第1話 緋髪の少年
はじめまして、もしくはお久しぶりです。
楽しんで読んでいただければ嬉しいです。
天皇の名前は分かりやすいように諡を使用させていただきました。
「さっきまでの青空はどこへいったんだ」
藤原長良は牛車の物見を少し開け、急に激しく屋根を打ち付け始めた大粒の雨に一人つぶやいた。
本当に先ほどまでは雲ひとつない快晴だったのだ。
「黒丸、すまないがもう少しの辛抱だ。いそいでくれ」
長良は外の牛童子に声をかけた。普段綺麗に結われている彼の黒髪も水気を含み、力なく顔の両脇で垂れている。だが、雨をものともせず黒丸は笑顔で心得ましたと元気に頷き、牛の歩みを速めさせた。
今は八条西大宮大路、目的地の八条木辻大路まですぐそこだ。
長良は其処に住む橘峰継を訪れる約束をしており、手土産として三輪の酒もある。
橘峰継は今上淳和帝の兄の嵯峨上皇の皇后、今は皇太后だが、の嘉智子様の弟である氏公卿の長男で、長良が幼少の頃からの友であった。根っからの酒好きで手土産に飛びつくのは目に見えている。
「長良様、つきました」
軽い衝撃の後、まだ声変わりを迎えていない黒丸の軽やかな声があがる。
長良が牛車から降りると峰継の家司、松茂が済まなそうに出迎えた。彼の話では峰継は急に父氏公卿に呼ばれたそうで、戻るまでに後半刻程かかるだろうと言うことだった。
「なにせ、急な呼び出しでしたのでご連絡も間に合わず…」
松茂はしきりに謝る。
「大丈夫だ、気にしてはおらぬ」
長良は何度も松茂にそう言ったが、彼は事あるごとに謝り続ける。主人を思っての事なのだろうが、長良は苦笑を浮かべざるを得なかった。
(どこの屋敷でも家令というのは過保護なのだろうか)
長良は自分の家令を思い浮かべ再び苦笑した。
峰継の部屋に通された長良は酒を卓の上に置くと蔀戸へと近づいた。
「ますます激しくなっているじゃないか」
雨に打ち据えられる草木が逆らうことなく地面に垂れた様が水けぶりを通してぼやけて見える。屋根からは止めどなく水が滝のように落ち、地面の石に当たって勢いよく跳ねていた。
「峰継もこの雨では難儀しているだろう。このままの調子ならば戻らないかも知れない。が、私も雨が弱まるまでここで休ませてもらうが、よいか?」
再び従者をこの雨に晒すのは不憫だ。長良の願いに松茂は快く頷き、ひとつ頭を下げると部屋を出ていった。
長良は再び空を見上げた。この水の激しさは禍々しく、心の底からじんわりと不安を湧きあがらせる。大雨がしばらく続くのであれば、鴨川が暴れだすのも時間の問題だ。
「嫌な雨ですね。この雨はどのくらい続くのでしょうか」
松茂は枇杷を盛った皿を手に再び戻ってきた。卓にそれを置きながら心配そうに外を見やる。
この都は元々川が縦横無尽に流れており、土地柄水はけが良いとは決して言えない。このような雨が続いたら酷い洪水に見舞われるのは間違いない。そしてその後は飢饉や伝染病に人々は悩まされるのは分かっている。松茂の問いはこの都にいる人の全ての問いかもしれなかった。
「そうだな…」
長良がもう一度どす黒い雨雲を見上げた。カカッと一瞬赤い雷光が閃いた。間を置かずに爆音が轟く。また光が走る。それの繰り返し。
松茂は恐ろしさの余りしゃがみ込んでしまったが、長良は食い入るように空を見上げた。どうも普通の雷ではないような気がするのだ。
(何であろう? こう…自らの意思を持ったような…)
赤い光が近づいてくるにつれ空は血が固まったような色になり、雨はすぐ目の前の物も見えない位降りしきっている。これほど異様な空模様は見たことがない。
「長良様」
振り向けば入り口に体の震えを隠せない黒丸が心細そうに立っている。この異変に耐え切れなくなったのであろう。
長良が軽く頷くと、嬉しそうに彼の近くに寄って直衣の袖を掴んだ。長良が落ち着かせようと黒丸の頭を撫ぜると同時にガガッという耳を劈く様な大轟音と共に眩しい閃光が辺りを包んだ。あまりの眩しさに長良は咄嗟に目をつぶったが、瞳を閉じたのにも関わらず目の裏が光に満ちた様に明るく、暫く何も見えなかった。
ようやく視力が戻ってくると庭の一番高い杉の木に落雷したらしく火の手が上がっていた。
「松茂、火だ」
