第21話 閑院の客
「長良の言っていた通りだったな」
馬から降りた峰継は先に降りていた長良の隣へやってきた。長良は無言で父の家である閑院のどっしりとした大きな門を見上げていた。
「どうする?」
おずおずと聞く峰継に長良は軽く首を竦めた。
「俺の実家なんだから、堂々と入口から入るさ。峰継もどうぞ」
「…おう」
長良は平然と門をくぐって行く。峰継も閑院は初めてではない。ここは数年前に嵯峨上皇も行幸されたことがあるだけあって、宮中の様に煌びやかではないが、手間と財をかけているだろうことは見た目から容易に想像できる屋敷の構えである。その為か、此処はいつも峰継を恐縮させるものがあった。
「長良様!」
屋敷内に足を踏み入れた途端に名前を呼ばれた。声をかけたのは閑院で下仕えをする清里という若年の男だった。
「お、おかえりなさいませ。あの、今迎えの者を出しますのでここでお待ちを」
しどろもどろな早口でそう言うと、彼は風のように走り去り、屋敷内へと消えて行く。
「なんだあれは」
峰継は不思議そうな顔ですでに姿の見えない彼の行く先を眺めた。長良も軽く首をかしげ、そのまま歩みをすすめた。峰継は長良の袖を引いた。
「いいのか、ここで待っていなくて」
「案内がいるほど知らない所でもなし、待つ必要がないだろう。あるとしたら向こう側じゃないのか」
「そ、そうだな」
峰継も頷き、長良の後を歩き始めた。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
さすが有力者の屋敷だけあり使用人も多い。家人や女房達が長良を見つけるたびに声をかけるのに、長良は普段と何ら変わらない様子で答えていく。
「今から何が起こるのか分らないのに、よくもまあ冷静でいられるものだな」
驚き、そしてあきれた峰継の小声が後ろから長良の耳に聞こえてくる。
峰継にはわからないだろうが、入口をくぐった時から屋敷内の様子がいつもと違うと長良は感じていた。言いようのない張り詰めた緊張感がある。
「だれか先客が来ているようだな」
突然の長良の問いに峰継はすぐ答えることができなかった。
「そういえば車寄に牛車があったなあ」
峰継は思い出しながら答えていたので、長良がいきなり立ち止まった時、後ろについてきていた彼は長良とぶつかりそうになる。
「どうしたんだよ、急に止まって」
「なあ、峰継」
「おう」
長良はゆっくりと東の対屋がある方を眺めた。
「やっぱり峰継は帰った方がいい」
「唐突だな。今更何だよ?」
「今閑院に来ているのは…」
長良の言葉を遮るように渡を走る足音が聞こえた。
「これは、兄上ではありませんか」
声の先には貼り付けたような笑顔を見せる良房が立っていた。
「正規からここ二、三日は重い物忌みだと聞いておりましたが」
「そうか」
長良は正規の配慮に感謝する。室生にいっていた間は出仕しなかった訳で、長良のこれからの為に理由をつくってくれたのだ。
しかし正規の誠意には答えられなくなるだろう。事と次第によっては出世の道が閉ざされてしまうかもしれないから。
良房の隣を通り過ぎようとした長良を、良房の腕が遮る。
「お待ちください」
「東の対なんだろ」
「兄上の為を思ってお止めするのです」
良房の瞳の中に本気の色を見た。それで十分だ、と長良は思った。
「父上やお前には迷惑はかけないから」
長良はやさしく良房の腕を下ろす。そして峰継に振り返る。
「こちらに見えているのは多分嵯峨上皇だよ。間人を見にいらしたんだと思う」
「上皇が! どうして?」
峰継は素っ頓狂な声を上げた。
「正良親王もお見えです」
低い唸り声のような声で良房が付け加える。
「だそうだ。実際、俺がこれからどうなるか分からない。それに峰継を巻き込むわけにはいかない」
峰継は長良の顔をじっと見つめる。そしておもむろに長良の胸倉をつかんだ。胸倉をつかまれるのは今日で二度目だ。
「一人でかっこつけてんじゃないぞ。間人のことは俺達二人で始めたことだろ、だから俺は最後まで付き合うつもりだ。それに一人で行かせたらお前、何しだすか分かんないからな。世話が焼けるぜ」
にやり、と峰継は笑った。
「お前に言われたくないね」
長良も彼を真似て、にやり、と笑って見せた。
「清里」
長良は良房の後ろで小さくなっている先程の家人に声をかけた。きっと彼は長良が閑院に来たときはいち早く知らせるよう良房に言い含められ、門の所で見張っていたのだろう。
「峰継殿はお帰りだ。必ず彼の屋敷までお見送りするように」
「長良!」
驚いたのは峰継だ。驚きすぎて口をぱくぱくさせる峰継に清里は帰るよう促すが、それを聞く峰継ではなかった。
「こら、長良! 今までの人の話をきいていたのか! 意味が分からんぞ」
「今までの話を聞いて分かったことはただ一つ、お前が良い奴だということだ。清里、峰継殿を必ず屋敷までお届けするように。一人で無理なら誰かに頼むと良い」
長良の言外をくみ取り、清里は暴れる峰継を羽交い締めにした。六尺も背丈がある峰継だが、清里も大きさでは負けていない。しかも普段からの重労働で体は鍛えられており、峰継はずるずると引きずられていった。
「離せ! こら、長良ぁ!」
だんだん小さくなる峰継の声を長良は背中で聞いた。
「騒がせたな、さあ、行こうか」
長良は良房に笑みを向けたが、珍しく良房は顔をひきつらせた。
「兄上も自分の屋敷へお戻りください。あとは私に任せて」
「駄目だ。ここには嵯峨上皇に正良親王、父と良房、そして間人、…間人というのは私が赤龍につけた名前だ。しかしそれだけで話を進めるには足りない人物がいるだろう? 私だ。私は赤龍、間人の守護人だから」
「知ってしまわれたのですね」
良房は瞳を閉じた。長良は弟の肩に優しく触れると先に歩きだした。
さて、峰継は屋敷から出したので彼に累の及ぶことはないだろう。彼は自分を恨むかもしれないが、峰継を守るためにはこの方法しか思いつかなかったのだ。
長良は室生山で白龍と出会うことで龍の持つ力も知ってしまった。守護人の願いは絶対叶える龍の力は侮れない。嵯峨上皇もそれを知った上で間人をご覧になりにきたのだ。
そんな中、周りに迷惑をかけず間人を自分の元に取り戻す事が出来るだろうか?
(いや、必ずやらねばならない。間人、もう少しだけ頑張ってくれ)
長良は気を引き締め、背筋を伸ばした。長良を待つ間人のいる東の対屋はもう目の前だ。
今では黙って後を付いてくる良房の堪え切れないため息だけが耳に入った。