第4話 家令の思い
難波正規は一人、長良の屋敷の出納を検分していた。
ひとつ吹きぬけた心地よい夜風で灯火が揺らぐ。気を逸らされた正規は背を伸ばすと軽く眉間をもんだ。気付かないうちにまた深夜になってしまったようだ。
長良が新しく屋敷を構えた時から正規は家令として仕えている。
正規は家令として、長良の屋敷内で起きることはすべて把握しておきたいという思いからどのような些細な事も最後には自分を通すように全ての家仕えの者達に言い渡しているので、夜遅くまで仕事が終わらないのはいつものことだ。だが、それは自分が望んだことなので苦にはならない。
長良が閑院を出て自分の屋敷を持った時、彼が当然のように自分を家令にしてくれたのはとても嬉しかった。他にも年長の者がいたにもかかわらずだ。
妹の淵子、皆には『萩』と呼ばれているが、その萩が長良の乳兄弟ということもあり、生まれた時から傍近くで長良の成長を見守ってきた。
長良は幼いころから自分を兄のように慕ってくれた。正規がどこへ行くにもついて来る様はたとえようもないくらい愛おしかった。成長するにつれ長良は端正な顔つきも聡明さも輝きを増していくように正規には思えて仕方がない。
長良は正規の秘かな自慢の種であった。
ただ、長良はどんな身分の者であろうともわけ隔てなく対等な扱いをする。長良はゆくゆくお父上の右大臣藤原冬嗣様の後を担う未来有る若者なのだ。
「上に立つ者として下々の者との区別はきっちりつけなければなりません」
そう口を酸っぱくして何度もご注意申し上げるのだが、長良は笑って頷くだけだ。おかげで家内の者で長良の悪口を言うものは一人もいない。例えいたとしても自分が許さないだろうと思う。家人も誰一人として長良を軽んずるわけでもなく、却って尽くしてくれる。これも長良の人徳というものだろう。
今日の仕事を終えた正規は手灯りを頼りに自室へ戻る。
普段は隣に妻の小春が寝ているのだが、今はいない。長良が連れてきた奇妙な童子の世話をする為に部屋を移っているのだ。
(あの童子が屋敷に来てから何かが変わってしまった)
正規は軽く舌打ちをした。
長良が童子の手を引いて屋敷に戻って来た時の衝撃は忘れられない。
長良は真面目で律儀な性格なので、女性関係は数少なく、まだ誰も長良の子を身ごもってはいない。正規も長良がいつどこに住んでいる誰の元に通うかしっかり把握していた…つもりだったのだが、手を引かれる童子については全く知らない事だったので、自分でも不思議なくらい動揺してしまった。はじめは本気で長良の子供だと思ったのだ。
だが後ろに橘の御曹司と妹もおり、人眼を避けるように屋敷に入って来たところから、何かあると思った。
聞けばあの童子は赤龍だという。
正規はその話を聞いた時に、すぐには信じられなかった。目の前の『間人』と呼ばれる童子は目鼻立ちが怖いほど整っている以外は見た目に普通の人間と全く変わらないのだ。
妹の萩が異形の者がみえる『見鬼』とかいう能力を持っているのは知っている。小さい頃から正規には見えないモノを見ていた。一人で話していると思えば妹は異形の者と話していたと真顔で語る。
正規は萩と同じ両親から生まれているにもかかわらず見鬼の能力は全く持っていない。どちらかといえば目に見えるものしか信じない性質だ。しかし赤龍の話を信じることにした。理由は一つ。長良が赤龍だと言ったからだ。
長良は内舎人の役目があり、いつでも、とは屋敷にいられない。萩は長良の母、美都子様付きの女房であり、そこでの仕事がある。橘峰継もそんなには屋敷に来ることは出来ない。長良から公にしないで欲しいと言われていることもあり、長良や峰継等のいない時は誰にでも、とは赤龍の世話を任せることができず、正規が間人の面倒を見ざるをえない。
妻である小春も一緒に面倒を見てくれているので随分と助かっている。小春はわが子の様にせっせと世話を焼いており、正規はその妻の姿に実は驚いていた。彼女が子供をこんなに好きとは知らなかった。
思えば今まであまり小春の事を見ていなかった気がする。
周りに勧められるまま小春と結婚した。正直を言えば身の回りの世話をしてくれれば誰でもよかった。その分長良のために時間が割ける。会ってみると小春は天真爛漫で悩みがなさそうな女だった。
「真面目で几帳面な兄者には丁度いいわよ」
