幕開け
空には果てしない青。そして、点々と広がる雲の白。その小さな世界はどこまでも続き、人間に多くの可能性を見せている。
古くから人間は変わらない空に何かを求め続けた。初めは空に祈りを捧げた。それは〈 占い 〉という形であれ、〈 雨乞い 〉という形であれ。空に近付こうと、高い建築物を建てた。これは、空のその先にあると考えられた〈 天 〉という存在に憧れたからだ。
だが、人間はそれだけでは終わらなかった。時代が経つにつれ、技術は進歩し、空へ近づくのは容易くなっていた。空を翔く鳥を見て、人間はその翼のように自らの力で空を飛びたいと考えた。
勿論、不可能だった。技術による間接的な方法は可能であったが、それでも人間という儚い存在が己の力で翔くのは夢のまた夢の話であったのだった。
いつしか人間は空への思いを薄れさせる────
◇ ◇ ◇
外界と内界とを隔てる巨大な砦を見て、一人溜息をついた。この重い雰囲気も溜息をつかせるのには充分であったが、これから起こるであろう事を考えると、ますます気持ちは沈むばかりであった。
目の前に広がる巨大な施設を見上げると、その施設に入ろうと足を進める。入口を見張っていた兵士二人は怪訝な顔をする。
「通っても良いか?」
尋ねると、はっとした表情で勢いよく首を振る。あからさまな対応に苦笑いをする。
「すまない。」
別れ際に小さく謝罪をしておく。兵士達にそのような態度を取られるのは、仕方の無いことなのではあるのだが。
施設内も広大である。その廊下には様々な兵が行き来しており、すれ違いざまに誰しもが目を向ける。この施設────軍本部では、あまり見られない者だったからだろう。
数分ほど廊下に沿って歩き、階段を最上階まで登る。そして、少しまた廊下を歩く。そうするととある部屋に辿り着いた。部屋の前には兵士が立っている。手短に名前を告げる。
その名前に兵士は軽く驚いた様子を見せたが、すぐに表情を繕った。流石、というべきなのだろう。扉をノックする。コンコンと音が木霊する。この階はほかの階よりも断然静かである。それはそこに部屋が存在する立場の人間が人間であるからだ。
「はい、どうぞ。」
許可が出ると、音を立てずにドアノブを捻り、室内へ入る。その時も物音一つ無い。その様子を見た部屋の主は呆れたように溜息を吐く。
「ライル。普通に入ってきて良いんだぞ?」
「これが普通です。」
どこか素っ気ない素振りで、ライルは直立不動のまま答える。相手は軍で最も力を持つ男。つまり……元帥。ライルに対する威圧は見られないようだが、長年戦いに身を置いたからだろう、隠しきれない強者の存在感がある。
「……まあ、良い。それでどうだった?」
元帥が聞いたのはライルのつい先程までついていた任務の事。そう、ライルは軍属である。
「確認出来たのはレートAが一体と、レートBが五体でした。」
「勿論、倒したのだろうな?」
「……それぐらい分かるでしょう? ローラル元帥。」
「そうだな。聞いて悪かった。」
ローラルは素直に謝った。ここでローラルが何かを言ったところでライルに言い返されるのがオチなのだ。無駄話に興ずるほど二人は暇ではない。
「……本件は何ですか?」
呆れたようにライルは言う。見れば、表情も面倒だと言わんばかりに歪ませている。ローラルは苦笑しながらも認める。
「すまないな、その通りだ。次の任務だが、中の任務だ。」
ライルはローラルの言葉を聞き返す。
「中……ですか?ターゲットは?」
「いや……今回、ライルの任務はそうではない、潜入だ。」
巨大な砦とそこから続く壁によって隔たれている、内界と外界。軍の基本的な任務は外界における、魔力を持つ謎多き生物〈 魔物 〉の討伐だが、内界での任務が全く無い、ということではないのだ。
内界での任務の多くは、世間には公開できないようなものばかりなのが実態であるが。
「潜入……ですか。」
これまでにもライルは潜入任務を行った事はあるが、今回のローラルは何処か不自然であった。何かを意図的に隠しているかのような。それを探ろうとライルは、ローラルに問い掛ける。
「場所は?」
「……あ、ああ、任務については後ほど資料を渡す。それを見てくれ。」
