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第3話  橘秀才

「峰継、聞いているの?」


「んあっ? ああ…」


 気づけば萩が怖い顔でこちらを睨んでいた。彼女の膝の上には赤龍が機嫌よく座っている。


(赤龍の、間人はしと


 いざ赤龍を何と呼ぶかという段で、赤龍に尋ねてみたが、赤龍自身は名前を持っていなかった。というより名前という概念が彼には無いらしい。ただただ首をかしげるだけだった。しかし人の言葉は解するようで、長良が『人と交ったもの』という意味で『間人』と名づけると赤龍もすんなりとその名前を受け入れた。峰継もその名は赤龍に合っていると思った。


 そんな間人も目覚めた当初は怯えていた。自分がなぜこの状態に陥ったのか解らない様だった。


 龍気と共に記憶も失われたのだ。


 しかし長良、峰継、萩達の努力により今ではようやく慣れ、限られた範囲ではあるが自由自在に動き回っている。


 間人が長良邸に移ってから二日後の夜、峰継の屋敷に賊が入ったのだ。何も取られた形跡がないので衛門府に届けはしなかったが、事情を知っている長良達は間人を捕らえに来た者達に違いないと確信した。そのことで今日は長良邸に集まっているのだ。


 しかし、峰継はそんな気分ではなかった。長良や萩の言う事が一向に耳に入ってこない。だが、気づけば視線が赤龍の間人を追ってしまう。あんな事さえ聞かなければ…。




「意外に早かったじゃないか」


 赤龍を長良の屋敷へ移すのに付いて行き、自分の部屋に戻った峰継は、酒を飲んで半ば出来上がっている橘逸勢たちばなのはやなりのにこやかな笑顔に迎えられた。


叔父貴おじき


 逸勢は峰継の祖父清友の兄弟、入居いりいの息子であり、延暦二十三年には空海と共に遣唐使の一員として唐に留学した経験を持つ。そこで唐人に認められ、橘秀才きつしゅうさいと呼ばれていた程の優秀な男だ。そして空海、嵯峨上皇と並ぶ能書家であるのに今は無位無官でいる。


 嵯峨帝の皇后に橘嘉智子を据える事ができ、今では皇太后として重きをなしているこの時、橘氏にとって大きな勢力拡大の絶好の機会なのに、優秀な頭脳をもつ逸勢がふらふらと遊んでいるのは、他の橘の名をもつ者にとって歯がゆく、そして腹立たしい存在となっていた。


 しかし、当の本人はそんな風評おかまいなしに、突然訪ねてきては相手の迷惑など考えず長期にわたって滞在してみたり、反対に何の前触れもなくふっといなくなったりと、自由気ままな暮らしを楽しんでいるようだ。


 そんな逸勢であったが、峰継は彼の相手に囚われない自由な生き方や、唐での心躍る話に憧れていたので、この叔父が好きだった。


「その酒、どこのですか?」


 酒好きの峰継は挨拶もそこそこに逸勢の目の前にある酒瓶に注目する。逸勢は試すように峰継を見返し、枕詞を口にした。


味酒うまざけの…」


三輪みわの酒! どこで手に入れたのですか?」


「酒の事には詳しいな。ここの卓の上に初めからあったぞ」


「じゃあ、長良の手土産だ。俺のなんだから勝手に飲まないでくださいよ」


北家ほっけ小倅こせがれね、下戸のくせにこんなものを持ってきたのか」


「だから俺が全部飲めるんですよ」


 逸勢から酒瓶を取り上げた峰継だったが、瓶の重さが殆ど残っていない事を告げた。


 峰継は酒に目が無く、どれだけ飲んでも顔色は変わらない。酒好きを指摘されると峰継は、橘氏の氏神に酒解神さけときのかみを祭っているからな、と笑って答えることにしている。


