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五年前から、知っていた  作者: 江葉


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1/2

知ってたから助けました

少し長くなったので前後編です。



 レッティナル王国の春は、ライラックの香りが告げる。


 南から中央へ、ライラックが開くと春の大舞踏会の合図だ。すなわち社交シーズンの到来である。


 今年の春は、例年より盛大だった。東領、西領、南領、北領の四大辺境伯家が出席を表明したのだ。


 東西南はともかく、北領が来るのは珍しい。中央の春は北ではやっと雪解け、天候によっては吹雪もありえる時期なのだ。雪が解けても朝晩は冷えて地面が凍る。舞踏会のためとはいえ腰が重くなるのも無理はなかった。それゆえ北領貴族は春の舞踏会欠席を許されている。


 本来ならレッティナル中の貴族が集まって春を寿ぐ大舞踏会。正式な形になった、と主催の王家が喜び、権威を見せるためだろう、より豪華に、より絢爛なものとなった。


 今宵、レオンティーヌ・バルツァー侯爵令嬢は家族と共に会場に入った。

 エスコートするべき婚約者が来なかったからだ。


 誰かを探すように周囲を見回すレオンティーヌに、赤いドレスの女性が近づいてきた。その後ろに二人の男性が続く。未婚の淑女に男から話しかけるのを憚ったのだろう。


「ごきげんよう。いい夜だな、バルツァー嬢」

「マルティナ・バイルシュミット閣下にレオンティーヌ・バルツァーがご挨拶申し上げます」

「ああ、堅苦しくしなくて良い。バルツァー侯爵、侯爵夫人、若君も、楽にしてくれ」

「ありがとう存じます」


 マルティナ・バイルシュミットは東領の辺境伯である。伯爵というと侯爵家が上に思われるが、辺境伯は同格、いや、マルティナの胸元に燦然と輝く勲章からすれば彼女のほうが上だった。

 伏したドラゴンの上に立つ、剣を掲げた天使。その名も高きドラゴンスレイヤーである。


 王都守護の功績で薊の騎士(ディステル・リッター)を賜ったレオンティーヌの父エンゲルブレヒトは感激と恐縮で顔を真っ赤にしている。


「すまないね、どうも北のは遅れているようなんだ」


 マルティナが申し訳なさそうに眉を下げる。後ろの男もうなずいた。


「北領が来るとなれば一大事なんじゃ。が、あれは来ると言ったら来る男じゃ。心配召されるな」

「大方先々で魔獣討伐を頼まれているのでしょう。領民に頼まれては断れません」


 好々爺然としているのがフロレンツ・ボーデ南領辺境伯。壮年の男が西領辺境伯のオーラフ・ドッペルバウアーだ。なおマルティナは二十代後半、豊満な肉体に男性だけではなく女性からも羨望の眼差しが飛んでくる。頬から顎にかけての傷痕は彼女のうつくしさを損ねておらず、むしろ色気を醸していた。


「お気遣い、かたじけのう存じます」


 三大辺境伯登場にエンゲルブレヒトは息も荒く興奮している。隣の弟ゴットフリードのほうが緊張からだろうが落ち着いていて、よほど大人に見えた。


「そのドレス、もしやピークスパイダーの布かい? 扱いが難しいのに見事に着こなしてるね」


 レオンティーヌのドレスをしげしげと眺めていたマルティナが、ちいさく口笛を吹いた。「ピークスパイダー!」とエンゲルブレヒトが叫び、卒倒しかけた。


「アリアドネの糸で織られた布だと、伺っていますが……」


 ピークスパイダーが何か、レオンティーヌは知らなかった。得たり、とマルティナが扇を片手に打つ。


「アリアドネは北領に棲む鬼蜘蛛の女王の名だ。山頂に棲む女王を我々は敬意をこめてピークスパイダーと呼んでいる」


 ピークスパイダーは肉食だが、人間を襲うことは滅多にない。彼女たちが狙うのは魔獣だ。上質な魔力を女王は好む。

 なお、滅多にないその時は出産前後である。この時期の女王は何でも食べる。なんならうっかり出くわした魔獣が我が子であろうと食べる。産んだら産みっぱなしで、卵を守ったりもしない。ただし、産卵場所は安全なところだ。


「鬼蜘蛛の布とは何か違うのでしょうか?」

「良い質問ですね」


 笑ったのはオーラフだった。西領には大樹海があり、鬼蜘蛛の糸と布は特産品なのだ。


「鬼蜘蛛の糸、布には魔力を流すと魔法を弾く効果があります」

「はい」


 その効果のため糸と布はとても高価だ。魅了などの精神汚染系魔法を防ぐために、王族や高位貴族は鬼蜘蛛の布で衣装を仕立てることもある。


「ピークスパイダーの糸は魔力を流すと望む形に、魔力で鍛えれば剣にも鎧にもなります」


 レオンティーヌの口がぱかんと開いた。慌てて扇で隠す。言葉が出てこない。


「さらにピークスパイダーの糸は魔法を吸収しますから、使えば使うほど強くなりますよ」


 鬼蜘蛛の布は、残念ながら強靭さまで備えていない。どこまでも布だ。


「あの……もしや……」


 ものすごく高価なのでは?


