エピローグ
笹島美由紀──旧姓は佐藤──は、高校時代に演劇部に所属していた。
二年生のとき、三年生が引退して、脚本を書く部員がいなくなった。それまでは、先輩に任せっきりだった。
脚本書きの白羽の矢が立ったのは、美由紀だった。他の部員に推薦された理由なんて、もう覚えていない。ただ、当時は、慣れない脚本書きに必死で、何度も推敲して、なんとか書き上げた。
大変だったけど、楽しかった。
書き上げたときの達成感。自分の手の中で登場人物に命が吹き込まれ、物語ができあがってゆく充実感。その魅力に取り憑かれた。
美由紀が書いた脚本の劇は、すこぶる好評だった。
物語を作る楽しさと同時に、美由紀は、感想を貰える楽しさまで知った。
美由紀にとって「物語を書くこと」は、自分の人生に必要不可欠なものとなった。
短大へ進学し、勉強を適当にこなし、小説をひたすら必死に書き続けた。人の目に触れて欲しくて、WEB小説への投稿を始めた。
卒業しても、普通に就職はしなかった。小説を書く時間を確保できる仕事を探した。それがコールセンターの仕事だった。しつこい客からの電話を受けない限り、ほぼ定時で帰宅できる仕事。
仕事は、ただ生活するための手段に過ぎなかった。だから、淡々とこなせた。面倒な客相手でも、演劇部時代の経験を活かして、上手く対応できた。
そんな日常の中で、ある日を境に、上司に口説かれ始めた。笹島祐二。同僚の女性からも人気があるSVだった。
自分の何がよかったのか。そんな疑問を持ちつつも、美由紀は、笹島からのアプローチを適当に受け流していた。恋人なんかできてデートなどをするようになったら、小説を書く時間が削られる。それが嫌だった。
笹島のことは、特に嫌いではなかった。かといって、好きでもなかった。
ある日のことだ。自作の小説について、もの凄いアイデアが浮んだ。仕事中に、だ。
仕事中だから、メモには残せない。
運悪く、仕事の繁忙期だった。問い合わせの数が多い。業務が終わる頃には、確かに頭の中に浮んでいたアイデアを、すっかり忘れてしまっていた。
働きたくない。少なくとも、いいアイデアが浮んだら、すぐにメモに残せる環境にいたい。
そう考えたときに、ふと思った。結婚して専業主婦になれば、家事の合間にメモを残すことは可能だ。自分のアイデアを、絶えず残すことができる。
笹島と付き合って、早々に結婚してしまえば。
自分にアプローチしてくる笹島に、美由紀は告げた。結婚を考えた付き合いがしたい、と。
彼は快く頷き、交際が始まった。
付き合いの中で気付いたが、笹島は──祐二は、女が見せるギャップに魅力を感じるタイプだった。彼が自分に惚れた理由を、美由紀は理解した。
幼い顔立ちと小柄な体型の美由紀は、しばしば、弱そうに見られる。肉体的にも、精神的にも。そんな外見に反して、どんなひどい客相手でも、泣くことも怒ることもなく対応できる。
祐二は、そんな美由紀のギャップに魅力を感じたのだ。
付き合い始めの約束の通り、祐二と美由紀は交際一年で結婚した。佐藤美由紀は笹島美由紀になり、会社を退職して専業主婦となった。
完璧に家事をこなすのは決して簡単ではなかった。けれど、仕事をしていた今までよりも、遙かに小説を書くことに集中できる。頭に浮んだアイデアを、取りこぼすこともない。
結婚生活は、美由紀にとって理想といっていい環境だった。
その結果、毎年行われている「ネット文学大賞」で、大賞を受賞した。賞金の百万円は、税金で引かれた分の残りを、全て自分のへそくりにした。
大賞を受賞してから、美由紀が投稿しているWEB小説のアクセス数は格段に増え、多くの感想が寄せられるようになった。
それから、しばらくしてからだった。
祐二の浮気──不倫に気付いたのは。
