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第6話  母親の賭け

 ようやく桜の木々にも若き芽が生え揃い、目にまぶしい季節になってきた。


 初夏の香りを感じつつ、嘉智子は絹ずれの音を静に立てて簀子を進む。部屋の中からはうら若き女子達が楽しそうにおしゃべりをする声が聞こえてくる。娘の正子とそのお付きの女房達だ。年も近く若いので、話すこと全てが楽しいことばかりなのだろう。


 彼女たちの邪魔をするのは気が引けたが、嘉智子はそのまま部屋へ入って行った。嘉智子の姿を認めるとぴたりと話をやめ、女房達は神妙な顔つきで後ろへ下がる。


「二人で話がしたいの。席をはずしなさい」


 嘉智子の一声で女房達は一つ頭を下げるとそっと消えていった。


「母上様、今日は急にどうなさったの」


 嘉智子はまだまだあどけない子供っぽさを残す正子の隣に座る。


 正子は父である嵯峨上皇にも母である自分にもあまり似ていない。しいて言えば逸勢に面立ちが近い。鼻筋が通っているのは昔と変わらないものの今では軽く肉が付き浅黒い肌をしている逸勢も昔は色白で細く、美男子の部類に入れても可笑しくなかった。正子も華やかさはないが、涼やかな顔立ちをしている。


「先ほど私の所に逸勢殿がお見えになってね」


「叔父様が? こちらにもお見えになるのかしら」


 正子はぱっと顔を輝かせる。ふらふらして官位にもつかない逸勢なので大人受けはとても悪いが、不思議と子供受けはいい。弟の氏公の息子、峰継も逸勢と仲がいいと聞く。唐に渡った経験を持ち、如何いかがわしい場所にも平気で出入りする奔放な逸勢の話は彼らの心をつかんで離さないのだろう。逸勢も正子を特にかわいがっており、こちらにちょくちょく顔を出しているようだ。


「逸勢殿はお忙しいらしくて早々に帰られたわ。しかし、逸勢殿が今日来られた訳は、これを正子の入内の贈り物にと持っていらしたのよ」


 正子は軽く俯く。はにかんだ様にも見えたが、嘉智子は寂しさを隠している気がした。


「これがそうなの?」


 正子は不思議そうに嘉智子の手から目の前に置かれた壺を手に取った。唐渡りの磁器が五色の糸で美しく彩られている。


 嘉智子はまだ女として開花していない娘の横顔に微笑みかけた。正子は嵯峨上皇と嘉智子の間に生まれた長女である。


(本当は正子の好きな人とめあわせてあげたかったのだけれど…)


 その夢を壊したのは他ならぬ嘉智子自身である事は十分わかっている。


 正子は今上淳和じゅんなの妃となるのだ。


 彼女は現在十六歳で、淳和は四十歳。しかも淳和は正子の父である嵯峨上皇の腹違いとはいえ弟なので正子にとって叔父である。年も年だけあり、数人すでに妃がいる。 


 若く初婚の正子にはかわいそうと思ったが、嘉智子があえて正子の夫には淳和を、と嵯峨上皇に頼んだのは偏に橘氏を思っての事であった。


 淳和は即位後、亡くなった高志内親王こしないしんのうに皇后位を追贈した。高志内親王は桓武天皇の皇女で嵯峨上皇や淳和天皇とは異母妹にあたる。彼女は淳和天皇がまだ大伴おおとも親王と呼ばれていた時分に嫁がれた。


 二人の間には恒世親王、氏子内親王、有子内親王、貞子内親王の一男三女に恵まれたが、大同四年の五月に三十一という若さで亡くなった。それは嘉智子が夫人ぶにんとなった年であり、突然の死に宮城きゅうじょうはちょっとした騒ぎになったのを覚えている。


 身分からいえば高志内親王が皇后に立てられるのはおかしくない。しかし、すでに亡くなった方なのだ。実際のところ、皇后追贈など形だけのもので、以後淳和の皇后に誰も立てないわけではない。が、あえて高志内親王に皇后追贈をするあたり、嘉智子は表向き何事に対しても温和で従順な淳和の意趣返しと受け取った。


 天平の昔、藤原不比等と橘三千代の娘の光明子こうみょうしが皇后になった事が王族以外の娘でも皇后になれる先例となった。そのお陰で嘉智子自身も橘氏から皇后に、今や皇太后になっている。淳和は心の底ではその先例に不満を持っているのかもしれない。藤原氏が今や他の氏をしのいで台頭してきているのも光明子が皇后になった事が一つの大きな要因でもある。


 いや淳和の母は藤原氏で式家出身の藤原旅子たびこだ。式家と言えば仲成と平城天皇の尚侍薬子が起こした変以来、勢いを削がれてしまった。それ以降台頭してきたのが、嵯峨上皇の懐刀であった藤原冬嗣を始めとする藤原北家だった。 


 嘉智子自身はまったくそういうつもりはないのだが、世間からすれば、藤原北家と手を取り合いこの地位を築いてきたと見られているので、藤原北家に近い人間と思われていることだろう。旅子の元で育てられた淳和は顔には出さないが、もしかしたら自分をにがにがしく眺めていたのかもしれない。娘が天皇の妃、さらに皇后へ上り詰めるのは各氏の悲願である。特にこれらは更なる飛躍を狙う藤原北家には欠かせない要素だ。淳和は高志内親王に皇后追贈をすることでやわらかな牽制をして見せたのだろう。内親王なら誰も文句がいえない。