 贈り物の値段を聞くのは下品なふるまいだ。意を汲んだオーラフが良い笑顔を浮かべた。


「城が建ちますね!」


 ウインク付きだった。レオンティーヌは気が遠くなってきた。

 穏やかな表情で天に召されそうになっているエンゲルブレヒトに、母と弟が「父上、しっかりしてください」「あなた、本番はこれからよ」と声をかけたり肩を叩いたりしている。父には刺激が強すぎたようだ。


 気が付けばすっかりレオンティーヌは注目を浴びていた。


 いや、会場入りしたときから注目されているのは気づいていたのだ。婚約者にエスコートされていない婚約済みの令嬢はレオンティーヌだけ。意味ありげな視線がそこかしこから飛んでいた。


 マルティナたち三大辺境伯と談笑している今は、やはり、という納得が多くなっている。


「バイルシュミット閣下、わたくしの友人を紹介させていただけますか?」

「もちろんよ」


 近づきすぎず、遠巻きというほどではない距離で控えていた令嬢たちを振り返った。

 楚々と近づき、辺境伯に対する敬意と親愛を込めた礼を執る令嬢たちに、三人は満足そうに微笑み、言葉を交わす。


「……良い、友人がついているようだな」

「はい。とても頼りになる、自慢の友ですわ」


 レオンティーヌは友人と思っているが、公私ともに支えてくれる側近でもある。彼女たちがそばにいてくれるだけで心強い。

 友人たちは感激に頬を染め、涙ぐんでいる令嬢までいる。


「北領閣下のおかげですわ」

「はい。わたくし共の曇った眼を覚まさせてくださいました」


 ひとりが言えば、ひとりが応じる。彼女たちがレオンティーヌの友になれたのは、北領辺境伯のおかげだった。


 マルティナ、オーラフ、フロレンツがうなずく。母が目元を拭い、慌てて扇で隠した。


 ふっと、流れていた管弦楽が止んだ。


「国王陛下、王妃殿下、ご入場!」


 カッ、と踵を揃えて背を伸ばした侍従が主催の入場を告げ、ファンファーレが鳴った。


 王宮、金薔薇の間に集まった全貴族が一斉に礼を執る。


「王太子カスパー殿下、ならびに……フロイライン・ジョゼフィーヌ!」


 続けて呼ばれた名前に、レオンティーヌは驚かなかった。


「皆、今日の佳き日によく来てくれた。今年は四大辺境伯も揃っての春の舞踏会だ。踊り、楽しみ、語り合い、王国の春を祝ってくれ」


 国王の挨拶を待って顔を上げる。レオンティーヌの視界にカスパーとジョゼフィーヌが映り、すぐに消えた。マルティナがさりげなく移動し、レオンティーヌを隠したのだ。友人たちも彼女を守るようにレオンティーヌに寄り添った。


 ジョゼフィーヌの名前のおかしさに気づいたのは国王と王妃だ。どういうことかと問うように、エンゲルブレヒトを見る。

 しかし国王が声を出すことはできなかった。カスパーとジョゼフィーヌが中央に進み出たからだ。


 舞踏会のはじまりはファーストダンスである。主催が踊らなければ招待客も踊ることができない。しかたなく、国王と王妃も中央に進んだ。


 宮廷管弦楽団がワルツを奏でる。春の舞踏会ファーストダンス定番の名曲だ。


 国王と王妃、そしてカスパーとジョゼフィーヌは揃いの衣装を着ている。王族の証ともいえる濃い金髪に海を思わせる濃い青の瞳。青いドレスに金糸の刺繍だ。くるりとターンするたびにカスパーのひとつにまとめた長い髪がジョゼフィーヌに絡みつき、彼の寵愛がどこにあるかを知らしめるようだった。


 婚約者と妹がファーストダンスを踊るのを、レオンティーヌは冷静に眺めていられた。


 周囲の貴族にも驚きはない。ざわめいているのは、レオンティーヌと関わりのなかった、親王家派だけだ。


 あれほど女遊びの激しかった王太子殿下がジョゼフィーヌと出会い、真実の愛を知った。王太子を立ち直らせたのはジョゼフィーヌ。彼女こそ王太子妃にふさわしい。ちらちらと侮蔑の視線を投げながら、レオンティーヌを嘲笑っている。