長良はそう言うと庭へ走り出していた。松茂もあわあわと後に続く。黒丸だけが先程の轟音と閃光で腰を抜かしてしまい、まってくださいよぅと声にならない声を上げた。
何故か先程までの雨はぴたりと止み、憎らしいまでの青空が広がっている。
「先ほどの大雨で湿っているから火の方は大事には至らないと思う」
大雨に火事にと次から次へ起きる問題で半ば混乱気味の松茂に長良は走りながらそう言って落ち着かせた。
火事の現場には人は集まり始めているものの、ぬかるみに足を取られ消火活動はまだ始まったばかりであった。松茂は自分の役目を思い出したらしく、てきぱきと指示を出し始めた。
長良といえば勢いよく飛び出したものの、所詮他人の家なので勝手がわからない事もあるが、彼が右大臣藤原冬嗣の長男であることが橘家の雑色達を恐縮させるのか手伝う事を丁重に断られ手持ち無沙汰であった。そしてこの様な行動に出た自分に驚いていた。
長良は上に立つ者は常時落ち着いた物腰で事々に当たらねばならないという父冬嗣の教育もあり、考えてから動く人間であった。だが同時に長良は身分など関係なく困っている時は助け合えばいいと考えている。殿上人であろうと庶民であろうと嬉しいことは嬉しいし、嫌なことは嫌だと同じように感じるはずだ。しかし長良の家令正規は長良とは考え方が違っていた。
「上下の区別はきっちりつけていただかないと彼らによけいな混乱をあたえるだけです」
正規に小さい頃から言われ続けた結果、周りにどのように迷惑をかけずに自分の意思を通せるかが彼の課題となり、また楽しみともなった。
端整な顔立ち、父ゆずりの切れ長な、一見冷たそうに見えるその左の瞳の下には泣き黒子がひとつ心もとなく付いているが、その美貌を引き立たせこそすれ損なうものではなかった。そんな顔で熟考し行動する姿を周りは好ましく思うらしく、彼が思っている以上に彼は人望があるのである。
今日のように思考より体が先に動くことはここ数年なかった。そう考えて長良は居心地の悪い思いをし、苦笑した。
「今自分にできることは…」
いつもの自分をとりもどした長良は雑色達の邪魔にならないよう庭の端に寄った。そして消火の様子を眺める。
不思議なことに水をかけても火がすぐ消える様子がなかった。雑色たちも怪訝な表情を浮かべている。松茂などは責任があるだけに必死だ。
空は嘘のように晴れ上がっている。たぶんもうすぐ峰継が帰ってくるだろう。今の松茂ではこの状況をうまく説明できないに違いない。消火が手伝えない以上今自分にできることは峰継への説明くらいだ。
峰継の部屋へ戻ろうと踵をかえした時、長良はかすかに人の声がしたような気がした。辺りを見回して見ると植え込みの間から手がでていた。
童子の手だ。
「大丈夫か?」
先ほどの落雷で巻き添えを食ったのだろうか。長良はその透き通るように白い手を掴み植え込みの中から木々の枝で傷つかない様細心の注意を払いながら童子を引っ張り出す。
ひざの上にのせて顔を覗き込んだ瞬間、長良は息をのんだ。
苦痛にゆがんではいるが整った目鼻立ち、この世にこんな美しい者が存在していいのかと思う。そしてすこし上に目をやれば絹のようにつややかな緋色の髪…
(赤い髪?)
よく見れば頭部に二つ、角らしきものが見える。
「…鬼…なのか?」
しかし今まで見た絵巻物に出で来る鬼は大層醜く描かれていたじゃないか。
「畜…生…」
意識を半分ほど取りもどした童子は顔に似使わぬ言葉を吐いた。
「大丈夫か?」
先程と同じ問いを繰り返す。しかし童子は長良を軽く見上げるとすぐ意識を失ってしまった。揺さぶっても声をかけてもすぐ意識を取り戻すことはなさそうだ。
長良は素早く童子を抱きあげると消火に従事している人に見つからないように注意深く運んだ。鬼など見つかっては火事どころの騒ぎではない。とは言っても此処は橘の家なのでとりあえず峰継の部屋へ急いだ。
今日の自分はどこかおかしい、体が言うことを聞かない。そう思う反面、どうしてもこの童子を助けたいと強く思わずにはいられない。そして勝手に体が動くのだ。
(人間じゃないんだぞ)
そう自問自答してみるが、この少年を助けない理由には全く当たらなかった。
(人でなくてもいい。助けたい理由? しいて言えば…意識を失う前に深い紫色の瞳で私に微笑んだ事だろうか)
本当にただそれだけなのかもしれない、と長良は本気で思った。