 しかし、淳和がいくらにがにがしく嘉智子を見ようとも、嘉智子は他でもなく、ひとえに橘の家を思って今まで頑張って来たのだ。


 嘉智子は奈良麻呂の変以来憂き目をみた橘氏をどうにか再興しようと試みているものの、思ったように橘氏の浮上には繋がらない。


(このままでは橘は自分の死後、本当に没落してしまうかもしれない)


 そう危機感を募らせた矢先、淳和の皇后位の追贈という意趣返しが却って彼女の心の中で燻っていた火に風を送り込んだのだ。


 息子の正良は淳和の皇太子となったが、彼にはきっと冬嗣の娘、順子が嫁ぎ、ゆくゆくは皇后となるだろう。正良は誰に似たのか優しい子だから、しっかりした藤原北家という後ろ盾があってもいいと初めは考えた。その順子との間で生まれるだろう子供にも正良を通して橘の血は受け継がれるのだから。


 しかし娘の正子腹を通った子の方が橘の血が濃い様な気がするのだ。


(そう、若い正子が淳和の子供を生んだら? そしてそれが男御子であったなら…)


 淳和は嵯峨上皇の言葉に逆らわない事は分かっていたので夫を通じて正子の縁談を頼み込んだ。上皇の願いなら淳和も正子を無碍には扱えまい。


 嘉智子は賭けに出たのだ。


 正子は内親王でありながらも顔立ちでは橘の血を色濃く受け継いでいる。逸勢が正子を特にかわいがるのも、橘の未来を託すに足りるとみなしているのだろう。だから、正子のために今日、この壺を持ってきてくれたのだ。


 嘉智子は正子にそっと寄り添い、耳元に口を近づけた。


「この壺の中には龍気が入っているのです」


「リュウキ…?」


 正子は低く呟き、軽く眉を寄せる。嘉智子の言ったことの意味が分からないようだが、それは当然の反応だろう。逸勢からこの壺を受け取った時は嘉智子もきっとこのような顔を見せたに違いない。龍気などにわかに信じることが出来なかった。が、彼の話を聞いて、信じる事にした。話の内容からだけではない。いつもはふざけて真面目な話など一つもしない時もある彼の目が真剣だったからだ


「そう、龍の力の源の龍気がこの壺に収められているの。これはあなたにきっと幸せをもたらせてくれます」


 正子はまだ半分いぶかしがりながらも素直に頷いた。


 逸勢が言うにはこの壺に入っているのは赤龍の龍気で、何でも願いが叶う力を秘めているそうだ。どこまで本当かは実際の所分からないが、何でもめでたいものはいい。


「でも、これはどうやって使ったらいいのかしら?」


 嘉智子は正子のもっともな問に苦笑する。先ほど同じ問を自分も逸勢にしたからだ。


「傍近くに置いておくだけでも効果があるらしいけど、詳しい使い方は逸勢殿が調べてくださっているわ。とりあえず、今はその壺を大切に持っていてくださいね」


 橘切っての秀才の逸勢であれば難しい漢書を紐解いてでも調べてくれるはずだ。


 赤龍の龍気はきっと正子に男御子を生ませ、その子は必ず天皇になるだろう。そして再び橘は勢いを取り戻すのだ。


(勝手な願いに巻き込んで、母の身勝手を許してね)


 嘉智子は壺ごとぎゅっと正子を抱きしめた。正子にも半分流れる橘の血がきっと分かってくれると思う。これも身勝手な推測だろうか?


「正子の入内する日はお天気がいいといいわね」


 嘉智子が入内した日は雨だった。しかも、皇后に立った日など、風は吹き荒れ、大雨の上に雷までなる始末で、庭に大きな水たまりを作るほどであった。嘉智子からはよくみえなかったが、後で聞いた話によれば皇后任命の勅命を聞く臣下達が大雨大風で見るも哀れな濡れ鼠の様であったということだ。


 当時は高津内親王の恨みによる大嵐だと言われた。


 高津内親王は桓武天皇の皇女で嵯峨天皇の妻である。腹違いの兄妹での結婚だがよくある話だ。


 血筋からいっても嵯峨が即位すれば、皇后は間違いなく高津内親王になるはずだった。しかし高津内親王は妃を廃せられたのだ。理由は身分を憚って明らかにされてはいないが、巷では陰謀説がまことしやかに流れた。


 嘉智子も高津内親王の件では背後で何者かが動いた気配を感じたが、あえてそ知らぬ顔をした。高津内親王が皇后になる資格を失えば、自分の所に皇后の座が廻ってくるのは分かっていたからだ。それもひとえに橘の家の為だ。だが直接手は下してはいないというものの、そしられるのは気持のいいものではない。正子にはやはり気持ちのいい晴れの日に入内してほしい。


(みなに祝福されて嫁ぐのが女の幸せなのだわ)


 思い人に嫁がせてあげられない罪滅ぼしにそれだけは親の務めとして全うしようと嘉智子は心を新たにする。


(きっとこの龍気も手助けしてくれると信じましょう)


 嘉智子はもう一度正子を力強く抱き締めた。



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