美と瞳
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
こーちゃんはさあ、一年でどれくらい本を読むの?
僕はあんまり読まないなあ。なんというかさ、ベストセラーとか、他の人がおすすめしてくる本とか、ことごとく心に響かなくって。義務でやる読書感想文をのぞいたら、自分から本を手にすることはないなあ。おかげで本ってものに、興味がわかないんだよねえ、いまだに。自分で発掘しろと言う人がいるけど、苦痛に出会うためにわざわざ足を運べっての? どれだけ人を苦しめたいのよ?
この感覚、不幸だと思うかい、こーちゃん? 人生、損をしていると?
だが、何でもかんでも味わえればいいというものじゃない。感覚をあまり鋭敏にすると、やばいっていうネタは、こーちゃんだって、色々な作品を見て知っているだろ?
そのネタの中に一つ、新しく加えて欲しいものがあるのよ。
僕の友達のおじさんは、大学時代に小説を書くことがメインのサークルに入っていたらしいんだ。自分たちで書いた小説を掲載した季刊誌を作って、キャンパスの片隅に置かせてもらうこともあったとか。
時々、メンバーで取材と執筆目的と称した旅行に出かけて、名所をめぐったりもした。文字通りの霊感を求めて、廃墟や心霊スポットで写真を撮ったりもしたが、ただでさえ女性陣の大半がパス。むさい男だらけの中に混じるのは、さしもの悪霊たちもご遠慮したらしく、異変らしい異変は起きなかったらしい。
半ば好き放題していたサークル活動だったけど、大本たる執筆活動は、おじさんも含めてみんな積極的に行って、季刊誌には毎回全員が作品を載せるという、精力に満ちた集団だったみたいだ。
だが、作品を読み合う時、何人かは心を折るレベルの論評をズバズバ飛ばしてくるそうで、それがきっかけで筆を折ってサークルを抜けちまう人もいたんだとか。
おじさんの4つ上の先輩もそうだった。何年もダブっていて、絵や小説に打ち込み過ぎたのが原因だと、噂されている人物。不精髭をもじゃもじゃ生やしていて、頭にはいつも派手な色をしたバンダナを巻いている。強面で、初めて会う人は、まずびびる。
サークルへの出席率は今一つだが、作品だけは毎回の期限ごとに数作品は出してくる。おじさんが見た感じでは、緻密な構成のミステリーから、勢いだけで読ませるギャグ作品まで、一定以上のクオリティで読ませてくる芸達者。決して下手ではない。
だが時々サークルに顔を出すと、年下ばかりが集まるメンバーを不意に名指しし、物影に連れ込んでは、数分後に男女問わず泣かせて帰らせるという、恐怖の「呼び出し」が名物になっていた。
おじさんも呼び出されたことが何度かある。内容は新作に対する批評。最初に良いところを並べるが、それに倍する難点をあげて、最終的にこきおろすというなかなか精神に来るスタイル。
だが、技術的、展開的、人物的にどれも納得のいく指摘ばかり。反論できない。この「呼び出し」をバネにできた人は、確実に成長していたから、いい方向での「しごき」と言えたかもしれない。
「芸術は美しくなければいけない。駄文など、目に悪い限りだ。みんなの作品がより美しいものになることを願う。俺はもっと美しいもので、目を肥やしたいと思う。それだけだ」
先輩は常々、そう話していたそうだ。
そんな先輩だけど、時々、構内で見かける時は図書室の中。けれども、ここのものではない本を読んでいるらしく、必ずブックカバーをかけているのだとか。
その表情は真剣そのもので、元より静かにしなければならない図書室とはいえ、その中でも図抜けた声のかけづらさを放っていたそうだ。
おじさんも自分の勉強とかがあったから、先輩に構っている余裕はなく、一人用の区切られたスタンドで、講義の教科書やノートを広げていたらしい。ただ、たまに息抜きをしようと顔を上げると、先輩が席を立ってトイレに行く時があったそうなんだ。
それだけなら珍しくないんだけど、おじさんはふと疑問に思うことがある。トイレから帰ってくる時、先輩はサングラスをかけて戻ってくることがあるんだ。
席を立つ前は裸眼だったはず。気分によって、洗面所なりでサングラスをかけて出てくるのだろうか。おじさんは疑問に思い、確かめようとしたんだ。
なかなかタイミングが合わず、図書室に通い詰めて数週間を費やしたけど、ようやく先輩が席を立つ瞬間と、自分の休憩時間が重なった。先輩がトイレに消えていくのを確かめて、おじさんも後を追う。
トイレに踏み込むと、バタンと音がした。足音を忍ばせながら中に入ってみると、3つある個室の内、一番奥の扉が閉まり、鍵がかかっている。先輩が入っているのだろう。聞き耳を立てると、苦しそうなうめき声が聞こえてくる。
腹の調子が悪くて、苦戦している時のものにそっくりだ。大丈夫かとおじさんが心配していると、不意に悲鳴が止み、水を流すことなく個室の扉が開いた。
先輩の顔。すぐにおじさんはトイレを出て、曲がり角の影に身を隠した。
ほどなく先輩はサングラスをかけて姿を現す。顔をハンカチで拭いながら。
そっとトイレに潜り込んだおじさん。ちらりと洗面台を見たところ、先輩が使ったと思しき一番入り口側のものに水滴がついている。だが、ほのかに赤みを帯びているような……。
個室で何をしていたのか。おじさんが個室と小便器の並ぶ角を、曲がった時。
出てきたんだ。先輩が入っていたはずの一番奥の個室から。
筋肉質な先輩に比べると、もやしのように細い肉体。黒いミット帽、黒いコート、黒い革靴。そして、先輩と同じ黒いサングラスを身につけていたんだ。
ただ、その隠された目元から顎にかけて、赤い筋が二本、今にも垂れ落ちそうなみずみずしさを放ちながら、引かれている。
おじさんはひと目で、「関わってはいけない」と背筋の毛がぞわぞわと逆立つのを感じた。再び音を立てないように、トイレの外の曲がり角に隠れる。
ちらりちらりとトイレの入り口をのぞきながら、黒ずくめが出てくるのを待ったが、いつまで経っても出てこない。最初はその気がなかったのに、急に催してきて、早く出てくれとその場で足踏みを始めた時。
突然、目の前が黒くなった。壁も床も天井も、いっぺんに色を失い、飛び上がって悲鳴をあげてしまうおじさん。
「おいおい、なんだその悲鳴は。それでも男か? あ〜ん?」
先輩の声だった。更に落ち着いてみると、耳の辺りにも違和感。この黒っぽい視界は、サングラスを掛けさせられたためだったんだ。後ろから。
「勘弁してくださいよ〜」とサングラスを外して笑いながらも、おじさんの心臓はバクバク脈打っていた。どうして背中を見送ったはずの先輩が、自分の後ろから現れるのかと。
「早くトイレに行けよ」という先輩に対して、「大丈夫です。引っ込みました」と平静を装いながら、そっと離れていく。
おじさんは見た。サングラスを戻すわずかな間で、いつもは茶色いはずの先輩の瞳が真っ赤に変わっているのを。その目じりに、わずかに血が溜まっているのを。
それからも先輩はしばしばサークルに顔を出し、「呼び出し」も続いた。瞳の色も戻っていたけど、おじさんはあの赤い目を忘れられないんだそうだ。
カラーコンタクトだったら、それでいい。けれども、おじさんはあの赤は決してフェイクではないと思っている。
「俺の目を、もっと肥やしてくれよ、みんな」
先輩は変わらず、そう言い続けていた。
おじさんがその日以降、図書室のトイレを使うことは、二度となかったらしい。