第16話 唐渡りの人相見
藤原冬嗣は自分の一室で秋から冬へと移り変わる途中の庭を眺めていた。
当代一といわれる庭作りと何度も話し合い、試行錯誤の上に出来上がったこの庭は四季折々のどの季節にも綺麗な姿を見せてくれる。今は萩の花がこぼれんばかりに咲き乱れ、秋風に身をゆだねている。
今では子供たちも大きくなり、この庭で遊ぶ風景は見られなくなったが、瞳を閉じれば幼き日の子供らの楽しそうな声が聞こえてきそうな気がする。
(はじめて龍の存在を知ったのも、この庭だった)
冬嗣はそっと瞳を閉じた。
「兄上、待ってくださいよ」
庭を駆けずり回る元気の良い笑い声が響きわたる。
冬嗣の思い出の中の長良、良房兄弟は、まだ鬟姿の可愛らしい童子であった。
長良は年のわりに落ち着いた思慮深い子供に、良房は腕白だが芯の強い子供に育ち、冬嗣は親ばかとは思いながらも将来有望な大人になるだろうと頼もしく思っていた。
丁度そのような折に、妻の美都子が唐渡りの当たると有名な人相見の噂を聞きつけた。
冬嗣自身はあまり興味が無かったが、美都子がどうしても、とせがむので息子を見てもらうことにした。もちろん本人達はそんな事を露も知らない。
「ほう…」
人相見は部屋から庭で遊ぶ兄弟を見るなり小さな声をあげた。
二十年唐土で勉強してきた老師だけあって、顔には高齢から来る肌のシミを隠すかのように立派な白ひげを蓄えている。奥まった小さな瞳だが、何事も見通せるかのような澄み具合であった。
「子供達に何か?」
人相見を信じきっている美都子は、彼の一挙一動にびくびくしてしまう。人相見はそういう妻の様子を笑うでもなく息子の一人を指差した。
「ほら、今お転びになった御子様」
「良房ですか?」
「良房殿と申されるか。彼は位人臣を極めることができるでしょう」
「まあ」
美都子は口に両手を当てて冬嗣を見た。彼女は喜びを体全身から発している。
「人臣は極められますが、ただ」
人相見は口にしていいか迷っているようだ。途中まで聞いて大喜びしていた美都子は途端に顔を曇らせる。
「ただ…何かしら? 正直に仰って」
「ただ、跡継ぎに恵まれない様子ではありますな」
「跡継ぎ…」
まだまだ先の話だが、位人臣を極めても跡を継いでくれる子孫がいなければ意味が無い。
孫が見られないのが悲しいのか、折角今まで築き上げてきた物を他氏に取られてしまうのは悔しいのか、美都子は下唇を噛みしめ俯いてしまう。
「長良は?」
黙ってしまった美都子の代わりに冬嗣は尋ねた。長子の長良からではなく、弟の良房から先に話をしたのが少し気にかかる。長男が必ず家督を継ぐとは、兄の真夏ではなく弟の自分が継いだ例もあるように、決まってはいないが、初めての男子でもあった長良には思い入れもあるし、見所もあると思っている。
「兄子様の方は…」
人相見のあまりの歯切れの悪さに冬嗣は戸惑いを感じざるを得ない。
弟の良房が位人臣を極めてしまうのなら、兄の長良はどうなるのだ。もしかしてあまり長生きが出来ないとか、兄の真夏の様に政争に巻き込まれ、歴史の影へと消えていくのか。
確かに長良の生き方は冬嗣から見ると兄の真夏を思わせる。
尚侍の薬子が起こした政争の際に今までの華々しい出世をきっぱり捨てて幼馴染の平城上皇に自ら付き従った兄の真夏。自分の信念に真っ直ぐに生きるその様は羨ましいと思う反面、息子にそう生きてほしいかと言えば、素直に頷きかねる自分がいる。
美都子がぎゅっと冬嗣の手を握ってきた。彼女も人相見の様子に長良が心配になったのだろう。長良と良房、二人とも腹を痛めた子なので、両方とも幸せになって欲しいと考えるのは母として当然だろうが、冬嗣も同じ気持ちだ。
二人に見つめられ、いつまでも黙っていることができなくなった人相見はようやく重い口を開いた。
