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第9話  心の雨

「…ガラ、長良?」


 名前を呼ばれ、長良は我に返った。


「はい」


「何度も名前を呼んだんだよ。珍しいね、長良がぼーっとするなんて」


 正良親王は気を悪くする事もなく、楽しげにくすくすと笑う。


 彼は峰継の叔母にあたる嘉智子皇太后の息子で、今は皇太子の地位に就いている。嵯峨上皇も嘉智子皇太后も美男美女だけあって、お二人の良いところが似たのか、おっとりした優しい美男子で、笑うと出来る片えくぼが周りの笑みをも誘う。


(何度も名前を呼ばれたのか。気がつかなかった)


 長良は侍従として天皇に近侍して一日過ごし、終わると正良東宮の元へ行くのが最近の日課となっている。正良は自分と年齢が近い公達を集めては楽しむ事が好きなのだ。今日この場にも長良以外の若い侍従や、最近蔵人に就いた弟の良房よしふさの顔も見える。未来の天皇に気に入られることは自分の出世の為でもあるので、この場に呼ばれる己自身を誇りに思い、また正良の人柄の良さも相まって、集まった若者達の顔は皆活気に溢れている。


 長良も正良のにじみ出るような優しさに、恐れ多いことながら、癒されている一人であった。


 そんな日々を送っているため、毎日の帰りは当然遅い。


(それゆえ未だに間人との仲もこじれたままだ)


 間人の事が気がかりで楽しいはずの集まりも楽しめずにいる。


 頼りにしていた萩には『大した事無いわ』と一蹴されたが事態は好転せず、長良にとってはどうしていいか分からない状態が続いている。


(峰継にも橘氏と龍気の関係を聞かなければならないし)


 侍従になってからあまり自由な時間が持てなくなったということもあるが、偶に峰継に会うと今まで感じたことのない遠慮というか、気まずい雰囲気がお互いを隔てるのだ。顔には出さないようにしているが、峰継は何かと理由をつけては自分を避けているようにさえ感じる。それゆえ未だに龍気について問い質すことが出来ていない。


 正規の言っていた常義という男も行方知れずで手がかりがない。


 問題は山積みだが、積み上がる一方で少しも解決へと進んでいない。


「申し訳ありません」


 溜息を殺しつつ、長良は正良に謝った。優しい正良は気にしていないという風に首を横に振ると冗談めかせた声で尋ねる。


「気になる姫君でもできたのかな?」


「兄上の屋敷で、深窓の姫君が大切にかしずかれているという噂ですよ」


 良房が横から口を挟んできた。


 長良が父親似であれば、良房は母親似であり、その為か母美都子みつこの秘蔵っ子であった。


 長良が『静』であれば、彼は『動』だ。くるくる変わる人懐っこい笑みをたえず湛えているが、若さ故か、いったん敵と決めると途端に牙をむき、それを隠そうとしない。そして必ず彼の思い通りにしてしまうので、相手に警戒心を起させてしまう所もある。


 全く性格が正反対の長良、良房兄弟だが、不思議と仲はとてもよい。しかしこの時ばかりは長良も良房を軽くねめつけた。


「そんな大切な姫君がいるのなら、今頃ここにはいませんよ。そんな噂が流れているのであれば、はやく噂を本当にしなくては」


「それはそうだ。私に気兼ねしている者がいたらそれは無用だよ。人生楽しく生きなくてはね」


 正良親王の言葉に、『それではその時は遠慮なく』などの軽口もあがり、周りから笑い声があがる。そしてそれぞれの恋の経験談へと話は移っていった。


 長良は適度に相槌を打ちながらも一向に話が頭に入ってこなかった。


(良房はどこからその噂話を聞いたのだろう)


 極力人目に触れさせないようにしてきたのだが、それも限界はある。間人の事が漏れ伝わったことは確かだ。しかし姫君と思われているのであればそのまま誤解させておいてもいいか、と思い直した。『赤龍の間人』でなければいいのだ。


「そうだ、今度の満月に管弦の宴でも開きませんか」


 誰かの提案で、楽好きな正良は一も二もなく上機嫌で頷く。


「素敵だね、是非やろう。皆の腕前を披露してもらおうかな」


「でも、芋名月は毎年なかなか晴れませんね」


「満月は満月ですから。雲の先にある満月を思うのも又いいではないですか」


 長良の気持ちとはうらはらに、正良と他の公達の間でどんどん話が決まっていく。


(またその準備でこれからも早く帰れなさそうだな)


 長良は心の中でこっそりと重いため息をついた。


 その日も漸く宮城を出られたのは夜更けで、空には満面の星があたりを照らしている。長良を待ちくたびれて寝ていた黒丸を起こし、牛車に揺られ、屋敷へ戻る。


(間人ももう寝てしまっただろうな)


 長良はそう思いつつも間人の部屋へ赴いた。毎日一度は必ず間人の顔を見ることにしているが、最近は寝顔ばかりだ。


 部屋は暗く、間人も夜具にくるまり身動き一つしない。長良はそっと間人の隣へ座った。


 官僚の朝は早い。長良が出かけるときはまだ間人は寝ているのだ。擦れ違いがお互いを隔てて行く。


「もうここ最近、話をしていないな」


 長良は思わず声に出していた。その声に間人が反応したような気がした。こちらに向けている間人の背中が少し動いたような気がしたのだ。


「間人?」


 もう一度、今度は独り言ではなく、間人に向かって小声だが呼びかけてみた。


 間人の呼吸が少し乱れた。


 今度は確信した。間人は寝たふりをしている。


(まだ私とは話したくなのか)


 長良は今までに感じたことのない寂しさに襲われた。あれだけ懐いてくれた間人の変りようが長良には理解できない。


(いや、なかなか間人の奪われた龍気を見つけられない私に腹を立てるのも無理はない)


 思い当たる理由はそれくらいしかない。本当はもう一つ思い当たる理由があるのだが、きっとそれは自分の思い上がりだろうと思い、封印した。


 しばらく間人の背中を眺めていた長良はそっと立ち上がると琵琶を手にし、簀へ向かう。


 薄い月明かりの中、琵琶を弾き始めた。


(言葉で伝えられないのであれば、楽の力を借りて間人にこの気持ちを伝えよう)


 長良は自分の知る曲の中で一番柔らかな旋律のものを選んで奏でた。


 ふと視界の端に入っていた葉が揺れた。見上げると満天の星空だったのがにわかにかき曇り、細い雨がさめざめと降り出していた。乾いた土の色が次第に濃くなっていく。


 撥をとめ、振り返ると間人が声を殺して泣いていた。


(間人が雨を呼び寄せたのか、天が間人の心に共鳴したのか)


 長良は立ち上がると再び間人の傍へ向かった。


「間人、すまない」


 長良はそういって、間人の頭を何度もなでた。


 間人は長良を見ることはなかったが、隠すことをやめて声を立てて泣き始めた。


 それに合わせるかのように、雨脚はさらに強くなった。



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