正直なところ、祐二が不倫していても、どうでもよかった。この結婚生活さえ維持してくれるのなら。
だが、ふいに不安になった。祐二の不倫相手は二三歳。自分より七つも若い。さらに美人で、男好きのする体をしている。祐二との結婚を望むような会話まで、チャットでしている。
不倫なんて、いくらでもしていい。どこで誰と寝てもいい。でも、この結婚生活を破綻されるのは困る。
美由紀は、興信所を雇って祐二の調査を開始した。費用は、ネット文学大賞の賞金と、書籍化で得た収入を充てた。
同時に、祐二の性格と彼の行動から、対策を考えた。
離婚の話を出されない一番の方法は、祐二の心を取り戻すことだ。正直なところ、これはそれほど難しくない。彼は、ギャップに弱い。今まで祐二に見せなかった一面を見せれば、彼は、簡単にこちらに傾くだろう。
問題は、それをどうやって行うか、だった。
着目したのは、祐二のスマートフォンだった。彼は、電子書籍でビジネス書を読んでいる。そのスマートフォンの動作を遅くして、美由紀のスマートフォンを使わせよう。美由紀のスマートフォンから、普段の美由紀からは考えられない心情が書かれた小説を読ませよう。
美由紀は、夜中に、こっそりと、祐二のスマートフォンに多数のアプリをインストールした。彼のスマートフォンの動きが重くなるように。インストールしたアプリは隠しフォルダに入れて、彼自身の目につかないようにした。
もちろん、他に二の矢三の矢も用意はしておいた。
けれど祐二は、見事過ぎるほど、美由紀の思惑通りに動いてくれた。
美由紀から譲られたスマートフォン。残しておいた、「小説家になるよ」のショートカット。祐二は、そこから美由紀のマイページにアクセスし、美由紀の小説を興味本位で読み始めた。
最新作である『夫を不倫相手から取り戻したい』を見つけた。読み始めた。そこに書かれた主人公の心情を美由紀の本心と錯覚し、大きく揺れ動いてくれた。
高校時代に培った演技力で「大好き」と伝えると、祐二はひどく興奮していた。
しつこくセックスされるのは、正直、少し面倒だった。美由紀は、もともとセックスが好きではない。流石にもう痛くはないが。
「でも、やっぱりたまに痛いかな。あの、徹夜でした日とか」
あの翌日は、ずっとヒリヒリしていた。薬局に行って軟膏を購入し、痛みを和らげるために塗った。
それでも、概ね思っていた通りに、祐二は亜弥と別れた。自分のところに戻ってきた。
目下の悩みは、毎日セックスを求めてくるところか。少し面倒臭い。せめて、一日一回で済ませて欲しい。
「まあ、それも、時間の問題か」
祐二の気持ちは、今は、美由紀に向いている。しばらくは、不倫などしないだろう。
でも、彼は、ほぼ確実にまた不倫する。今抱いている、美由紀に対する興奮が冷めてきたら。美由紀に飽きてきて、今のセックスの回数が、そのうち、一日に一回になり、一週間に一回になり、一ヶ月に一回になり、半年に一回になり。
いずれまた、セックスレスになって。
祐二は、自分の欲求を満たしてくれる女を探すだろう。
彼のような男が、一途に一人の女を大切にすることなど、まずない。
それでもいい。今の生活を維持してくれるのなら。
小説を書くのに最適な環境を、自分に提供してくれるのなら。
珍しく、美由紀の表情が動いた。口の端が、少しだけ上がった。
──お仕事頑張ってね、あなた。私が小説を書く環境を、維持するために。
もしも、この先。
もし、書籍化された自分の小説が凄く売れて。
それこそ、小説の収入だけで問題なく生きていけるようになったら。
誰に手助けされることもなく、自分の力だけで、執筆に最適な環境を得られるようになったら。
「そのときは、今度こそ、自由にしてあげる」
家事を終えて、美由紀は今日も、パソコンに向かった。
押し入れの奥には、祐二の不倫の証拠が保管されている。