第23話 魂乞う者の意思
東の対に入るなり、目に入ってきた間人の衰弱ぶりに長良は我を忘れそうになった。あの綺麗な髪も乱れ、やせ細り、今にも消えてなくなってしまいそうである。
「間人!」
長良は間人に駆け寄った。そして無我夢中で間人を縛している五色の糸を外した。萩殿によれば五色の糸は龍の苦手なものらしい。現に糸を外した後の間人は心なしか柔和な顔つきになった気がした。長良はきゅっと間人を抱きしめた。
「ナガラ…絶対来てくれると思ってた」
息は絶え絶えだが間違いなく間人の声である。どれ程この声を聞きたかったのかが今、実感としてこみ上げてきた。
「俺、思い出した。俺はナガラの守護龍…」
「ああ」
間人は微笑んだ。しかし龍気が足りず、自分の力だけでは自分を支え切れないようだ。長良は慌てて彼が床へ倒れこまない様しっかり抱え直す。その時、偶然腕に太刀が触れ、又白龍の声が長良に聞こえてきた。
(…後ろの厨子に龍気あり…)
正確に間人の居場所を教えてくれた女の言に間違いはない。長良は間人を抱え、迷わず厨子へ向かった。同時に傍で唖然と見ていた陰陽師が慌てて近寄ってきた。
「長良様、そこは…」
陰陽師の制止を振り切り厨子を開けると、そこには一つの壺が置かれていた。きっとこれが正子妃のところから無くなった龍気の入った壺であろう。
龍気を出そうと蓋を開けようとするが、漆喰で固められたかの様に一向に開かない。
「その蓋は開きません。龍気が凝り固まってしまっているのです」
陰陽師が言う通り、確かに落としても割れそうにない。
(これが開かなければ間人は助からない)
絶望感に襲われた長良は軽く眩暈を覚えた。少し体が揺らいだ拍子に、厨子へ腰に佩いていた太刀が当たり、鈍い音があがった。
(太刀…そういえば)
長良は室生山での出来事を思い出す。確か白龍はこう言っていた。
龍と添い遂げること叶わぬ時は、その太刀で龍を断て
(それならば)
長良は思い至った一つの可能性にかけることにした。
「すぐ楽にしてやるから」
そういうと間人を傍らへおき、長良は白龍に貰った太刀を抜いた。
間人は長良を信じてくれているのか微笑んで頷いた。長良も安心させるように頷き返す。
急に太刀を抜いた長良に一度は後ずさった陰陽師も太刀を見るなり叫んだ。
「その太刀でなら龍を切ることが出来ます」
「ほう、長良、それでどうする?」
その声で長良は初めて嵯峨上皇を見た。いや、間人のみに気を取られ、上皇の存在に今ようやく気付いたという方が正しいかもしれない。そして今父をはじめとする一族の行く末が自分にのしかかっていることを改めて認識した。
こちらを見る上皇の顔は普段通り涼しげであるが、瞳の奥は楽しげにゆれている。思わず怒りが噴き出しそうになり、それを隠すため長良は臣下の礼をとるふりをして跪いて顔を隠した。ここで感情を表してしまっては相手の思う壺だ。
「上皇、もちろん…」
父の取りなしの声が聞こえたが、すぐに上皇に遮られてしまったようだ。
「兄上、一思いに赤龍を絶ってください! その為に太刀を抜いたんですよね」
良房も珍しく叫んだ。上皇の前で太刀を抜くのは不敬極まりない。良房なりの取りなしなのだが、言っている事は残酷だ。間人をこの手で切れという。だが彼なりに心配しているのは痛いほど分かった。
(周りに迷惑をかけず間人を自分の元に取り戻すために頼れるのは、もう己自身しかない)
長良は急速に冷静になっていく自分を感じていた。
「さあ、長良。その太刀でそなたの赤龍を生かすのか、殺すのか、選ぶといい」
嵯峨上皇が言った後、暫くの沈黙が部屋を支配した。皆が見守る中、長良は一度間人を見てから静かに口を開いた。
「とある場所で、この赤龍とは違う龍に会いました」
全く何を言い出すのだろう、という空気があたりを包む。
「私と赤龍の関係はご存知でしょうか?」
長良は跪いたまま、上皇と親王を見上げた。
一方は頷き、一方は首を横に振った。
「私が生まれた時、もちろん覚えていないのですが、この龍の目覚めと重なり、同時に意識をかすめとったらしく赤龍が私の守護龍となりました。その龍はその守護人の命令を遵守する定めを持ちます」
事情を知らない正良親王にざっと今までの経緯を話すが、正良親王は信じられないといった風に小さく首をふった。
(当然の反応だろう)
しかし親王は実際に目の前にいる赤龍を見つめ、それなりに納得した様だ。
「先程も申しましたが、この赤龍とは違う龍、白龍に会ったのです。その白龍も守護人をもつ龍でした。白龍もこの赤龍と同じように守護人に出会うことができました。彼女の喜びは、それはそれは、強いものでした」
一呼吸おき長良は更に続ける。
「私が出会った時、もう白龍の守護人はこの世にはなく、白龍はその守護人の命を一心に守っておりましたが、哀れでした」
「なぜ哀れなのだろうか? 守護人とも出会えた。しかも龍は自分の守護人の命を聞くのが定めなのであろう」
正良親王は、今や真剣に長良の話にのめりこんでいた。
「なぜ龍が守護人の命令に従うのか。それは偏に龍には純粋に守護人と常に共にありたいという気持ちがあるからです。傍に居たいという気持ちが強いために自分の持てる力を守護人に捧げてしまうのです」
室生山で白龍の女が伝えてきた気持ちを長良なりに解釈したものだが、間違ってはいないと思う。それを証明するかのように、抜いた太刀を握る右手からは暖かい波動が感じられている。
「私が会った白龍は守護人に出会い喜びに打ち震えました。しかし守護人から命を受けるも傍らに寄り添い共に暮らす事は許されませんでした。その悲しみを私に伝えてきたのです。それは心が壊れてしましそうなほど深い、深い悲しみでした。その闇を抱えつつ、今も一人で守護人の命を守り続けているのです」
長良が話を一端止めると屋敷の外でさえずっている小鳥の声がよく聞こえた。誰ひとり言葉を発する者はおらず、辺りはとても静かであった。
もう一度長良は隣で力なく横たわる間人を見た。間人も白龍の話は初めて聞くので同じ定めをもった龍として思う所があるのだろう、沈痛な面持ちで長良を見上げていた。
正念場に差し掛かった長良は気を更に引き締める。
「白龍は私に悲しみを伝えただけではありませんでした。この太刀もその白龍から与えられたものなのです。この太刀を初めて握った時、白龍は私に伝えました。『龍とそいとげること叶わぬ時は、この太刀で龍を断て』と。悲しむ龍をこれ以上増やしたくなかったのでしょう。そのためにこの太刀は私に授けられたのです」
「侍従よ。それで、どうする?」
よく通る、氷のような冷たい上皇の声が部屋に広がる。長良はゆっくりと上皇を見た。
「私は…白龍の意志に従いたいと思います」
長良は立ち上がると右手に握る太刀を振り上げた。
「長良、それで良いのか?」
正良親王はそう言いながら思わず椅子から立ち上がっていた。親王は心優しい方だ。もうすっかり龍に同情を寄せていた。
長良は何もいわず太刀を振り下ろした。
その途端、眩い光が流星のように広がり、部屋の中、見ている者たち全ての目を眩ませた。
暫く後。
ゆっくり目を開くと、眼の前の光景に皆息を飲まざるを得なかった。
美しい光りの中心、そこに神が現れた。