妹はそう言って笑ったものだ。
毎晩遅く部屋に戻るため自然と夫婦の営みの回数も少なく、二人の間には子は一人もいない。が、間人への接し方を見ると、小春は子供が欲しいのかもしれない。が、そんな愚痴を訴える時間さえ妻に与えていなかった。
間人の世話をすることで妻の機嫌がいいのは助かるし、実際、彼一人なら上手くいかなかっただろう。なぜなら自分は間人が好きではないからだ。世話を焼いているのは長良が頼んだからである。
現在長良の生活は間人を中心に動いており、役目が終わると真直ぐ帰ってくる。偶に通っていた女性の元へも間人が来てからはまだ一度も訪れていない。
最近、間人が会話はだいたい出来るが、文字が読めない事がわかり、長良が手ずから教えていた。彼は飲み込みの早い間人に教えるのが楽しいらしい。会話といえば間人の事ばかりである。
どうしてこんなに間人が気に入らないのだろう。部屋で一人座り、正規は考えてみる。
(たぶん…)
正規は長良が自分だけに気をかけてくれるようには願わないが、誰か特定の一人だけに気を使うのが面白くないのだ。
今まで長良は誰にも平等に接してきた。それがどんな身分であろうと。
それを正規は長良に注意してきたが、心の中ではいつまでもそうあって欲しいと願っていた部分もあった。
長良が生まれた時から丹精込めて世話をしてきたと自負する正規にとって、周りの人間は気づかないかもしれないが、自分の目からすれば長良の変化は明らかであり、大変衝撃的なものだった。
早く長良から間人を引き離さなければ、このままずっと置いておくと言いかねない。しかし、長良が間人をそばに置きたいと思う以上、正規は逆らえない。
正規は手元の揺らめく炎を見つつ、何か妙案がないか考えてみる。
(長良様にも喜ばれ、あの間人がいなくなる方法があるではないか)
はたと顔をあげ、正規には珍しく口端に微笑みをたたえた。
(赤龍に関する話を集め、赤龍が早く元の姿に戻れる手助けを率先してやればいいのだ)
赤龍の件に積極的にかかわるなど、逆説的なようで実は間人が早くいなくなる最短の道のりだ。赤龍の姿が元に戻れば間人がここにいる理由はなくなるし、きっと自分から出ていくだろう。異形のものは人間の世界にはそぐわないし、いるべきではない。
そう考え付いた正規は早速翌朝から積極的に動き出した。
今、長良は先日橘の御曹司の屋敷に押し入った賊について調べている。正規はあまり人とかかわることが好きではないが、長良のために他家との繋がりを大切にしてきた。長良を見習い、下々の者にもなるべく気を砕いてきた。自分のやることはすべて長良のやることだとみなされるからだが、その人脈が生きる時が来たようだ。
正規は出来る限りの伝手を使い、時には物で釣って賊に関する話を集め始めた。その際聞き方には細心の注意を払った。間人の力を求めて追っている賊も橘家の周りを嗅ぎまわっているに違いない。間人が襲われるのは構わないが、長良がそれに巻き込まれることだけは絶対避けなければならないのだ。我慢強く正規は自由になる時間を割いて人々に当たった。
流石にすぐには集まらなかったが、必要であるないにかかわらず話を聞いていくと、峰継邸のほど近くに住む屋敷の雑色から興味深い話が聞けた。
長良が峰継の屋敷での騒動に巻き込まれた日、峰継の屋敷から数人の男たちが逃げるように走って出て行ったのを見たそうで、その中に常義という男がいたということだ。そしてその男は橘嘉智子の私的の女房の兄という事まで突き止めた。
(橘嘉智子…何故橘氏の者が橘の屋敷にわざわざ賊を装って入る必要があるのだ?)
正規にはそれ以上分からなかったが、とりあえず長良に今まで調べた内容を報告することにした。
「嘉智子様、か」
長良は美しい額に軽くしわを寄せたが、すぐいつもの涼しげな笑顔で正規を労った。
「正規には礼を言わなければならないな。屋敷内の事を任せ切りな上、間人の事まで親身になって調べてくれた。本当に良く働いてくれていると思う」
軽く頭を下げる長良を、正規は眩しい物でも見るように眺めた。同時に少し、心も痛む。
間人の事など一度も親身になって考えたことはない。だが、これからも間人についての情報を積極的に集めていこうと心に誓った。
長良のあの涼しげな笑顔が自分に向けられ、そして間人が早くこの屋敷内からいなくなる一石二鳥の為に。