「兄子様の方は、望めばこの国を我が物にできます」
あまりの突拍子のなさに夫婦ともども言葉を失う。その事態は想像していたのか、人相見は静かに続けた。
「長良様の守護に龍がついています。それも赤龍が」
「その…龍が付いていると、どうなるのだ?」
「赤龍は龍の中でも絶対的威力を持つ最も尊い霊獣です。そんな龍を守護に持つ人に初めて会いました。そんな彼がこの世を望めば、赤龍は願いを必ず叶えます。まだ長良様はその事には気づいておられませんよね?」
「と、思うが」
冬嗣は自分の声が枯れている事に気づいた。そして龍など見た事がないから信じない、という自分を無理やり繕うとしている事にも。
これは私の考えなので、と前置きして人相身は更に続ける。
「唐土では天帝に選ばれしものが国を治めます。そのため時代の変わり目には必ず乱が起き、人民は苦しみます。しかしこちらは天皇がおられます。わざわざ事をおこすよりも人臣を極めた方が、藤原氏は長く繁栄するでしょう」
「ということは、我が氏が繁栄するには」
「良房様をお立てになられた方がよろしゅうございます。しかし、見たところまだ赤龍は完全に目覚めた訳ではありません。長良様がその事に気づかれること無くお過ごしになれば、長良様にも人臣を極めることは可能です。が、その為には赤龍を長良様に会う前に、誰に気づかれること無く封印しなくてはなりません。かならず龍は守護人を探しにやってきますから。それに他氏の手に赤龍が捕まれば、長良様程ではなくてもそれなりの影響はでます。赤龍の気はそれほどに強いのです」
冬嗣は深いため息をはきだした。
望めば長良は天皇に取って代われるという事らしいが、今までそんな考えを持ったことが無かった。そして、その考えが今まで浮かばなかった事に驚いた。が、彼は人相見に言われるまでもなく天皇を支えつつ政をしていく方を選ぶ。それは今までやってきた事だし、自信があり確実だ。だが、赤龍の話が外に出れば、謀反の疑いありと思われ、他氏に付け入る隙を与えかねない。
「話の内容は分かった」
冬嗣は人相見を労う一方、今ここで喋った内容は他言無用であると約束させた。同時に赤龍を探して欲しいと依頼したが人相見はすぐには色よい返事をださなかった。しかし密かに赤龍を封印する為に、長良と我が北家一族を守る為にはどうしても必要な事だ。美都子は人相見の手を取って必死に頼み始めた。それで漸く老師は首を縦に振った。
「出来る事はやってみましょう。しかし、必ずとはお約束はできないことは最初に申し上げておきます。龍と守護人の絆はとても深いものです。どれだけ手を尽くしても出会われてしまう可能性の方が高いとお考えになった方がよろしいでしょう」
それでもやってみなければわからない。再度冬嗣は人相見に赤龍探しを依頼した。
「あれからかれこれ十八年たってしまった」
なかなか赤龍は見つからず、やはり戯言だったのかと思い始めた矢先に赤龍は見つかった。その時には既に人相見は亡くなっていた。
龍をおびき出すためには大陸の古楽器が必要と陰陽師に言われたとおり、右大臣の立場を利用して宣を出し、東大寺の正倉から新羅の琴を出蔵させた。冬嗣はこれで駄目なら赤龍を探すのを諦めようと思っていたが、その音色に赤龍が反応したのだ。
自分で指示したとはいえ、その報告を受けた時は驚きを隠せなかった。
半信半疑だった赤龍の存在をしっかり確認した冬嗣は引きつづき捜索を依頼し、ようやく封印の機会に巡り合った。内密とはいえ一流の陰陽師に頼んだので、龍気の半分以上は奪い取ることができたが、それでも消滅しなかったのは赤龍の力が強かったのであろう。
そして今までの努力の甲斐なく赤龍は長良に出会ってしまった。
「人相見は正しかったようだな」
冬嗣はそう呟くと脇息を引き寄せ、軽く瞳を閉じた。