第14話 消えた龍気
出仕をした長良は急遽執り行われる事となった祓の準備に巻き込まれていた。
もちろん昨晩宮中に現れた『赤い妖』が二度と宮中に現れないようにするためで、どうしても、と陰陽寮が言い張ったらしい。天皇も実際妖をご覧になった一人なので、一も二もなく賛成したと言うことだ。
長良にとってみれば間人が悪者にされているこの状況は腹にすえかねるものがある。間人は自分の龍気を奪われた、いわば被害者なのだ。それにもう間人には宮中へ来ることはないだろう。いや、自分がそれをさせない。
憮然とした気持ちを抑えつつようやく儀式の準備も終わり、控えの間で開始を待つ間に長良は同僚から意外な事を聞いた。昨夜出た物の怪は正子妃の部屋から物を奪った、と。
「奪われたものは、壺らしい」
しかし、どのような壺までかはその同僚も知らなかった。
(五色の糸で彩られた壺のことか? でも、そんなはずは…)
昨晩、間人は確かに何も持ってはいなかったし、彼自身、その五色の糸の壺には気持ち悪くて近づくことさえできなかったと言っていたではないか。
では、昨日のどさくさに紛れて、本当の賊が入ったというのか。それでは赤い物の怪を追っている衛門府には全く下手人を捕まえることは出来ない。
実はただの賊ではなく、龍気だけを狙った別の人物がいるかも知れない。
龍気の場所が分かった途端、また行方が分からなくなってしまった。そして誰が盗んだのかも。
(また振り出しに戻ってしまった。いや、さらに状況は悪くなっている。龍気を早く見つけ出してやらないと…)
祓の儀式中、長良は繰り返し昨晩の様子を思い返していた。何か見落とした点はないだろうか。
「兄上、重いため息ですね」
気がつけば隣に良房が立っていた。気付かない間に祓は終わっていた。そして知らない間にため息までついていたらしい。
(良房…)
昨晩の良房の様子に長良は引っかかるものを感じたのを思い出した。正子妃の部屋へ向かった時だ。
「何か?」
見つめられた良房は表情を変えず、少しだけ首をかしげた。
そう、良房はあまり表情を変えたりしないのだ。なのに昨晩は…。
「いや、宮中の奥深くにまで妖が入るようではため息も出るよ。今上、正子妃にお怪我がなかっただけ良かったと言うべきか」
長良は心に過った疑問は口に出さず、一般的な心配事をあげた。
「そうですね」
さほど関心がないかのような声で良房は答えた。
「ところで、良房。正子妃が奪われたという壺というのはどのような形であろうか?」
長良は良房の前にも会う人会う人に同じ質問をしていた。間人は五色の糸が掛っていた壺とは言っていたが、どの位の大きさで何色かなど詳しい形態は全く記憶していなかったからだ。返ってくる回答はまちまちで、盗まれた物があったということさえ初耳だという人が大半だったが、黄金が入った大きな壺だと言う人もおり、玉でできた小さな壺、という人もいた。
今を時めく皇太后橘嘉智子の娘ということもあり、憶測が飛び交っていてどれが正しいのか分からない。
「それは…」
長良の問いに良房は視線を右にそらせた。その目端に、どすどすと大きな足音を立て近づいてくる人影をとらえ、良房は口蓋の片方を上げた。
「正子妃に壺を差し上げた本人にお聞きになれば確実ですよ」
みれば橘逸勢がこちらに向かってくる。明らかに機嫌が悪い様子を隠していない。
「こんにちは、逸勢殿」
良房は先手を取ってにこやかに挨拶する。長良は、良房が相手の懐に飛び込んでいく事を得意としているのを知っているので、ここは状況を見守ることにした。
「正子妃のご様子はいかがですか。身重なお体ですから心配ですね」
笑顔を崩さず良房は逸勢にそう続けた。
「そう思うなら早く物が返ってくるようにしてくれ、なあ長良殿」
良房には目もくれず、逸勢は長良だけを見て答える。
「そうしたいのは山々ですが、どのような壺なのか教えていただかないと探しようがありません。私は見たことがありませんので」
長良は正直な所を逸勢に伝えた。
「ほう、そうか」
まったく信じていない声色を残し、逸勢は又、足高に去っていった。
逸勢の背中を眺めつつ、長良は今の状況をまとめていた。
一つ、逸勢殿は壺を奪われた件で自分を疑っていること。
もう一つは…
「逸勢殿からの収穫はなかったですね。会話にもなりませんでした」
良房は軽く声を立てて笑ったが、長良は静かに弟を眺めた。
(良房がなぜ盗まれた壺の出所が逸勢殿からということを知っているのか)
長良も侍従として連日今上に侍っているが、正子妃の壺の事は一度も聞いたことはなかったし、他の人もどの様な壺なのかさえ答える事もままならない有様の中で、だ。
「どうしました?」
良房は再び軽く首をかしげて長良を見る。表情から何かを掴み取ろうとするように見るのは、良房の癖だ。それを嫌がる人もいるが、その行為をする時は、何か一物含んでいる時という事を長年の付き合いから長良は知っていた。
「いいや、あの逸勢殿の様子では初めから無理とは思ったが、やっぱりな、と思っただけだよ」
長良は良房に負けない、家人の正規がみたら泣いて喜びそうな涼やかな笑顔で答えた。
その後もしばらくの間は良房と行動を共にした。長良は良房の様子をもう少し探って見たかったし、良房の方も同じ思惑が働いている様だった。
その良房とも程なくして宮中で別れた。
長良が壺に関して得られた情報は、壺が白磁で出来た小ぶりの美しい壺だということ。そしてあの事件以来、正子妃が激しく気落ちしているということだった。
皆、正子妃の落胆は妖に入られた心労からと思っている様だが、長良はそれだけではないと確信している。正子妃は龍気と知った上であの壺を手元に置いていたのだ。正子妃の背後には橘秀才と呼ばれる博学の橘逸勢が付いているので、龍気の知識も長良以上、いや、赤龍本人の間人以上に知っている可能性がある。そうなると先ほどの逸勢の態度も合点がいくというものだ。
「やはり峰継に聞かなければならないな」
峰継には朝の時点で文を出しておいた。返事はなかったが、もう悠長に待っていられない。
今日これから峰継に会いに行く決心をする。
「峰継の屋敷へ行く前に、萩殿へ使いをださねばな」
宮仕えが終わったら知らせることになっていたのだ。
(久しぶりだな、三人で顔を合わせるのは)
長良は、萩の峰継に対する気持ちを、口には出さないが、知っている。長良は閑院を出てしまったし、萩も閑院に住む母、美都子付きの女房になっているから峰継とはなかなか会えなくなってしまったので、事あるごとに引き合わせるようにしていた。
萩を頻繁に連れ出しても三人は幼馴染と周りも認識しているので、美都子も黙認してくれているのは有難い。だが峰継は全く萩の気持ちに気付いていない。
(峰継に対する萩殿のあの態度じゃ、気づけという方が難しいか)
そう思いながら詰所を出た長良の眼の前に、その峰継が立っていた。
「峰継…どうした?」
予期しない場所での本人の登場に長良は胸騒ぎを覚える。
「長良。その、まあ、とりあえず、早く屋敷に帰ろう」
待ち顔で立っていた割には言葉を濁し、峰継は長良を促した。
彼は一貫して無口だったが、数少ない話によれば萩はすでに長良の屋敷に来ているらしい。
峰継の硬い表情にただならぬものを感じ、長良は牛飼童の黒丸に急ぐよう指示を出した。