やはり何かを隠しているようだ。ライルの任務は、軍の中では異例だが、元帥であるローラル自らが命令を下す。部隊には属していないが、異例が異例だけに、仮として元帥の直轄兵として見なされている。実際には違うが。
「要件はこれだけですか?」
「ああ。連続での任務、すまないが……頼むぞ。」
「分かりました。」
そう言ってライルは一礼する。そのまま扉を出て、何処かへ去って行った。
「……ライルももう15歳か。」
ローラルは一人呟いた。
ライル・オルゲンツ。15歳。軍に所属して、およそ7年の月日が経過している。鍛えられたその姿は無駄がなく、本人の合理的主義をはっきりと示している。日々の鍛錬を怠っていない成果である。
ライルの親は誰も知らない。本人も他人も。ライルは軍によって引き取られた子供なのである。そこで才能を見込まれたライルは、軍の教育プログラムを飛び級で合格し、若干8歳にして兵士となった。
僅か8歳にして兵士になったライルは、軍内部で何度も会議が行われるほどに騒ぎとなったが、結果としては何一つ変わらなかった。だから異例中の異例なのである。
その才能は人を寄せ付けず、孤独に苛まれていたライルを救ったのは、ライルの引き取り手でもあるローラル。上司と部下という立場ではあるが、仲は決して悪くなかった。ライルは一度たりともローラルの意向を無視したことは無かったのである。
◇ ◇ ◇
軍本部を出たライルは、隣接している建物に入る。ここは兵の中でも地位の高い者のみが住む大規模住宅施設である。言うなれば寮である。
その最上階にライルの部屋はある。最上階に住むのは元帥、高位の将官のみだ。他の将官の苦情があった為、ライルは最上階でも端の最も狭い部屋である。と言っても人一人住むのには充分な広さなのだ。
「はぁ~」
部屋に戻ったライルの第一声はこれだった。軍本部は息が詰まる。これがライルの軍本部に対する正直な感想である。まだ15歳のライルに対する視線は、まだまだ厳しい。陰口を叩くものも少なくない。
これは妬みとしか言いようがない事なのだが、実際一人での任務が殆どであるライルが、本当に実力があるかどうか誰も分からないのだ。それが反感を買う最大の理由であった。
ライルとしては、そんな反感や陰口も面倒だという理由で気にしていないのだが、ローラルが気にしているようだ。ローラルは独り身であり、勿論子供はいない。ライルを子供のように思っているのだろう。親バカであった。
「それはそうと……明日は入学試験か。」
壁に掛けられたカレンダーでは、明日が入学試験の日付となっている。先程まで任務に出ていた為、何日が経過していたか正確な日にちを把握出来ていなかったのだが、どうやら間に合ったようだ。
ライル自身は、そんなもの受けなくても良いと思っているが、ローラルがどうしても、と言うのだ。学院で学べる基礎的な学問については、軍の教育プログラムに搭載されており、全て暗記している。外界での任務をしていれば、嫌でも覚えるのだ。
内界では軍寮か近くにある都市〈 オウェーゲル 〉しか行き来していない。他に行くとすれば、内界での任務時のみだ。オウェーゲルでも買い物しかしていない。生活必需品は必ず無くなるため、補充しなければならない。
本来ならば生活必需品などは、軍から支給されるのだが、ライルはそこだけは譲らなかった。殺風景な部屋を見れば、何でそんなところだけ、と言いたいが、本人はそれに気付いていない。指摘する者がいないからだろう。
これから起こる面倒な出来事を想像して、ライルは溜息を深く深く溜息をついた。
ふと、ライルが机に目を向けると、そこにはローラルからの任務書が置かれている。先程、ローラルの部屋から出る際に受け取ったものだ。それを手に取ると、さっと目を通した。
その内容はライルに取って、予想外なものだった。ローラルが口を濁していた訳が分かった。任務書に書かれていたのは、指定の場所に行け、というものだ。だが、その場所は潜入するような所ではない。渋々ローラルの思惑に乗るライルであった。
まだまだ夕刻までは長く、暇であったライルは、オウェーゲルに行くことにした。ローラルの任務もついでにこなすつもりである。ライルの足取りは重かった。
◇ ◇ ◇
