第17話 龍と龍気と
「長良はどのような様子だった?」
良房は冬嗣の目の前に座った途端、そう問いかけられた。
妖祓いの儀式を終えたあと、しばらく兄の長良と共に過ごしたが、兄とも別れ、職務をこなした後その足で父の屋敷である閑院にやって来たのだ。
「はっきりとは分かって無いようです。が、察しの良い方なので私は兄上に疑問をもたれてしまいました」
良房は苦笑いをしながらも明け透けに今日の宮中での様子を話してきかせた。
いまだに政に重きをなしている嵯峨上皇が神野親王と呼ばれていた若き頃、次男で冷や飯食らいだった親王を帝位に押し上げたのは父の尽力があったからだ。その息子の正良親王に自分の娘を嫁がせ、皇后にすることを暗黙の了解にまでこぎつけさせた父の辣腕ぶりを良房は尊敬していた。
良房は藤原一族の中で劣勢だった北家の繁栄の基を確たるものにしたのは父と信じて疑わないので、冬嗣には言いにくい事もはっきり言って父の物の考え方をできるだけ吸収しようと日々努めている。
「そうか、あの逸勢が長良に食ってかかったか」
良房の話を聞き終わった冬嗣はそう笑って呟いた。
「まさか、よりにもよって橘嘉智子の娘、正子妃の所に龍気の壺があるとは思いませんでしたからね」
赤龍をおびき出したあの日、赤龍の龍気を奪ったが全て奪いきれず、全てを封印しようと追いかけると赤龍は橘峰継の屋敷へ逃げ込んだ。その意味がはじめ分からず、混乱しているうちに奪い取った龍気の壺まで紛失してしまった。
赤龍が橘の屋敷へ行ったのは、そこに兄の長良がいたからだ。
そこまで強い二人の結びつきに、良房は寒気を覚えたものだ。
行方不明のままだった龍気の入った壺は昨晩の宮中での妖騒動で在り処が分かり、その騒動に紛れて今度は此方が壺を奪い返すことができた。
それは良房が妖が現れたという正子の部屋を訪れた時だった。
意図的に懇意にしていた正子付きの紀伊という女房から物陰へ呼び出され、目の前に龍気の壺を差し出された時は息が止まるかと思ったほど驚いた。
その紀伊が言うにはこの壺を正子妃に差し上げたのは嘉智子皇太后であり、嘉智子は逸勢からもらったものだという。
龍気の入った壺だけでも取り返そうと、一度賊を装って配下の者を橘の屋敷へ押し入らせたことがあった。その際、橘の屋敷の内部に詳しいものとして嘉智子の私的の女房の兄の常義を使った。彼はいわば橘に放った藤原の間諜だったのだが、その紀伊曰く、実は逸勢の間諜も兼ねており、彼から逸勢に壺が渡ったらしい。その常義は行方知れずで、多分逸勢がどこかへ匿ったのであろう。
その壺を受取り、懐に隠して正子の部屋から戻る途中で兄に声をかけられた時は生きた心地がしなかった。たぶん、その時うまく隠しきれなかったのだろう、兄に疑問を持たれてしまった。
この今までの一連の件に博学の橘秀才、逸勢が一枚噛んでいることは間違いなくなった。今は無位無官だが、この一件で見せた彼の情報網と素早い行動力は無視しがたい。
逸勢が政に乗り込んできた時は早いところ始末しないと厄介な事になると思った。嘉智子皇太后も彼女の皇后擁立時に藤原が手を貸したとはいえ、なかなか食えない野心家で、いつまでもこちらの言いなりのままではいない。
現に、娘の正子を今上淳和の妃として入れた。血筋の良さからいっても正子が淳和の皇后になるのは間違いない。男御子でも生まれた日にはまた骨の折れることとなる。この二人にさえ注意していれば、残りの橘氏はさほど気にすることはないであろう。
ただ有難いのは、嘉智子も逸勢も龍気の壺が閑院にあることを知らないし、長良が赤龍の守護人ということも知らない。そして、長良と赤龍もどうしてお互いに引き寄せられるのかという本当の理由をまだ知らない事だ。
