犠牲論
貴夜美は冷蔵庫から紙パック詰めされた飲むヨーグルトを取り出すと一気に飲み干した。
貴夜美は気持ちの整理をつける時にいつもこれを飲む。見た目のイメージとは裏腹に、シャンパンやワインは飲まない。
「乳パワー・・・」
出た! いつもの決まり文句! 無駄にイケボである。
猛麻呂は前から思っていたが、この人はきっと心のどこかに相当深い闇を抱えているに違いない。見た目とのギャップがそうあまりに激しすぎる。
老人は特に気にするそぶりもせず話を続けた。
「主音君は情報収集のスペシャリストじゃ。実は以前、政府に関する情報を片っ端から調べるよう頼んでおいた。おそらく……奴は知ってはいけないことを知ってしまった。だから……その……政府にだな、最悪……」
老人がそこまで言ったところで、貴夜美が顔色を変えてかみついた。
「そんなことはない・・・!! あいつが死ぬことなどありえない・・・!! 俺たちは草薙山殿に出会ったあの日、あの町を救うまで決して死なない、そして死ぬときは共に死ぬ、そう誓ったんだ・・・!! 草薙山殿も覚えていらっしゃるでしょう・・・。そういうことは口にしないでいただきたい・・・」
貴夜美の語調には明らかな憤りと焦りが含まれていた。
普段は温厚な貴夜美も過去の話をされると敏感に反応する。
貴夜美の目は言葉では言い表せないほど重いモノを背負っている目をしていた。
老人は、スマンスマン、と2、3度頭を下げたあと、ヨイショと言って椅子から立ち上がった。
「そろそろ夜が明けそうじゃな。息子の話じゃと、政府の計画は1ヶ月後。今日は7月9日じゃから、8月中旬くらいかのう。その時までに何としても食い止めなければな。そこで1つ頼みがある。高井戸にある主音の家に直接行ってみてもらいたいのじゃ。そこに何か糸口があるかもしれん」
「おじいさん、それは戦闘班の仕事じゃなくない? そもそも戦闘班って言ったって、私、一度もまともに戦ったことないわ。戦闘班ってただの雑用みたい」
美香が不満を口にした。どうやら老人のことをよく思ってはないらしい。
思っていることがすぐ顔に出るので、猛麻呂にはすぐわかる。
「もう一度言うが、情報班はほとんど自宅で仕事を行い、やり取りはインターネット上じゃ。そのため、班員同士はお互いの顔も素性も知らない。立場も平等じゃ。班員は誰が情報班の班長だかわからない。いや、別にわからなくてもいいのじゃ。誰もが同じ立ち位置でやり取りをできるのがインターネットの利点じゃからな。まあ、要するに、情報班のメンバーは班長が誰なのか知らないから調べてもらうことはできないというわけじゃ」
老人は一息ついた。
「それに、本来は戦いが起こらない世界が望ましい。犠牲者は出したくないし、無論、犠牲者にはなりたくないじゃろ? お嬢さんは戦いが怖くないのかね?」
「もちろん、怖いわ。人を殺すなんて考えただけでゾッとする。でも、誰かがそういう役割を果たさないといけないこともあると思うの。私が小学生ぐらいの年齢だったとき、暇だったから孤児院で日本の新聞をよく読んだわ。私はロシアの小さな村の出身だったから、日本の新聞にとても驚かされた。だって、どのページを広げたって暗いニュースばかり。向かいの家の猫が子供を産んだとか、八百屋のお姉さんが結婚したとか、そんな明るいニュースが日本の新聞には1つも載っていないんだもの。目につくのは殺人や政治家の醜聞、カネの話ばかり。悪人がこの世に溢れているような気がした。私は誰かがそういった人間を裁かないといけないと思った。たとえそれが殺人という結果に繋がったとしても……。人間社会だからこその意味のある犠牲。私のロシアにいる両親も生きてはいるけれど死人のような生活をしているわ。でもそれは社会のため。町を、村を救うためにしていること。だから私も社会のために働きたいと強く思った。人を殺してしまうこともあるかもしれないし、誰かに殺されるかもしれない。でも自分で決めた道だから。後悔は無いわ」
猛麻呂は初めて美香の本音を聞いた気がした。
『ROOM』に入ろうと2人で決めたときは、こんな平穏な孤児院でのんびりしているよりスリルのある人生の方が楽しいでしょ? とか言っていたのに。
でも、猛麻呂は美香の本音を聞けた嬉しさより、不安と一抹の恐ろしさのようなものを感じた。
今の美香は正義の殺人を正当化しているのではないか。そうでなくても、少なくともこの世に消えてもいい命があると思っている。
猛麻呂はそれが怖かった。
猛麻呂は昔から仮面ライダーや戦隊モノが好きじゃなかった。テレビに出てくるヒーローは正義と悪の名の下で敵を倒していく。
でも、本当にそれは正しい行為なのか?
敵と味方、正義と悪。そんな単純な対立構造で終わらせていいのか?
人間は複雑かつ単純な生き物だ。そのギャップがいつも我々を苦しめる。
人間を測る物差しとして善悪は無意味なモノではないか、と猛麻呂は思った。
そう考えると、意味のある犠牲なんてモノはこの世に存在しないはず。無駄な命など無いはず。
猛麻呂は昔から美香の怖さを知っている。下ネタを呟いただけでもボコボコに殴られた。でも、それとはまた別の怖さだ。
猛麻呂は美香が殺人鬼と化す素質を持っているように感じた。