自分の人格を解剖してみる
私はたまに「ふーん、自分って頭がいいかもしれない!!」って思うことがある。以前は「自分はギフテッドかも⋯⋯?」なんて思ってた時期もある。
昔から自分でもよく分からない事があって、その理由や原理はいまでも分からない。だから私は、「ギフテッド」という言葉を使って納得することにした。
よく分からないものを考えることに飽きたからだ。
そしてようやく、自分が何なのか分かった。
私は特別な者でも何でも無くて。
虐待や極度のストレスによって、扁桃体(=恐怖や不安を感じる場所)が過敏になっており、そのストレスから獲得した「離人感」が私の心を守ってる。
扁桃体の暴走によって恐怖や不安を感じやすいはずだが、離人感(=本体の自分が後ろにいる)というシステムが、その恐怖や不安を和らげているため、普通の人よりは、「恐怖」や「不安」といった、目の前にある危険な状況を分析することができる。
この副作用として脳が「楽しい」と感じても、
私本体はそれを感じることができず、
明るい気持ちに触れることができない。
また、私自身は、「道徳」や「尊重」といった強力な武器になり得る言葉の意味や、それらを扱う人間の心を考えるが、この特徴は、虐待やストレスが蓄積して出来上がった「加虐的で破壊を好む自分」を抑えるためにある。
この分析を「中二病」と分類するのは早計で、私はよく「いまこの瞬間でこの人を殴ったらどんな顔をするのだろう?」や「へー、整形してるのかー、じゃあ、その部位を刺してみれば分かるってこと?」といった思いが自然に出てくる。
決して、考えているわけではない。
しかし、自然にそういった考えが出てくる以上、私は「加虐的で破壊を好む自分」の存在を認めるしかない。
そして、その加虐性が他人に影響を与えないように、私はそれを抑えるための薬として、「偉人の道徳」や「誰かの想い」を、常に心に留めておかなければならない。
この加虐性は、わたしの強い好奇心と結びついて、「人の本体を見てみたい」という欲求をも生じさせている。
この欲求は、とても危険なもので、「嘘つきは死ぬ瞬間まで嘘つきのままなのか?」、「それがそれであると決めている特徴や性質を破壊したら何になるのか?」といった危険な考えを振り回している。
本当に最悪だ。
こうやって、自分の人格を普通の分析を超えたエッセイにしている様子は、人に恐怖を与えることを理解している。しかし、私はこれを面白い創作だと感じる。
なぜなら、ここまで自分を深く解剖し、自分の裸体をみせつけるような、露出狂的側面をもつエッセイは、ほとんど目にできない。
自分の精神を解剖する事と、それをエッセイとして開示することには、激しい心の痛みを伴うからだ。
大抵の人間は、嘘の貴服を纏って生きている。その貴服を脱ぎ捨て、こうして中身を開示する私を見たとき、あなたは背筋が冷える思い、つまり「恐怖」を感じたはずだ。
――こいつが私の嘘を暴きに来るのではないか?――と。
そんな不意に沸き上がった思いは恐怖に変わり、私の存在を「中二病」や「可哀想な人」という、扱いやすい観念や概念、言葉を使って、私の存在を小さな物に書き換える。そして、自分の貴服についている小さなポケットに、私を収納してしまう。
おそらく、私の「生」を綴ったこのエッセイは、存在しないものとして扱われる。そう扱ったほうが、読者の精神衛生上いいからだ。
けれど、このエッセイをここまで読んだ読者は、私の「魂(=存在)」をこの創作物から感じたはずだ。
なぜなら、このエッセイには私の人格の設計図がそのまま載っているからだ。この文章たちは、「私そのもの」と言っても過言ではない。
ただ、あまりにも私の魂を感じたために拒否反応が出ているだろうから、作品に魂をこめるのにも、加減が必要なのだろうと思う。
――スッキリ解剖できて、たのしかったー!
解剖といっても、ただの推測だけどパズルを解くみたいで面白かった!!
【あとがき】
「作品に魂をこめる」という話は、たびたび話題になる。
これに対して私は、作者を読むことを目的とした「エッセイ」では、読者が作者を感じられるように、魂(=作者の存在)を言葉として、文章の中に直接的に刻む必要があると考えている。
これは、「エッセイ以外では手抜きをしろ」という話ではなく、エッセイを読む読者は、文章ではなく「作者自身」を読みにきているという話だ。
このエッセイのように、「作者の内面を告白するエッセイ」を好む読者は、作者の存在を感じることを目的としているはずだ。
だから、エッセイの中には、作者の痛みや思想を文字として、目に見える形で書く必要がある。それが「魂」を感じることに繋がるからだ。
――なら、【ファンタジー作品】や【恋愛作品】などは、魂を込める必要はないのか?
という話になるが、それらも魂を込めるべきだ。ただ、それらとエッセイでは、「魂の刻み方」に違いがあると私は思う。
ファンタジーや恋愛作品などは、読者は作者を読みに来ているわけではなく、その「世界」や「空気感」を読みに来ている。
何らかのSFや恋愛小説を見るとき、そこに「作者の魂(=存在)」が、見える形で刻まれていることは、求められていない。
たとえば、「転生したらスライムだった」や「薬屋のひとりごと」、「ハリー・ポッター」を読むときに、作者の顔を思い浮かべたり、作者の性格や癖を読み解くことは求められない。
しかし、読み終えて満足感を感じたとき、「この作者すげぇな。」と、作者を称賛するはずだ。ここで初めて読者は、「作者の魂(=存在)」を意識する。
これはつまり、SFや恋愛、ファンタジーなどでは、エッセイのような直接的な魂の感じ方よりも、濃密な世界観や伏線などの″技法″によって、「間接的に、作者の魂を感じることを読者が求めている」ということだと私は解釈している。
AI作品に「魂がこもっていない」と言われるのは、こういった「魂の入れ方」による違いが、その理由になっているのだと思う。




