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第二話


 昨晩は美由紀の小説を読み込んでしまった。おかげで、すっかり寝不足だ。


 午前七時半。


 俺は、通勤中の地下鉄の中にいる。


 朝のラッシュで、電車内は鮨詰め状態。隣にいる太った中年の男が、どことなく油臭い。全方向から中年の男に押される感触は、はっきり言って不快だ。これが若くて綺麗な女なら、話は別なんだが。


 決して広くないスペースで体を動かし、俺は、ポケットからスマホを取り出した。昨晩、美由紀から貰ったAndroidではない。自分のスマホだ。これなら、外でもデータ通信ができる。


 美由紀の小説を読みたい。出勤時間という、人生において無駄でしかないと思える時間。その時間を、俺は今まで勉強に充てていた。けれど今は、美由紀の小説を読むのに充てたかった。


『小説家になるよ』のサイトを開く。美由紀のペンネームを検索する。美由という、適当に考えたとしか思えないペンネーム。


 美由紀の作品一覧が出てきた。


 美由紀のマイページから見たときは、古い順に作品が並んでいた。けれど今回は、新しい順に並んでいる。


 サイト内の設定で、順番を変えられるのだろうか。


 頭に浮んだそんな疑問は、美由紀の最新作のタイトルを見た瞬間に、木の葉のように吹き飛ばされた。


 あまりに強烈なタイトルだったのだ、美由紀の最新作は。


 他の読者がどう思うかは分からない。けれど、俺にとっては、強烈な一撃をもらったくらいに衝撃的だった。


 ──夫を不倫相手から取り戻したい──


 季節は、もうすぐ冬を迎える。十一月。


 そんな季節に似合わない汗が、脇から染み出すのを感じた。じわりとワイシャツを濡らす。気持ち悪い。汗が滲み出ているのに、寒気が、背筋を走った。


 まさか、美由紀の奴、俺が亜弥と不倫していることに気付いているのか?


 いや、まさか。偶然だ。たまたま、美由紀が、不倫を題材にした小説を書いているだけだ。


 そんな俺の希望的観測は、物語を読み始めた途端に砕け散った。


 主人公である妻の名前は、笹島未希(みき)

 不倫している主人公の夫は、笹島修二(しゅうじ)

 夫の不倫相手の女は、和泉綾。


 名字なんて、俺達と同じ。名前も、少し変えるか、漢字だけ変えて読み方は同じか。

 偶然だったら、どんな天文学的な確率だよ。


 人物設定まで、現実そのままだった。


 主人公の未希は三十歳。童顔で小柄。胸が小さい。Bカップというサイズまで同じだ。

 夫の修二がコールセンターのSVという設定まで、現実通り。

 不倫相手の綾の体型や性格、Gカップというサイズ、年齢まで現実通り。


 もしかしたら、美由紀が不倫を知った経緯まで現実通りに記されているのかも知れない。


 決して季節のせいではない寒さを感じながら、俺は、美由紀の小説を読み進めた。


 ※ ※ ※ ※ ※


 【第一話 発端】


 私は不器用で、つまらない女だ。

 それを自覚しているけど、なかなか変えられない。


 可愛い女の子は、よく笑う。愛想よく、楽しそうに笑う。

 可愛い女の子は、悲しいと涙を見せる。綺麗な、滴のような涙を頬にひと筋。目で、自分の気持ちを訴える。


 私には、それができない。

 夫と話していると、楽しいのに。

 夫と一緒にいると、幸せなのに。


 こんな不器用で可愛くない自分が、嫌になる。


 でも、夫は、そんな私を愛してくれた。何度も口説いてくれた。


 結婚前。夫と付き合い始める前。

 私も、夫を素敵な人だと思っていた。職場の上司だった夫。仕事ができる。リーダーシップもある。見た目も格好いい。当時すでに三十を過ぎていたけど、そんなことなど感じさせない若々しさもあった。


 そんな夫に口説かれ、私は、一瞬だけ舞い上がった。天にも昇るような気持ちになった。胸が温かくなって、フワリと宙に浮く感じ。まるで気球みたいだ。


 でも、気球は、すぐに地に落ちた。


 私は知っている。私が、つまらない女だと。

 付き合ったとしても、すぐに夫は私に飽きる。

 他の女のところに行ってしまう。


 だから私は、夫の誘いを断った。失ってしまうくらいなら、最初からない方がいいから。失う辛さは、最初からない辛さよりも遙かに大きいから。


 けれど夫は、諦めてくれなかった。

 

 私を度々食事に誘い、甘い言葉を囁き続けた。


 私はそれまでセックスの経験がなかったけれど、夫の言葉に体が熱くなった。言葉だけじゃない。その声や表情、仕草に。体が熱くなって、ジワリと湿度を帯びてきて。心臓の動きが速くなる。私の小さな胸が、張り裂けそうなくらいにドクンドクンと鳴った。


