第19話 白龍
長良は峰継に遅れることなく馬を走らせる。
竹林や幾つかの集落を越え、三輪の山を横目で眺めた。
「おっ、景色が変わってきたな」
峰継の言う通り、しばらくすると濃い緑に覆われた山に入り、絶壁や屏風のような凹凸のある荒々しい岩肌が見え隠れするようになった。
長良がこの場に来るのは初めてではないが、気持の持ちようがいつもと違うせいか、ひんやりとした空気の色はいつものそれとは異なって感じられた。
足元に注意しつつ清らかな流れに沿って馬を進め、何とか日のあるうちに室生寺に着くことができた。突然の、しかも供も無い訪問に僧たちは驚いたが、その中に長良を知る僧がおり、心よく一間を貸し与えてくれた。
「あ〜、流石に疲れたなあ」
部屋に入るなり峰継は靴を脱ぎ捨てると足を揉みだした。長良は開け放たれた蔀戸から空の様子を見て、おもむろに間人の衣を荷物の中から取り出した。
「まだ少し日があるから、先程僧に聞いた龍穴があるという神社を少しでも調べてみようと思う」
「え、ちょっ、待て、長良」
先にどんどん歩いて行ってしまう長良に慌てて靴を掴み峰継も続く。
暫く坂道を進み、大きな二本の杉の木に挟まれた鳥居をくぐるとそこが僧の言っていた龍穴があるという神社だ。
「あんまり気味が良くないな」
夕闇も手伝っての景色に、少し後ろから付いてくる峰継がぼそりとつぶやく。
龍穴神社の境内には人気はない。日が沈みかけている上に深い木々に覆われ薄暗く、水辺が近いだけに風がひんやりと肌を逆なでる。
社の近くまで来た所で長良はふいに鈴の音を聞いた。
立ち止まって耳をすますと、やはり再び鈴の音が聞こえた。
境内の奥の木々の先から聞こえるようだ。幽かに聞こえる軽やかなその音を逃さないように長良は神経を研ぎ澄ませる。
「峰継、行ってみよう」
林の奥から目が離せない。長良は吸い寄せられるように夕闇の中の歩みを進めた。
引き寄せられるまま木々を縫い、草をかき分け、気がつくと長良はぱっくりと口を開けた岩の前にいた。
急に開けたこの場所は、少し高い岩から落ちる水が美しい曲線を描きながら流れていき、深い岩穴へと落ちていく。
(ここはよく分からないが、何かが保たれている)
潤った空気が清々しいと長良は感じた。しかしどうやってこの場所にたどり着いたか、正直分からない。
「境内の裏手の林から聞こえた鈴の音も止まってしまったな」
周りを見渡したが、峰継は近くにいないようだ。後ろからついてきているとばかり思っていたが、いつの間にはぐれてしまったのだろう。
峰継を呼ぼうと思った時に、ふいに後ろでゆれる気配を感じた。
(峰継とは全く違う)
長良は咄嗟に腰の太刀に手をかけ振り返った。
そこには、年の頃でいえば十八、九の若い女性が少し離れて立っていた。
しかし普通と違うのは髪も肌も衣も全てが白く、この夕暮れの中、やさしい光の衣をまとっているかのようにぼんやりと輝いている。全てが白い中、瞳だけに色があった。
あの間人の瞳と同じ、紫色。
「うらやましき、されど、哀れなり」
軽やかな美しい声だった。鈴の音だと思っていたのはこの声だったのだろうか?