オウェーゲルは賑わう街である。その理由として、軍所属の兵達がこの街において散財する、というのがあるだろう。お世辞にも安全とは言い難いこの要所において、これだけの賑わいを見せるのは、他国から見ても珍しいのだ。
オウェーゲルの賑わいは、それだけこの国が安定している、という現れであり、人々の心に余裕が生まれているのだ。兵として守るべき人々が幸せであるのは、喜ばしい事なのだろう。
だが、オウェーゲルにおいても全てが全て賑わっている訳では無い。閑散としている、とまではいかないが、一通りの少ない通りも存在しているのだ。ライルの目的地はその通りであった。
ライルが通りに足を踏み入れると、通りを歩く僅かな人々は、ライルを一斉に見る。まるで示し合わせているかのように。これは、一種の洗礼だ。値踏みされているというのが正確だろう。この通りで買い物をするのは、大体が軍属の者だ。一般人はそうそう買う物でも無いのだ。高価である、というのも理由の一つ。
周りの視線を気にも止めず、ライルは一直線に目的へと進む。その足の向く先を見て、何人かの者が息を呑むのが分かる。ライルの行く先はこの通りでは最も有名な店。15歳の子供が到底入れるような店では無い。
だが、ライルは臆することなく、店に入った。店の中で買い物をしている者はいない。広い店内だ。様々な所にこの店の唯一の売り物が置かれており、ライルの目を引いた。
「……素晴らしい技巧だな。」
「何の用だ、小僧。お前が入れるような場所じゃねえ。さっさと帰れ。邪魔だ。」
店の店主は無愛想にそう言ってきた。それもライルの年齢を見れば、言われても仕方の無い事ではある。無駄な言い争いを避けて、ライルは何も言い返さなかった。その代わりに要件を手短に伝える。
「ローラル、だ。」
元帥の名前を強調する。それだけでこの店主の顔は変わった。先程まで無愛想だった顔は、ライルが出した名前を聞いて笑っているのだ。それだけ、ローラルの名はこの店では影響が大きかった。
「少し待ってな。」
そう言うと店主は店の奥に入った。暫くして手に何かを持って戻って来た。
「それが……」
ライルは思わず呟く。ローラルの任務書に店主の持っている物が何なのかについて書かれていたが、それでもまだ信じられなかった。
「ああ、元帥殿の特注品だ。お代は受け取ってる。ほら。」
店主はそれをライルに投げる。危なげなくライルは受け取った。そして、包んでいる布を取る。
「……長剣型?」
「いや、正確には違う。その本質は使う事で分かる筈だ。まあ、その〈 MAAD 〉を使いこなせれば、だがな。」
店主の言うMAADとはMagic automatic assistance device(魔法自動補助機構)の略称。魔法が広く使われるこの世界で魔法師が魔法を発動する時において、かなり重要となるものである。
通常、魔法発動には魔法式の構築……つまり魔法発動の詠唱が必要となる。だが、MAADを使用する事で魔法名称を唱えるのみで魔法発動をする事が出来るのだ。その差は十数秒も異なるだろう。
魔法師の戦いにおいて十数秒という時間は、勝敗を決するのには容易い。それだけにこのMAADは非常に重要である。軍の中にはMAADを使用しない魔法師もいるが。稀有な存在ではある。
「素材には〈 ミスリル 〉を基調としているが、〈 エンシェントメタル 〉も使われている。」
「なっ……!」
「驚くのも無理はない。特注を頼んだローラル自身が値段に驚いていたからな。」
軽く9桁はいったと店主は言う。ローラルは人生で最も高い買い物をしたのだろう。ライルはローラルに改めてお礼を言いに行こうと決めたのだった。
ミスリルとエンシェントメタル。どちらも魔力を通しやすい素材としてMAAD製造には重宝されている。ミスリルは埋蔵量が少なく、充分に貴重なのだが、エンシェントメタルはそれを上回る。世界でも5tあるかどうか、と言われるほどに埋蔵量が少ないのだ。ミスリルが数千年の間、魔力を保存し続ける事で出来るものだからである。
「ありがとう。」
店主にも短くお礼を言うと、店主はニヤリと口角を上げる。
「良い仕事が出来たぜ。お互い様だな。」
どうやらこれは店主が作ったようだ。何者だろうか、という疑問を持ったままライルは店をあとにする。
「……そろそろ行くか。」
ライルは明日に備える事にするのだった。