情報が多い分、ずいぶん此方が優位となった。
「壺を取りもどしてくれた女房はどうした?」
冬嗣は試すように良房を見た。
「紀伊の事ですか? ちゃんとそれなりの物を与えて身をかくさせました。ただ、しきりに次の除目を気にしていました。ちゃんと父が国司に任命されるかどうか」
「ちゃんと約束は守るよ」
「ええ、こういう約束は守っておかないと後が大変ですものね」
それには冬嗣は何も答えずに、年の割には颯爽と立ち上がった。
「壺の管理はお前に任せる。あと、まだお前に言っていなかったがあれが東の対の屋にいる」
「見つかったのですか? 赤龍が!」
良房は表情だけではなく、声色の細部まで驚きを出した。
「赤龍は長良の守護だ。何があっても長良にたどり着く。長良の屋敷を見張っていれば見つけるのは簡単だ。ただ、方法が手荒かったので、長良の屋敷の対の屋をひとつ全焼させてしまった」
「それはまた、派手にやりましたね」
良房は苦笑しかけたが、すぐ顔を引き締める。
「兄の乳兄弟の萩と呼ばれる母付きの女房はどうしたのですか? 彼女は見鬼なのでしょう? 兄とも親しいし、すぐに赤龍の居場所を兄に知られてしまうのではないですか」
「萩という娘はもう閑院にはいない。だが理由なく遠くにやるわけにもいかず、とりあえず長良の屋敷へ仕えさせることにした。赤龍には絶えず控えの陰陽師をつけ、逃げないようにしてある」
「逃げないように? なぜ消さないのですか!」
赤龍を生かしておく意味が良房には全く分からなかった。
「赤龍を見たい、と仰っているのだ」
良房は渋い顔をした。
「父上、上皇にお話になったのですか?」
「ああ。隠すと余計に怪しまれる」
「しかし」
「上皇と俺は、いわば戦友だ。お互いに大きな声ではいえないことも知っている間柄だしな」
冬嗣はゆったりと微笑んだ。
「だからといってそこまで上皇を信用していいものでしょうか?」
良房は珍しく不安を眉宇にくっきりうつし出した。
「ここで一つ、天皇方に牽制してみてもいいと思うのだ」
「牽制、ですか」
「ただ龍を見せるだけではつまらぬだろう? お前も知っている通り、嵯峨上皇はなかなかの策士だ。経済理由をあげて皇子達に姓を与えて臣にしておられるが、彼らの存在はゆくゆくやっかいな事となるぞ」
冬嗣は良房の顔を見つめ、私が生きている内ではないがな、とも続けた。
良房は素直にいやそうな顔をして見せた。その顔を見て冬嗣は声を立てて笑った。良房はますます気を悪くしたが、父の言うことは事実なので、ここは素直に聞いておこうと思いなおした。
「赤龍の方はすぐに、とはいかないものの力を弱めていけば完全に封じることは可能だと陰陽師が言っていた、そう心配するな」
「はあ、使えるものは使うということですね。では仰せのままに」
良房は渋々さを隠さずに立ち上がると東の対の屋へ向かった。
藤原氏の危険要素になりえるものは置いておきたくなかったが、上皇対策で父に何か考えがあるのなら仕方が無い。
良房は部屋の奥に込められた緋色の髪の少年の前に立った。
その周りにはビャクダンの葉や五色に染められた糸がちりばめられている。龍に苦手なものだと陰陽師が置いたものだが、実際に少年は苦しんでいるので本当なのだろう。
一枚の葉っぱを手にとってみる。
良房にはなんともない葉っぱや糸で苦しむこの綺麗な顔立ちと髪の色をのぞけば何処にでもいそうな少年が龍である事実が不思議で仕方なかった。
「よかったな、命が少し長らえたぞ」
そう少年にいい残し、出がけに周りの警固のものにはしっかり見張るよう言いつけた。
だが良房も控えの陰陽師も気づかなかったであろう。苦しそうに息をしながらも乱れた髪の毛の下にある顔の口元の片端が上がったことに。