か細い声だが近くの滝の音にかき消されることなくしっかり長良の耳にそう届いた。
長良は喉に渇きを覚える。
「あなたは、白龍…ですか?」
声が勝手に掠れてしまう。若き女性は表情を変えることなく視線だけ少し下へ落とした。
「その太刀ではわらわは切れぬ」
長良はとっさに太刀から手を離した。緊張のあまりずっと太刀の柄を握り締めていたようだ。
「この赤龍は守護人に会えたのだな」
そう言って女はゆっくり長良に近づき、長良の持っている衣に触れた。
間近でみる女は睫毛がとても長く肌理細やかで顔は怖いくらいに整っていたが、どことなく影があり、寂しさを滲ませていた。
「間人の、いえ、この龍気を持つ赤龍の居場所が知りたいのです。あなたは同族の龍ではないのですか? もしそうであれば…」
長良の問いはまるで無いもののように、その女は途中で遮った。
「うらやましき。わらわには名前すら無い」
はき捨てるように呟き顔を上げた女の瞳に、一筋の流れるものが光っていた。そしてそれに呼応するかのようにさらさらと小雨が降りだした。
「あの、お泣きにならないで」
長良は女が濡れないように木陰へ導き、懐から懐紙を取り出し女に差し出した。しかし女は懐紙ではなく、長良の手を掴んだ。
「賢憬様もこれくらい優しければよかったのに。わらわは彼の傍で役に立ちたかっただけなのだ。一言でも優しい言葉があれば支えにもなろうが…わらわをここにおき留め、とこしえに霊験を顕わし国家鎮護せよ、とは」
手を掴まれているからか、女の心の風景が長良にも見えてきた。
長良の心に伝わる賢憬は小柄だががっちりとした体躯で、意志の強そうな真っ黒な瞳を持つ僧だった。
次に、女が守護すべき人である賢憬を見つけ、その喜びに震えながら忠誠を誓った絵が浮かんだ。同時に長良にはただ賢憬と共に居たいという女の気持ちがひしひしと痛いくらいに伝わってくる。
しかし賢憬は彼女に霊験と国家鎮護のみを求めた。心とはうらはらに女は頷いた。守護人の願いは絶対だ。彼女は賢憬の前に跪くと彼との間に契約を結んだ。
そのため結果的に室生に封じられる形となった。
賢憬といえば興福寺の僧だ。嵯峨上皇の父、桓武帝がまだ山部親王と呼ばれていた頃に病気となった時、この室生山中で延寿法を行い、病気を平癒せしめた高僧と聞く。
(賢憬殿にこの哀れなほど一途な彼女の魂も救って貰いたい)
長良は強く思った。守護人は龍に守られるだけではない。龍を守ることができる唯一の人なのだ。だからこの世で彼女を救えるのは彼しかいない。しかし同時に、賢憬はもうすでに入寂なさっているのも知っていた。
(だから彼の入滅後もその誓いにこの女はずっと縛られ、命果てるまでここで生きていくしかないのだ)
長良はほどこしようもない位の胸の痛みを覚えた。
女は長良の手から自ら掴んでいた手を離した。その拍子に我に返った長良は自分が泣いていたことに初めて気づいた。いつの間にか気持が同調していたようだ。
目を少し見開いた女はじっと長良を見つめ続ける。
「ほんに、赤龍がうらやましい」
女は小声でそう呟き、手を伸ばすと長良の首に両腕を回した。抱きついた恰好だ。
急なことに戸惑い、長良は咄嗟に女から離れようとした。だが女はさらに強く長良にしがみついてきた。
「あの…」
「今はこのままで…頼む」
今までの威圧的な態度とは違う、しおらしい声であった。今まで心に押し込めていた感情が長良に話すことにより吹き出てしまったのだろう。
賢憬殿の代わりにはなれないが、今の彼女に自分の温かみが救いとなるならば、と長良は彼女の背にそっと手をまわし、あやすようにぽんぽんと叩いた。同時に彼女のすすり泣く声が聞こえてくる。
(守護人と離れた龍はなんと一途なのだろう)
彼女の発した「哀れなり」とは彼女自身の事だったのだろうか。それとも、間人が同じ運命をたどることになるのが哀れだったのだろうか。
彼女をあやしつつ見上げた空には先程の雨とは打って変わって、満天の星空が瞬いていた。