【another story】Dearest
彼が任務に出てから、あっという間に月日が流れた。
"紅月悠"
それが私、天野宮詩帆の歳の離れた許嫁である彼の名前。
許嫁と言っても、まだ十歳程度の私を、彼はそんな風に扱ってはくれないけれど。
鏡行禁忌軍極東管轄部に所属するコネクターである彼。
《三大名家》の次期当主候補であり、《三元帥》の一人である時和元帥の実子である彼は、眉目秀麗、文武両道。
誰からも期待され頼られているから、難しい任務にもよく就いていた。
となれば当然、長期間帰投しない事も、怪我をする事もある。
それは今までにも、少なからず。
けれど今回は、あまりにもそれが長かった。
まだ幼く、コネクターですらない詩帆に、悠は任務のあまり詳しい事を教えてはくれない。
それは彼なりの気遣いであり、優しさであると分からない程、詩帆も子供ではない。
同時に、不安を覚えない程、馬鹿でもない。
「ねぇ、お母様。ハルちゃん、帰ってきますよね? 無事に、帰投しますよね……?」
天野宮家本邸に母が帰ってくる度に、詩帆はそう尋ねた。
詩帆の実母、帆春も、《三元帥》の一人だったから。
「不安かもしれないけれど、悠君なら大丈夫よ。彼はとても強いもの。ちゃんと帰ってくるわ」
詩帆はまだ、鏡行禁忌軍の軍員ではない。
しかしそれでも、多少の知識はある。
確かに詩帆はほんの少し前、詩帆の実兄である季覇が生きていた頃までは、次期当主候補争いからは外れていた。
が、それでも《三大名家》の一家、【天野宮】の血を引く者であり、次期当主候補の中には含まれていた。
となれば当然、詩帆も物心ついた頃から高度な軍事教育と英才教育を受けてきていた。
そんな彼女は、その年齢よりも物事を判断する能力がある。
故に、軍での生還に必ずはないと、詩帆も分かっているのだ。
だから、不安になる。
彼は今、何処に居るのだろうか。
怪我をしてはいないだろうか。
辛い思いをしてはいないだろうか。
生きて、くれているだろうか……と。
そんな不安を抱えつつ、憂鬱な日々を送りつつ、気付けば彼に会えないまま、一ヶ月以上が過ぎていた。
その間、悠と、彼と共に出頭した隊員達の安否は定かではなかった。
怖かった。
恐ろしくて、仕方がなかった。
また、居なくなってしまうのだろうか。
最愛の兄を亡くしたばかりなのに、また、大切な人を亡くしてしまうのだろうか。
そんなの、悲しすぎる。
争いを知らない十歳の少女には、耐えられなかった。
「……ふっ……うっ」
広々とした静かな自室のベッドに顔を埋め、気が付けば詩帆の頬を大粒の涙が伝った。
「どうして、帰ってこないの……?」
いつもなら、すぐに帰ってくるのに。
「『すぐに帰る』って、そう言ったのに……っ」
詩帆はそのまま、ベッドにうずくまって泣いた。
考えたくなくて。
彼が帰ってこない、帰ってこれない状況を考えたくなくて、ただただ涙を流していた。
「ん……」
小さく呻き声を上げて瞳を開けると、詩帆は身体を起こした。
どうやらあのまま、眠ってしまっていたらしい。
「何、だろ…何か……」
嫌な予感がする。
けれど、何故?
