第5話 葛藤の一夜
「ナガラ?」
気づけば間人が長良の顔を覗いていた。元は紫色だったが、今では黒く変わった間人の澄んだ瞳を長良は苦笑で見返した。
先刻聞いた正規の話を思い返し、自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。
正規の話からすると、橘峰継の屋敷に入った賊の正体の一人が常義という橘嘉智子の私的の女房の兄だそうだ。橘の屋敷に橘の者が賊として入った事になる。正規はその点を疑問に思っているようだが、嘉智子という名前を聞くと、長良は少し納得できる気がするのだ。
嘉智子は他ならぬ父冬嗣の後押しで皇后になられた方だ。冬嗣の腹違いの妹に当たる緒夏殿も嵯峨上皇が天皇でいらした時に妃として後宮へ上がられたが、あまり御寵愛は頂けなかったらしく、一人の子も成していない。そこで父は母美都子の弟、長良の叔父にあたる三守の妻が嘉智子の姉の安子だった縁をたどり、嘉智子の美貌を頼んで皇后へと後押しをした。
長良から見ても、確かに嘉智子様は豊かな黒髪の持ち主で背が高く、輝くばかりにお美しい方だ。そして聡明で、嵯峨天皇のお心を掴むのに時間は掛からなかった。彼女は仏教の帰依も篤く、嵯峨野に建てられた檀林寺から檀林皇后とも呼ばれている。
慈悲深き麗人と崇められる嘉智子だが、皇后という立場を最大限に生かして奈良麻呂の変以降弱体していた橘氏を盛り上げたのも嘉智子である。同時に自分も押しも押されもせぬ皇太后としての地位を築き上げ、今や影響力は一方ならない。父曰く、なかなか一筋縄ではいかない御仁ということだ。
赤龍の件には少なからず皇太后が関わっている事となると、下手には動けない。そういえば最近峰継もうわの空な態度をみせている。橘の中で何か動きがあるのだろうか?
「ねえ、ナガラってば、どうしたの?」
間人に膝を揺すられ、長良は再び陥った自らの考えから戻ってきた。顔には二度目の苦笑を浮かべざるを得なかった。
(そうそう、今は間人に文字を教えている最中だったのだ)
気になることは多々あれども今は考えるのをやめ、気を取り直して長良は間人の書いた文字に目を向ける。
「すまない、何でもないよ。なかなか上手く書けるようになったな」
実際間人の文字は目を見張るような上達ぶりだった。はじめは筆の持ち方さえろくに知らなかったのだ。指先に墨をつけ、書き始めようとしたのを止めたのはあまり遠い昔の話ではない。
「ナガラがいない時にずっと練習してたもん」
感情は人のそれと同じなのだろう、龍も褒められれば嬉しいようだ。間人は零れんばかりの笑顔を見せた。
「ナガラより上手くなっちゃうからね」
「それは頼もしいな。それでは今度、手本に嵯峨上皇の親筆を父上から借りてくるよ。見るだけでも勉強になるからな。上皇の手蹟は…」
間人を何気にみると、長良の話に耳を傾けながらも両手は膝を上下に擦っている。ここ最近、時々見られる間人の行動だ。
「どうした、痛いのか?」
「ん…なんか夜になると節々が痛くって。でも大丈夫」
「最近いつもそうだな、どれ」
間人と同じように長良も膝を優しくさすってやる。手のひらに余るほどの細い足だった。
長良が首に掛けた琅かんのおかげで龍気が溜まってきたのか、初めて間人を見た時より成長した。背が少し伸び、人間でいえば十三、四歳程の見た目だろうか。
間人が膝を痛がるのは長良も背が伸びる時に膝が痛かった覚えがあるので、それかもしれない。しかし間人は龍なので人と同じと考えていいかどうかは分からない。
(今度萩殿に聞いてみよう)
実際間人の成長はここ数ヶ月間で目に見える変化はなくなっている。これ以上は琅かんの力を借りても無理なのかもしれない。
「まだ痛むか?」
