第22話 選択
藤原冬嗣は嵯峨上皇を先導して東の対屋に入り、赤い髪の少年と対面させていた。
「これがあの宮中を騒がせた赤い妖とやらか」
上皇は普段あまり感情を表に出さない方だが、その言葉には多分の驚きが隠しきれずに滲み出ていた。冬嗣も今まで髪の赤い人など見たことがなかった。渤海などの他国の使者の中にもこれほど鮮明な赤毛はいなかった。
嵯峨上皇は唐文化が好きで、和歌よりも漢詩を好むほどだ。大陸からもたらされた書物で龍に関係する話も読んでいるのを知っている。上皇も龍が実際にいるかもしれないと思う反面、実際に見られるとは思っていなかったのだろう、この部屋に入ってからというもの、赤龍から少しも目をお放しにならない。
赤髪の少年は、龍の苦手な五色の糸に縛られることにより荒い息を繰り返している。こちらへ連れてこられた時より衰弱しているようだ。
「なんか…かわいそうですね」
続いて入ってきた正良親王は赤龍を見てそう呟いた。
あまり近づくと何がおきるか分からないという事で少し離れた所に二人の為の席は設けられているが、正良親王は呼吸荒い赤龍の苦しみが自分の事の様に感じるのか気づかないうちに赤龍と同じように眉間にしわが寄ってしまう。
一方、嵯峨上皇はもう普段と何ら変わらない表情で見つめていた。
(親子でもこんなに違うものなのだな)
冬嗣は横目で嵯峨、正良親子を冷静に観察していた。
「冬嗣、この龍をどうするのか?」
嵯峨上皇は着飾った女房から差し出された酒の杯を受取り、ゆったりと口に運ぶ。それは貫禄と威厳を兼ね備えた隙の無い動作であった。
「もちろん消しますよ。ご存知の通り宮中を騒がしましたし。だから上皇が欲しいと申されても、こればかりは差し上げられませんな」
冬嗣は遠慮なしに答える。臣下とはいえ上皇より十二歳も年上であり長年苦楽を共にしてきた間なので、嵯峨上皇も冬嗣の言い様には全く気にも留めない。
「そうか。しかし、赤龍はお前のものではないのだろう?」
「…さて」
なんと上皇は耳聡いのだろう、と冬嗣は思った。
宮中を騒がせた赤龍を捕まえたことは打ち明けたが、どういう経緯で閑院にいるのか、ましてや長良と関係がある事などは一切話していない。今ここで『実は…』という形で話そうと思っていたのに。
(上皇の耳に入れたのはあの橘逸勢あたりだろう)
逸勢は宮中での妖騒動の後、長良を疑っていたと聞く。龍気の入った壺を奪われ、一死報いるために上皇に長良の名前を絡めながら龍の話を聞かせたに違いない。
顔にこそ出さないものの、冬嗣が明らかに戸惑っていると感じた嵯峨上皇は初めて満足そうな笑みを出した。すこし色黒である肌が野性味を感じさせ、均整のとれた美男子だけに絵になる。
「どういうことですか?」
正良親王には二人の会話の内容が見えない。
「ほら、知っているのはごく一部だよ」
正良の肩をぽん、と叩き冬嗣に再び笑みをみせた。
(龍の使い道次第では上皇の手でこの先の藤原北家の運命も変わるということを暗に言いたいのだな)
いつもながら食えない方だ、と冬嗣は思った。嵯峨上皇は冷然院で悠々自適に暮らしておられるが、政においてまだまだ強い影響力を持っている。この人の目の黒いうちは今の藤原北家の力を維持するのに全力を傾けるべきなのだろう。
嵯峨上皇より年上なので順番通りいけば先に死ぬのは自分だ。基礎をしっかり固めておいてやらないと、息子達はまだ年若い。最近身体の調子の悪さを自覚し始めた冬嗣は軽い焦りを感じた。
「おや、こちらにくるのは侍従ではないかな」
演技がかった声でいい、嵯峨上皇はゆったりと杯を持った手で渡りを指し示す。確かに長良だった。その一人分あけた後に良房がついてきている。
(何故長良はここが分かったのであろうか)
冬嗣は驚いていた。彼の屋敷から赤龍を奪う時も自分との関連が明るみに出ないように細心の注意を払った。龍を閑院へ連れてきた時も外へ龍気が漏れないようしっかり封印したはずだ。見鬼といわれる萩という娘も念のため閑院から出した。