何故か胸の内がモヤモヤして、胸騒ぎがする。
理由は分からない。
何の事かも、分からない。
けれど、じっとしては居られなかった。
* * *
夢を見ていた気がする。
それは、悠の夢。
彼が、詩帆に会いに来てくれる夢。
彼はいつも、任務から帰ると必ず詩帆に会いに来てくれた。
疲れている筈なのに、嫌な顔一つせず、変わらない笑みを浮かべて、会いに来てくれた。
それが、嬉しかった。
確かに詩帆はまだ幼くて、けれど悠を大切に想うこの気持ちの名前は、もう知っていたんだ。
だから悠が傍に居てくれる事が、何よりも嬉しかった。
何よりも、安心出来た。
……それなのに、夢の中の悠は、遠くからこちらを見ているだけ。
呼び掛けても、歩み寄っても、彼は薄く笑うだけなのだ。
寂しそうに、微笑むだけなのだ。
何度も名前を呼んだ。
何度も手を伸ばした。
けれどそのどちらも、彼には届かなくて。
__ハルちゃん? ハルちゃん、待って。何処に行くの? 置いていかないで……っ。待って、ねぇ、ハルちゃん……っ! ハルちゃん……っ!!
背を向けて歩いていく悠の姿を最後に、詩帆は瞳を開いた。
重ダルい身体。
酷く冷えきった身体を包み込むように両腕を抱き寄せ、ベッドから降りる。
胸騒ぎがする。
何か、酷く嫌な予感がする。
心臓が早鐘のように打ち付けて、息が切れる。
全身を嫌な汗が伝い、動揺に思考が埋め尽くされる。
「ハル、ちゃん……」
困惑する思考のまま、詩帆は自室を出て、誰にも告げぬまま、屋敷の奥にある鏡路に向かい、屋敷を抜け出した。
向かった先は、極東軍の基地。
鏡路を通り、数える程しか足を踏み入れた事のないその場所に入ると、詩帆は一人、真っ暗闇の中を歩いた。
そして開けた場所に出ると、そこには人が溢れていた。
以前来た時とは明らかに違う、緊迫した空気。
白衣を着た大勢の人と、軍服に血を付けた数人の人。
その中に、
「ハルちゃんの、お母様?」
悠の実母、紗江の姿もあった。
いつも笑みを絶やさずに笑い掛けてくれる彼女が、今日は酷く辛そうに、薄い水色の髪を揺らして肩を震わせていた。
「あっ……詩帆、ちゃん……」
詩帆に気付くと、紗江はしまった、というように眉根を寄せた。
その表情はやつれていて、頬には涙が伝っていた。
「どう、されたんですか……? 何か……」
そこまで言って、詩帆は言葉を詰まらせた。
目の前に広がる、最悪の光景を見て。
軍服を来た数人の男性に連れられてきた……血だらけになった悠の姿を見て。
「ハル…ちゃん……?」
目を見開いて固まる詩帆を、紗江は視界を遮るように抱き締めた。
強く強く抱き締めたその腕は、震えていた。
遠くで聞こえる、男性達の声。
__悠様! 聞こえますか!?
__至急担架の用意!!
__出血が酷いっ、輸血の用意を! 早く!!
__《安置ケース》の用意! 要請を出せ!!
__人手が足りないっ。もっと人員寄越せ!!
全てが、耳に入ってこない。
聞こえてはいる。
けれど、理解出来なかった。
ただ呆然と立ち尽くしてた詩帆の足が、僅かに動いた。
床に寝かされた悠の傍まで歩み寄って、力なくその場に崩れ落ちた。
震える手を、彼に伸ばす。
血に濡れた頬に触れると、彼は酷く冷たかった。
同時に、指先に感じる、ぬるりとした血の感触。
それらに、詩帆は全身の血の気が引いた。
「ハ、ル…ちゃん……」
ようやく流れ出た涙は次々と溢れだし、詩帆の頬を濡らして床に零れ落ちた。
「や、だ……っ。嫌だ、ハルちゃん……っ。目、開けて……っ。いつもみたいに、笑って……っ。お願いだから……っ」
詩帆の悲痛な叫びは届かず、悠はそのまま技術・治療室に運ばれていった。
悠が目を覚ましたのは、その二日後。
しかしまだ傷は癒えておらず、絶対安静を言い付けられていた。
「心配掛けてごめんね、詩帆ちゃん。けど、もう大丈夫だよ」
すっかり目の縁を赤く腫らした詩帆。
悠が眠り続けた間、ずっと傍で泣き続けていたのだ。
そんな彼女の頭を優しく撫でながら、悠は困ったように眉を垂らしながら柔らかく微笑む。
「大丈夫じゃ、ないじゃないですか……。怪我、まだ全然治ってないのに……っ」
「あ~、まぁね。けど、すぐに治るから」
「そういう問題じゃないですよ……っ」
「ははっ。うん。ごめん。二度とこんな無茶はしないから、もう泣かないで。目痛くなっちゃうよ?」
「……っ」
”二度と無茶はしない”なんて、きっと嘘だ。
今回悠が大怪我を負ったのは、一緒に出頭した部隊の仲間を助ける為だったのだそうだ。
その人を庇って自分が攻撃を受け、そのせいで陣形が崩れ、責任を取ると言って部隊の撤退を最前線で一人で守った。
そのせいで、瀕死の重傷を負った。
けれど彼は、全く悪びれた様子がない。
仲間を助ける為だからと言って、きっとまた同じ事をするのだ。
周りの心配など、二の次にして。
そう考えていたら、また涙が溢れ出した。
「わ、また泣いて~。僕は泣かしてばっかりだなぁ~」
ヘラヘラと笑いながら詩帆の頬を拭うと、悠は瞼に、そっと口付けた。
「……っ!?」
「これ以上泣いたら、またキスするよ?」
「……っ」
意地悪く笑うと、悠はそんな事を言い、詩帆は耳まで真っ赤に染め上げた。
「しょっぱい」なんて言いながら唇をペロリと舐めるその仕草に、詩帆は赤くなった顔を隠すように俯いた。
詩帆の事を子供扱いして、全く許嫁として見てくれない悠を恨めしく思っていたが……前言撤回。
もう暫くはこのままで良いかも知れないと思った。
今はまだ、ね。
『相対する鏡界世界』の【another story】二つ目となりましたこのお話。
前回は悠サイドで今回は詩帆サイドとなりましたが、いかがでしたか?
この二人を選んだ理由はとても単純です。
書きやすいんです。凄くw
他の人達についても書きたいと思っているので、良ければご一読ください!
ありがとうございました!!