 興奮して、夫を欲してる自分を自覚させられた。


 けれど、得たものを失うのは嫌だ。夫が欲しい。でも、失いたくない。


 だから私は、口説いてくる夫に、こんな条件を突きつけた。これで断られたら諦めよう、と決意して。


「遊びで付き合いたくないんです。だから、付き合うなら、一年後には結婚を見据えるような──そんな、真剣な付き合いをしてくれますか?」


 夫は、快く頷いてくれた。


「俺だって、真剣に付き合いたい。遊びで口説いているわけじゃない」


 私達の約束は、現実となった。付き合って一年後には結婚した。俗に言うスピード婚だったから、結婚式は挙げずに、ウェディングフォトだけだったけど。


 それでも私は、幸せだった。こんな私に、こんな素敵な人が。そんな気持ちで満たされて、結婚生活の毎日が、宝物のようになった。


 だから、結婚後は、専業主婦にしてもらった。しっかりと家事をこなして、夫に気持ちよく生活してほしくて。すれ違いなく夫と顔を合わせられる環境にいたくて。


 この幸せな家庭を守るために、私は、決して手を抜くことなく家事をこなした。


 夫も、満足していると思っていた。


 気を張りすぎて、夜はすぐに眠くなってしまう。夫よりも先に眠りについてしまうのが、申し訳なかった。その分、翌朝の彼のお弁当作りには力を入れていた。


 幸せな家庭だと思っていた。愛されていると思っていた。


 でも、そんな幸せは、たったひとつのメッセージで消え去った。


 ううん。すでに幸せが幻想であったと、メッセージが知らせてくれたんだ。


 夫がお風呂に入っているとき。

 テーブルの上にあった彼のスマホから、着信音が鳴った。画面が明るくなった。


 チャットアプリの通知だった。


 たまたま近くにいた私は、ポップアップで出たその内容を見てしまった。


『今日も凄かったね。次はいつ会えるの?』


 ハートマーク入りの、可愛いメッセージ。差出人の「綾」という名前。


 ただの部下からのメッセージとは思えない。

 ただの友達からのメッセージとも思えない。


 失うかも知れないという恐怖に、私は、ガタガタと震えた。


 ※ ※ ※ ※ ※


 地下鉄に揺られながら、俺は、美由紀の小説を閉じた。


 狭いスペースの中で、親指だけでスマホを操作する。表示したのは、チャットアプリ。


 亜弥とのチャット履歴を開いた。上にスクロールして、古いメッセージを読み返した。


 小説内のやり取りに該当するメッセージを発見できた。二ヶ月ほど前の、亜弥とのやり取り。


『今日も凄かったね♥ 次はいつ会えるの?』


 小説内ではハートマークまで再現されていなかったが、間違いない。


 美由紀は、二ヶ月前のこのメッセージで、俺と亜弥の不倫に気付いたんだ。


 しかも、小説に書いてある情報は、メッセージを見ただけでわかるものではなかった。小説通りに、興信所に依頼して調査しているんだ。でなければ、亜弥のフルネームや身長や胸のサイズまで、分かるはずがない。


 ガタンガタン、と地下鉄が揺れている。

 前後左右から、中年の男に押されている。


 本来なら不快感に満ちているはずの、この通勤ラッシュの中。


 その状況で俺が感じていたのは、不快感ではなく、焦りだった。


 スマホを持つ手が、細かく震えていた。


 俺と美由紀は職場結婚だ。当然、上司も部下も、俺達が結婚したことを知っている。その状況で、もし、俺が亜弥と付き合っていることを知られたら。


 俺の印象が悪くなるのは間違いない。けれど、それだけでは済まないかも知れない。


 美由紀は、コールセンターのオペレーターとして優秀だった。正社員登用の話も出ていたくらいだ。それなのに、俺との結婚を機に退職した。上司達の引き止める声も断って。


 そんな美由紀を裏切っていたなんて、周囲に知られたら。


 俺には、さらなる昇進の話も出ている。SVよりさらに上の、マネージャー職。客対応に直接関わる職位ではなく、さらに上から現場を管理する職位だ。つまり、結婚当時、美由紀の退職を引き止めた上司達の職位。


 そんな職位になる人間が、美由紀を裏切ったなんて知られたら。

 惜しまれながらも結婚を理由に退職した美由紀を、裏切っていたなんて知られたら。


 昇進どころか、下手をすれば降格だってあり得る。


 俺は、スマホを握る手に力を入れた。震えが止まった。


 落ち着け、と自分に言い聞かせた。


 落ち着け。危機を脱する方法がないわけじゃない。美由紀が妻として不誠実で、俺が、不倫に走る正当な理由があれば。それならば、俺の罪は美由紀の罪と相殺される。


 俺は再び『小説家になるよ』を開いた。美由紀の小説が事実を元に書かれているのなら、彼女の粗を探せるかも知れない。


 そんな、当初とは違った目的で、俺は美由紀の小説を読み進めた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんにちは! いやーーーーやっと読みにこれました! 「これなら軽めかな?」と思ったらそんなことなくて、「さすが一布さんっ!!!」と、ベッドの上でぐでたま状態です。 美由紀さんの、思いのこ…
[良い点] 男性と女性の考えの違いが如実に描かれていて最高でした! 小説内の小説も面白いなんて、すごいです(*≧∀≦*) 粗探しをしてやろうとする辺りがもうクズですね。 物語として読む分には面白い展開…
2022/04/26 22:44 退会済み
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