 反対に長良はまったく飲めない。長良曰く、体が受け付けないそうだ。ザルと言っても過言ではない峰継にとって、体が酒を受け付けないなど、どう考えても理解ができない。


 峰継は軽い酒瓶を恨めしそうに置いた。


「長良とせいぜいよくつるんでおけよ、今を時めく藤原北家だ」


 言葉の上では殊勝だが、顔いっぱいに皮肉を広げている。


「長良は…良いおとこなんだよ」


 峰継は、長良が右大臣の息子でなくても出会えば必ず親友になっていたと確信して疑わない。


 しかし言葉に出してみるとこっ恥ずかしく、横を向いてしまう。


「ほお、麗しい友情に乾杯だな。しかしお互い譲れない物が出てきたらどうする?」


「たとえば女とか? それなら心配ないよ、長良とは女の趣味が違うんだ」


 峰継はお生憎様といわんばかりに肩を竦めた。逸勢は杯に残り少ない酒を注ぐと一気に呷り、にやりと笑う。


「女の取り合いはないか。じゃあ赤龍は?」


 峰継の動きがぴたりと止まる。どうしてこの叔父はそんなことを知っているのだろう。


「長良の屋敷に赤龍をやったのは北家繁栄の手伝いをするようなもんだぜ」


「…どういうこと…ですか?」


 もったいぶって話すのは逸勢のいつもの癖だ。あまり興味を示しすぎるとなかなか話してくれないのは知っているので抑えようとしたが、もう顔色に出てしまったらしい。


 逸勢は峰継の大きな反応に満足したが、もう少し峰継の心を利用することにする。


「知りたかったら酒のかわりを持って来い」


 峰継はすぐに部屋から飛び出して行った。



 逸勢は酒の封を切り、匂いを楽しむ。


「俺のかわいい甥は屋敷で一番良い酒を持ってきた様だな」


 峰継は逸勢の上機嫌に一息つく。これで口が滑らかになればいい。


 逸勢は楽しむように杯を傾けてからようやく待ち顔で隣に立ったままの峰継を見上げた。


劉邦りゅうほうを知っているか?」


「一応、名前だけは」


 力ない声で峰継は答える。


「しっかりしろよ、漢王朝の始祖の高祖だ。農民の身から皇帝の座まで登りつめた立身出世の見本みたいな漢さ。坂上さかのうえ氏なんぞ祖先は高祖だと言っている」


「えっ、坂上氏って、そうなんですか?」


「ああ。いや、話がそれた。その高祖の母がな、大きな沢のつつみで休んでいると神に会った夢を見たそうだ。その時、空が急に暗くなり激しく雷が鳴ったので夫が妻を心配して行ってみると、妻の身体の上に赤龍が乗っていたそうだ。そして高祖を身ごもった」


「…ということは」


「ということは、だ。赤龍が現れるところに英傑出生が絡んでいるのだ」


 峰継は今ひとつ解らないといった感じで逸勢を見つめる。


「俺も長良も、赤龍を見たのは初めてです。長良の母美都子みつこ様にも、俺の母にも赤龍に関する話を聞いたことがありません。と、いうことは他で高祖のような英傑が生まれるということですか? どうして藤原の繁栄に繋がるのですか?」


 逸勢はまあ待て、と言わんばかりに手をあげ、注いだ酒を初めて峰継に渡した。話の食いつきぶりが気に入ったのだろう。


「実は唐にいった時、ある僧から聞いたことがあるのさ。赤龍と関係する事で生まれた子供が英傑になるのは、まあよく聞く話だが、たまに龍が長年の眠りから目覚める時と魂の色の強い子供の出産が重なると、その龍の意識がその子供に絡め取られてその守護神となるそうだ。龍は怖い感じがするが、主人に対しては従順で、何でも言うことを聞く。主人たる者が一族の繁栄を望めば龍はその通りにするだろう。その力が赤龍にはあるのだ。長良が主人なら藤原の繁栄は止められないな」


 逸勢は一向に酒に手をつけない峰継に飲むように進めるが、その手の杯を口まで上げる気にはなれなかった。


「主人の言うことを聞くんですよね、赤龍は。でも長良が主人とは限らないですよ、赤龍はなにも言っていませんでした。記憶が無いようなのです」


「そうだな、主人は長良ではないかもしれない。もしかしたらお前かもしれない。そして俺かもしれない」


「なんで叔父貴が?」


 峰継の問いに逸勢は声を立てて笑った。


「あの時、俺もこの屋敷にいたからな。唐の僧曰く、龍と守護者は必ず出会う運命だそうだ。しかし、出会う前に龍自身に危機に陥ると、龍は自分から主人を探すそうだ。主人は龍の意識を絡め取るほどの大きな器を持っている。龍を守れる唯一の人、というわけだ。そして奴はここへ来た。それはこの屋敷に主人がいるから以外に他はない」


 峰継は一気に酒を飲み干す。


(もしかしたら、自分が、赤龍の主人…かもしれない)


 心臓の鼓動が速まるのを感じる。これは一気に酒を呷ったからではない。


「まず、誰が主人か調べる事だな。それが長良であれば何が何でも阻止しなくてはならん。長良を見張るのがこれからのお前の主な役目だ。これ以上奴らの繁栄なんぞ見たくない。赤龍の主人が俺かお前だったら諸兄もろえ奈良麻呂ならまろ以来の積年の恨みが晴らせるというものさ」


 橘諸兄も奈良麻呂も表向きは罪人だが、橘の側から見れば藤原氏の陰謀にはめられた人物だ。


 今では橘嘉智子が嵯峨上皇の皇后になった事から橘氏は浮上しつつあるが、辛酸を舐めた経緯を思うと、橘の氏を持つものは同情と一種の苦々しさを持った複雑な心境で彼らを見ざるを得ない。


 逸勢の語気の熱さに、実は彼が橘氏の中で誰よりも橘の繁栄を願っているのではないか、と峰継は思った。官位にもつかず、いつもはふらふらしているのに。


「まあ、家の雑色の誰かだったら歴史がひっくり返って面白いかもな」


 逸勢は笑って峰継から杯を奪い取った。が、峰継は共に笑う事ができなかった。


(赤龍が俺の龍だったら…)


 その日以来、峰継の頭からその問いが離れなくなったのだった。


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