第18話 井出の夜更け
「なあ、長良。もう寝たか?」
背中越しに峰継の声がする。峰継が何度も寝がえりを打つので彼が寝ていない事は知っていたが、それを知っている長良も同様に寝付けずにいたのだ。
「いや、まだ起きているよ」
「そうか。ならちょっといいか?」
「ああ」
長良は夜具から身を起こす。見慣れない部屋。
ここは橘諸兄の別邸だったものを諸兄の曾孫、峰継の父である氏公が貰い受けたものである。室生へ向かう途中で日が暮れ、峰継が是非にとすすめてくれたのでここで一晩泊まらせてもらうことになった。もちろん長良は初めて泊まる。
少し開けられた蔀戸からさす月明かりに峰継の強張った顔がぼんやり浮かんでいる。
「間人の事なんだが」
それしかないだろう、と長良も思っていた。長良は無言で頷く。
「龍気が正子妃の所にあるなんて、本当に知らなかった」
「分かってるよ」
「でも、知っていて隠していた事もある」
「話してくれるのか?」
長良の穏やかな声色に安心したのか、峰継は一つ短い息を吐いた。
「赤龍は英雄出生に関わりがある事を知っているか?」
「ああ。龍自体伝説かと思っていたが、実際に間人がいるのだから、あながち嘘でもないんだなと思ったよ」
「でも、間人はそれにはあたらないんだ」
そして峰継は逸勢に聞いた話を長良に話した。長良は知らぬ間に夜具を握りしめていた。
「では、間人は…誰かの守護の龍ということなのか」
「その通り。赤龍は必ず守護人を探し出して会いに行くそうだ。そしてその人の願いは必ず聞き届ける。間人は何か言っていたか?」
「いや、そのようなことは言っていなかった。その…龍が誰かの守護になるという話は初めて聞いたし」
「俺も逸勢の叔父貴に聞くまで知らなかった」
「今は間人の記憶がないだけで、間人の記憶が戻ったら、その人の所へいくわけだな」
「長良かもしれないぜ。初めて間人を見つけたのは長良だった」
「峰継かもしれないだろ、初めて間人を見つけたのはお前の屋敷だった。それか逸勢殿か全くの別人か」
少しの沈黙の後、峰継はためらいがちに言った。
「なあ、長良。俺たちは間人の手掛かりを求めて室生へ向かっている訳だが、もしかしたら間人の記憶が戻って、その守護すべき人の所に行った可能性もあるよな」
峰継の言葉に長良は心の臓をつかまれた気がした。
(確かに峰継の話からすれば、その可能性はあるかもしれない)
あの笑顔が他の誰かのものだけになる事実に長良は打ちのめされそうになる。が、長良はゆっくりと首を横に振った。
「それなら、それでいい。が、屋敷の対の屋の燃え方を見る限り、自分の意思で出て行ったとは思えない」
峰継も納得したように何度も頷いた。
「だな。たとえ守護人が見つかっても、間人なら黙って出て行く訳がない」
その峰継に長良はまっすぐ向きなおし背筋を伸ばした。峰継も驚き、姿勢を正す。
「実は龍気を奪った件には橘氏が関っているとずっと思っていたんだ」
「ずっと…へえ」
「初めて間人が橘の屋敷に現れた時、走って逃げる常義という男を見たと正規が言った。常義は嘉智子皇太后の御付の女房の兄ということだ。彼が橘の屋敷から走って逃げる必要は普通から考えると、無いな。そこから疑問を持った」
「どうして言わなかったのさ?」
「皇太后が関わっているのなら峰継に聞けば良かったのかもしれないが、聞きづらかった。この事で峰継と上手くいかなくなるんじゃないかと思ったのかもしれない。それに」
「それに?」
「それに…間人がいて、峰継がいて、萩殿がいて、そんな日常がそのまま続いたらいいなと思っていたのかもな。真実を知りたくなかったのかも知れない」
暗闇に目が慣れてきた長良は、峰継に同感の表情を見た。峰継が長良を避けていたのも後ろめたさも多分にあっただろうが、彼もいつかは訪れるだろう長良との正面からの衝突をできるだけ先延ばしにしたかったに違いない。
「とりあえず無理やり連れていかれた間人の居場所は突き止めなくちゃ。室生で何か見つかるといいな」
峰継は今までの声質とは一転、努めて明るい声で言った。峰継がこういったしんみりとした雰囲気を嫌いなのは長良も知っている。しかし長良の顔から憂いは消えなかった。
「峰継」
「ん?」
「初め、龍気を奪ったのは嘉智子皇后と考えていたのだが、本当の黒幕は他にいるのではないかと今は思っている」
「逸勢の叔父貴か?」
「いや、俺の親父殿」
「冬嗣卿が!」
静かな室内に峰継の声が広がり、何時もより大きく聞こえた。長良は声を落とすように手振りで示す。峰継も瞳で謝り、先ほどまでの小声に戻る。
「でも、何故冬嗣卿が?」