長良がその後どう出るか配下の者を見張りに付けたが、龍のいそうな所には行くが閑院とは気づかれていないと言う報告を受けていた。
(そこまで長良と赤龍の絆は深いのか…)
長良に気づかれることなく赤龍を処分しようと思っていたが、無理の様だ。
上皇と親王の前で赤龍が選んだ長良の、ひいては藤原氏の優位性を見せ付ける。と同時にその赤龍を消すことにより忠誠心を表わして更なる信頼を得ようとしたのだ。練れた嵯峨上皇にはそれほど効果はないかもしれないが、年若い親王なら性格も優しいので信じるだろうと踏んでいた。これから息子達が盛り立てて行くのは正良親王なのだから。
しかしこうなった以上、この場はなんとしても上手くまとめなければと冬嗣は気を引き締めた。
「では持ち主に直接聞いてみようか」
冬嗣の気持ちを知ってか知らずか、嵯峨上皇はしれっと言った。
東の対屋へ入るなり、長良は一瞬立ち止まった。上皇も親王も彼の目に全く入っていないようだ。普段から周りの気配りを忘れない長良にはとても珍しい事だった。
「間人!」
長良はそう叫ぶと赤龍に駆け寄った。そして急いで彼を縛していた糸を外し、抱きしめる。
「ナガラ…来てくれると思ってた」
赤龍は声を掠れさせながら長良を見上げた。冬嗣は長良を止めようと立ち上がったが、すぐに上皇に遮られた。
「黙って見ておれ。感動の再会ではないのか?」
有無を言わせぬ上皇の物言いに、冬嗣は再び座らざるを得なかった。
「俺、思い出した。俺はナガラの守護龍…」
「ああ」
赤龍は微笑んだ様だ。しかしすぐに力なく長良にもたれかかってしまう。陰陽師にじわじわと奪われ続けた龍気が足りないのだ。長良は彼が床へ倒れこまない様しっかり抱きかかえる。
そして間人を抱えたまま立ち上がると長良は真っ直ぐに厨子へ向かった。その動きに今まで呆然と長良の行動を見ていた控えの陰陽師が慌てはじめた。
「長良様、そこは…」
冬嗣も息を飲んだ。厨子には正子妃の元から奪い返した龍気の入った壺があるのだ。何故長良が陰陽師と自分しか知らない壺のありかを知っているのか全く見当がつかなかった。
しかし、長良が龍気を出そうと手に取った蓋を開けようとするが、硬く締まっていて開かないようだ。
「その蓋は開きません。龍気が凝り固まってしまっているのです」
陰陽師は恐る恐る言った。
絶望の色を濃くした長良だったが、何を思ったか赤龍を傍らに寝かせた。
「すぐ楽にしてやるから」
そう言って、腰に佩いていた今まで見たことのない美しい太刀を徐にすらりと抜いた。
「ひぃ」
長良から壺を取り返そうと近づいていた陰陽師は声を上げて後退る。しかしその太刀を見た途端、陰陽師は叫んだ。
「その太刀でなら龍を切ることが出来ます」
陰陽師の言葉に嵯峨上皇の眼が輝いたのを冬嗣は見逃さなかった。
「ほう、長良、それでどうする?」
いたって冷静な声で嵯峨上皇は尋ねた。長良は膝を折って臣下の礼をとった。一方冬嗣は努めて冷静さを装い理性をかき集めた。ここで失敗するわけにはいかない。息子を、長良を救わなくてはいけない。
「上皇、もちろん…」
「いや、長良にどうするか聞いているのだ」
冬嗣の気持ちとは裏腹に、嵯峨上皇は冬嗣の言を封じた。
「…はい」
嵯峨上皇にそう言われてしまった以上冬嗣は引くしかない。
長良が赤龍の守護人ということは上皇もすでに知っている。龍のもたらす力も当然ご存じだろう。ここで龍を断たなければ藤原北家に謀反心ありとされかねない。当の本人にその気がなくても政敵には願ってもいない口実となる。自分が逆の立場ならこの手の好機は絶対逃さない。
「兄上、一思いに赤龍を絶ってください! その為に太刀を抜いたんですよね」
願いとも強制ともとれる声で良房は叫んでいる。彼も瀬戸際を感じているのだ。
「さあ、長良。その太刀でそなたの赤龍を生かすのか、殺すのか、選ぶといい」
上皇は持っていた杯を女房に手渡し、ゆったりと椅子に座りなおした。
しかし冬嗣は分かっていた。龍がどうこうと言う以前に、上皇はこの状況をただ楽しんでおられるのだ。
(趣味が悪いな)
冬嗣はこっそり腹の中で毒づいた。