する。あの体を、自宅で、毎日好きにできる。考えるだけで素晴らしい結末だ。


 そうだ。誰かが言っていた。ピンチはチャンスだ、と。


 不倫がバレているピンチは、俺にとってはチャンスなんだ。美由紀を捨てて、亜弥と再婚するチャンス。


 キッチンから、美由紀が夕食を運んできた。下ごしらえを済ませていたのだろう、下手な定食屋よりもよっぽど早い。いい妻ではあるんだけどな。


「はい、祐二さん」

「ああ、ありがとう」


 形だけの礼を言って、俺は夕食を口に運ぶ。家事は完璧。料理も上手い。ワイシャツには、いつもアイロンがしっかりと掛かっている。


 妻としては満点なんだけどな。


 再度、美由紀に対する不満を心の中で呟いた。家事は完璧。趣味は読書と鉢植えの鈴蘭。できた妻の見本市みたいだ。


 そんなことを考えて、ふいに気付いた。窓際にあった鈴蘭が、なくなっていた。いつも、閉めたカーテンの前にある、鈴蘭。


「美由紀」

「はい?」


 食器を洗いながら、美由紀はこちらに顔を向けた。


「どうしたの? 祐二さん」

「鈴蘭、どうしたんだ?」

「ああ、鈴蘭、ね」


 美由紀は少し困った顔を見せた。帰ってきたときに見せた笑顔といい、ここまで彼女の表情が動くのは珍しい。


「水をあげるときに、落として、割っちゃったの。他の鉢植えもなくて、仕方ないから買いに行って。でも、帰ってきたら、枯れちゃってて」


 鈴蘭は、そんなにすぐに枯れるものなのだろうか。植物は、どれもこれも生命力が強いイメージがあったけど。


 何より、完璧な主婦と言える美由紀がそんなミスをしたことに、違和感を覚えた。


 まあ、どうでもいいか。


「そうなのか」


 一言だけ返して、俺は、頭の中の違和感をすぐに切り捨てた。


 今は、これからのことを考えよう。どうにかして美由紀の粗を探して、離婚して、亜弥と一緒になる道を探すんだ。


 つい先ほどまでの亜弥とのセックスが、俺の頭と心に思い起こされた。俺の動きに合わせて、大きく揺れる胸。耳の奥に響き、興奮を高める喘ぎ声。事後は、大きな胸を押し付けるように抱き付いてきて、甘えるように言っていた。


『祐二さん、大好き』


 チャットで打った文面なら、間違いなく語尾にハートマークが付いていただろう。そんなふうに甘える亜弥を、心底、可愛くて愛おしいと思えた。


 亜弥との密会を思い出せば思い出すほど、今の美由紀との生活がつまらなく感じる。


 亜弥とのセックスを思い出せば思い出すほど、美由紀に魅力を感じなくなる。


 亜弥に甘えられたときのことを思い出せば思い出すほど、彼女と再婚することに夢を抱いてしまう。


 美由紀に不倫がバレていると気付いたのは、今朝のこと。それから今までの半日少々で、俺の気持ちは、離婚に大きく動いていた。


 そのためにも、どうにかして、美由紀の粗を探したい。

 どうにかして、痛手なく離婚したい。


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[良い点] とりあえずゆうじさん一発殴りたいです(๑•ૅㅁ•๑)
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