「証拠はない。ただ良房の動向が少し気になるんだ。なにか隠しているのは間違いない。だが、良房が単独で行っている様子ではなかった。そうなると背後にいるのは父しかいない。親父殿なら赤龍が何をもたらすか知っていても不思議では無いしな」
峰継は俯き軽くうなり声をあげたが、ふと思い直し、ちらりと上目遣いで長良を見た。
「そんなこと俺に話してもいいのか? 『赤龍を使い、藤原北家に謀反の恐れあり』って告げ口するかもよ」
「私は峰継が親友だと信じているから話した。逸勢殿の話によると、間人が父の守護龍である可能性は低いのだろう?」
「たぶん、いや、絶対違うと思うよ」
「今の所、親父殿を黒幕と決める証拠は全くない。だが、室生に行って何も見つからなかったら、閑院に探りを入れてみようと思う。可能性が少しでもあれば潰していくべきだ」
「閑院の大臣、かあ…」
峰継は軽く顔をゆがめた。長良は苦笑する。峰継は口には出さないが、父の冬嗣を苦手としているのを知っているからだ。
「仮に、本当に間人が父の元にいて、それが無理やりであるなら何としても助け出す」
「たぶん、右大臣が相手じゃ一筋縄ではいかないだろうな。ま、仮に上手くいったとして、それからどうする? 間人をどこかに隠そうか?」
「隠す?」
峰継の言葉は長良にとって意外なものだった。峰継は長良の反応が意外だったようだ。
「だって、間人の記憶が戻ったら守護人の所へ行ってしまうんだぜ。俺や長良が守護人ならいいけど、違う人かもしれない。まあ、叔父貴の知識がすべて正しいとも限らないけど、長良も間人が居なくなるのは嫌だろう?」
確かに、間人が目の前から居なくなるのは考えられないし考えたくない。だが不思議と峰継に言われるまでは間人を束縛しようという考えは浮かばなかった。
「どこかに隠してしまうと、きっと間人にとって今置かれている状況と変わらないだろう。とにかく、間人を助け出した後は、もう私達がどうこう考えることではないよ。実際、具体的に後の事は全く何も考えてはいない。そうだな、強いて言えば、間人の好きにさせる、くらいかな」
峰継は口を軽く開け、長良を見る。
「なんか…すごいんだか、いいかげんなんだか、紙一重だな」
「そうだな」
二人は一緒に笑い出す。京からこの井出の屋敷までギクシャクしていた関係が、お互いの腹の内を話す事で今までの様に元に戻った事が二人とも嬉しかった。
だが、長良はふっと笑いを収めた。
「藤原と橘で、これから子供の頃のように単純にはいかないかもしれないが…」
「分かっているって、俺にとっては藤原氏の中でも長良は特別。あー、暗闇に乗じて親友とか恥ずかしいこと言うなよな。つられてこっちまでおかしくなっちゃったじゃないか」
「最近、言葉や態度に出さないと駄目な時もあるって学習したのさ、親友の峰継君」
長良は峰継が嫌がることを承知で、特に親友の部分を強調して言った。もちろん峰継は本気で顔をしかめている。
「だーっ、もうやめろ。明日は早いんだからもう俺は寝る。長良もさっさと寝ろ。俺は明日、本気で馬を飛ばすからな。長良も悪罵を乗り馴らした内麻呂卿の孫ならちゃんとついてこいよ」
「お前が馬を得意としているのはわかっているよ、せいぜい遅れないようについていくさ」
「おう。じゃあ、おやすみ」
「ああ」
そう答えたものの、長良はすぐには眠りにつくことが出来なかった。
(まだ私は本心を明かすことに躊躇いがあるのだな。親友である峰継に対してさえも)
間人を見つけ出した後、間人の好きにさせると言ったのも長良の願いではあるので嘘ではない。だがそれは『きれいごと』の部分である。本当は峰継の言ったとおり何処かへ間人を隠してしまいたい気持ちがある。そして誰の目に触れさせることも許さず自分だけのものにしてしまいたい。そんな自分も一方には、認めたくはないが、確実に存在する。
ただ今までその気持ちを自ら気づかないようにしていただけだ。
いつから自分は本心に蓋をして生きるようになったのだろう。
(いや、今まではそれに対して苦に思ったことは一度も無かった。間人が現れてからだ、このように自分というものを深く考え始めたのは)
初めて鏡を見たときの事は長良の記憶に残っていないが、きっと間人という掛替えのない鏡を通して自分をみた戸惑いや恐れ、裏腹な喜びといった今の長良の心に流れる感情と似たものだったに違いない。今回はそれに甘美さも加わり長良の心を支配しようとする。
(いつまで抵抗できるのだろうか)
そう思いながらも実はもう降参してる気さえし、長良はそっと苦笑する。
隣では峰継は寝息をたてはじめた。
(とにかく、間人の手掛かりが室生で見つかるといいのだが)
ここまで来たら自分のカンを信じるしかない。
長良も明日のために瞳を閉じ、知らぬ間に眠りに落ちていった。