影の世界で
老人はお猪口に並々と注がれた酒を一気に飲み干すと、ベッドに座り込んでいた美香を手招きしてこちらへ呼んだ。美香はあからさまに不満げな様子で椅子に座った。
美香は下品なネタをめっぽう嫌う。だが純粋だといわれるとそれもまた違う。下品なネタで笑わそうとしてくる浅はかな男どもと、その手にのってしいそうな年頃の自分が嫌いなのだ。
猛麻呂は美香のプライドの高さをよくっている。父がロシアの軍人だったことも影響しているのかもしれない。
老人はヨイショと言って立ち上がると、美香の背後に回り込み背中から手を回し掛けた。美香の体がビクンッと反応する。
さあさあさあさあ!これから何が始まるんだ!唐突な歳の差セッ○スか?うひょぉぉーータマラン!俺にもやらせてくれ♂
などとテンションもアソコも上向きな猛麻呂が次に耳にしたのは予想外の言葉だった。
「ヨホホホホホホホ!貴夜美君、その通りじゃ!政府の機密情報はバッチシ掴めた。それに今回の件は我々に深く関係しているとみられる。しかしあやつらも侮れん・・・!姑息な真似をしおって」
老人はそう言って背中から回した手で美香の脇腹を軽く叩いた。床に黒いゴミのような塊が落ちる。美香はそれを拾い上げると目を丸くした。
「こ、これって…盗聴器じゃない!?」
これは一体どういうことなのだろう? この老人は政府の機密情報がどうこう言っていた。そして美香に仕掛けられていた盗聴器。猛麻呂には何が起こっているのか、老人と貴夜美が何を話しているのか、さっぱりわからなかった。
老人は猛麻呂と美香の表情に不安の色が見え始めたのを気づいたのか、今度は幾分か真剣な眼差しで語り始めた。
「ヨホホホホホホ、驚いたじゃろう。お前らはまだこの『ROOM』に所属してから3カ月しか経っていないのじゃから無理もない。まだお二人さんはこの組織の、そして社会の怖さを分かっておらん。我々が置かれている立場を考えるのじゃ」
置かれている立場。
猛麻呂と美香は、もちろん貴夜美もそうだが、特殊な力を使える。その力で渋谷で突然銃撃された時も身を守れたのだが、科学でも魔法でもないその力はこの世界で受け入れられることはない。もしその不思議な力を使える人間の存在を知られれば、初めは世間で大騒ぎされることだろう。うまく使えば億万長者にだってなれるかもしれない。
だが、その先に待つものはなんだ?
夢か?
幸福か?
充実感か?
違う。
『モノ』としての生活だ。
この力の源はまだ分かっていない。猛麻呂だって6歳の頃、孤児院で突然発現した。原因などわからない。イジメられたのもその頃からだった。日本では人と違うことを個性とはまず言わない。異質な人間としてみなされる。一般人からみて特殊能力は異質な『モノ』だ。と、同時に人間という生き物は興味を持つ。仕組み、理由、本質、頑なまでに全てを知りたがる。たとえそれが無意味だと知っていても、だ。
猛麻呂は間違いなく捕らえられ研究対象となるだろう。その時点で猛麻呂は人間ではない。『モノ』なのだ。
それならば能力を使わなければいいと思うかもしれない。
だが考えてみてほしい。もし目の前で溺れている人がいて、そこは遊泳禁止の場所だった。はたして泳ぎの得意な人は、ここで泳いではいけない、と規則を守り見殺しにするだろうか? いや、そんなことができるはずがない。助けたいという気持ちが勝るはずだ。
能力を制御するのはあくまでその人自身。人間だからこそ能力を絶対に使わないというのは無理なのだ。
だから『ROOM』という組織は特殊能力を使える人間を集めてあえて使うことにした。社会の陰に隠れ闇に潜む悪を裁く。
『君は・・・この場所で穏やかに暮らしているのは似合わない・・・。本当の悪は・・・見えないところに潜んでいる・・・。君は必要な人間なんだ・・・』
猛麻呂が孤児院で貴夜美に『ROOM』に入るよう諭された時に言われた言葉だ。
猛麻呂は幼い頃イジメをうけていた。だが孤児院の先生は気づいてくれなかった(気づいたのは美香だけだった)。
だからこそ、この言葉が心に突き刺さった。この世界のどこかで見えない何かに苦しんでいる人がいる。この能力が誰かの役に立つかもしれない。そう思い猛麻呂は『ROOM』に入ることに決めたのだ。
『ROOM』は社会の陰にある。そこに秩序は存在しない。神も仏も目を瞑る。
置かれている立場。
その言葉を猛麻呂はもう一度反芻した。