ふと顔を上げると間人がじっとこちらを見ている。母と逸れて迷った子猫のような、そんな瞳だった。
心を攫まれた心持の長良だったが、平静を装い、軽く首をかしげて尋ねた。
「今日はいつもの元気がないな、どうした」
間人はなんでもないというように首をふる。今では黒くなった髪だか、しっとりとしなやかな髪質は変わっていない。
「疲れたんだな。もう遅いから今日の手習いは終わりだ。さあ、寝ておいで」
長良はそう言って間人から手を離した。そうでもしなければ綺麗な髪に手を通したいという欲求に勝てそうになかったからだ。小春を呼ぼうと立ち上がる長良の袖に間人の手がかかる。
「…ナガラ、もう少しさすっていて」
間人はさらに長良に近寄った。
龍ではなく、これでは本当に子猫のようだ。長良は心の中で軽くため息をつく。この気持ちをどう表現すればいいか。
(たぶん歳の離れた弟を思う気持ち…だろうな)
長良にも同母、異母あわせて多くの兄弟姉妹がいるが、同腹の弟、良房は二つ下であり、同じように遊んで育ったので心内が知れている分、あまり兄だから、弟だから、という垣根が二人の間にはなかった。年齢的にはもう一人の同母弟で九つ下の良相に近いかもしれない。しかし良相は子供のころから大人びており、手のかからない弟だった。あまり甘えられたという記憶もないし、長良を兄としてきっちり線を引いて接してくる。見かけの年齢は同じでも間人の方が精神的に子供のようだ。
良房も良相も性格は全く違えど、自分の願望は自分で自ら掴み取る術を持っていた。一方の間人は何事も長良を介さないと彼の要求は満たされない。いや、どんな些細な事であっても、まず長良と関わることを一番彼は望んでいる気さえする。長良も不思議と間人に頼られるのは心地よかった。しかし同時に素直に甘えを見せる間人に長良は戸惑いを感じてしまう。彼の言う事を何でも聞いてやりたくなってしまうのだ。
(今は私しかいないから、間人は私を頼るだけで、萩殿や峰継がいたら…)
きっと彼らにも同じように甘えるのであろう。
到達したその考えに長良はひるんだ。
(まるで、間人を一人占めしたいみたいじゃないか)
今まで関わって来た全ての人には平等を心がけて接してきた。それが長良にとってとても大切なことだった。
(今思えば、『特別に大切なもの』を作りたくなかっただけなのかもしれない)
大切な物を持ってしまうと強くもなれるが、弱くもなる。両刃の剣だと長良は子供のころから漠然と考えていたのかもしれない。
長良は困惑の原因を見た。間人には長良の心内など分かるはずもなく、掛け値なしの笑顔を見せてくる。
思わず長良は瞳を閉じた。
(彼には近すぎず遠すぎず、いい距離を保っていくのが一番いい。いつもの様に皆平等に。今日のところは間人の元から離れよう)
そう心に決めると少し楽になった気がした。瞳を開けて間人を見ると心細い表情でこちらを見上げている。
「…では、もう少しだけな。そうしたら寝るんだぞ」
決心はすぐ揺らいでしまい、思いとは裏腹な言葉が口を継いで出てしまった。
間人はすぐに瞳を輝かせ、長良はこっそりとため息をついた。
「えっと、こういう時って、なんて言うんだっけ?」
「ありがとう、かな」
「そう、それ! ありがとう、ナガラ」
にっこりと間人は微笑む。
そんな笑顔に、ふと最近峰継が言っていた言葉が引き出された。
(愛してしまった方は立場が弱くなるとはよくいったものだぜ、なあ長良)
しかし長良はすぐその記憶を追いやる。今、特別な感情は無いものとして振舞うと決めたばかりなのに。
だが追いやっても気を許せばまた長良の心にその言葉が現れる。
長良はその夜、間人の膝をさすりながら珍しく自分の心と葛藤するはめになってしまった。