 もっともほとんどの貴族は、白けた目でカスパーとジョゼフィーヌを見ていた。


「バルツァー嬢、ドレスに魔力を流してみてくれませんか?」


 ダンスの終盤、声をかけてきたのは宰相マルセルだった。


「まあ、宰相閣下、気になりますの?」


 王太子の婚約者として、ほぼ王宮で育ってきたレオンティーヌはマルセルと既知の仲だ。特にここ五年は政務にも携わっていたため、わりと気楽に話をする。父より年上だが祖父ほど老いてはいない、親戚のおじさん、といったところだ。


「それはもう! ピークスパイダーの布となれば伝説の勇者の鎧に使われた逸品! その真価の一片たりとも拝見したい!」


 マルセルには嫌味も、真贋を試す色もなかった。ただ純粋に、ピークスパイダーの凄さを見たがっている。


「わしも見たい」


 賛成したのはフロレンツだ。


「ピークスパイダーといえば武具ばかりじゃ。ドレスがどう変化するのか見てみたいものよ」


 城が建つどころか国宝級だった。ドレスに仕立ててしまって、本当に良かったのか。レオンティーヌは空恐ろしくなる。


「魔力を流すといっても、どのようにすれば良いのでしょう?」


 魔法ならばわかる。詠唱で魔力の属性を固定し、宣言することで一気に放出するのだ。目的もなくただ魔力を流す経験は、レオンティーヌになかった。


「ああ、慣れていないと難しいか」


 言って、マルティナが片手を伸ばした。レースの縁取りのある白手袋に魔力を流す。


「まあ……!」


 たちまち白手袋が短剣に形を変えた。宰相をはじめとする人々、主に男性が歓声を上げた。


「王宮舞踏会は帯剣できないからね。これくらいは」


 元の白手袋に戻したマルティナに、フロレンツ、オーラフが同意する。


「詠唱はいらない。魔法になってしまうからね。どうしたいのかをイメージしながら魔力を使えばいい」

「イメージ……」


 レオンティーヌはドレスを見た。


 亜麻色の髪、ヘーゼルの瞳をしたレオンティーヌに合わせ、薄桃色に茶と緑で刺繍したドレスだ。


 届いた時の色は、白だった。白はデビュタントの色なので、植物性の染料で染めたのだ。

 取扱説明書には『どんな染料にも使えます。保管、洗浄の際には、魔法のご使用は止めてください』とあった。『魔法による変形や汚染の可能性があります』とも。逆に扱いが難しいと愚痴っていたのは侍女のララだ。


 高価な布だ。城が建つし、勇者の鎧にもなる。


 そんなものを、北領の辺境伯はレオンティーヌに贈ってくれた。


 春の舞踏会が彼女にとって、どういうものになるのか見越して、レオンティーヌを守るために。


 想いと共に、魔力が流れた。


 視界の隅で、こちらをちらちら窺いながら踊っていたカスパーとジョゼフィーヌが、息を呑むのが見えた。


「おお……!」


 マルセルが目を見張った。


「これは……もしや、オーロラですの?」

「正解」


 レオンティーヌのドレスは、ドレスの形を保ったまま、オーロラになっていた。


 レオンティーヌはオーロラを見たことがない。ただ本で知るのみだ。


 夜空に浮かび上がる光の帯。緑や赤、青にも色を変え、波うち揺らめくという。


 レオンティーヌのまとう夜は星を煌めかせながら、彼女が動くたびにオーロラがゆっくりと揺らめいた。


「不思議……! なんて綺麗なんでしょう」


 ついターンしたレオンティーヌと、呆然と立ちすくむ国王の目が合った。


「レ、レオンティーヌ……!」


 ダンス後の礼もせず、王妃をその場に残したまま、国王が足早に近づいてくる。


「そのドレスはまさか、ピークスパイダーの布かっ!?」

「はい」

「な……っ」


 一度絶句して、国王が叫んだ。


「なぜそなたが持っている!? 本来ならば余に献上してしかるべき逸品であろう!?」


 心からの叫びだろう。肩で息をする国王に、辺境伯三人のみならず、貴族たちが不快そうに目を背けた。


「わたくしに贈られたものでございますれば、こうしてドレスとして着ることが礼と存じます」

「贈られた……? 誰にだ?」

「北領辺境伯、ユリウス・クラウゼヴィッツ閣下にございます」

「クラウゼヴィッツ……」


 力なく呟いた国王が、ユリウスを探して周囲を見回した。彼はまだ来ていない。


 代わりにジョゼフィーヌを連れたカスパーが、にやにやと笑いながらやって来た。すかさず父エンゲルブレヒト、母リュクレーヌ、弟ゴットフリードが前と左右に着く。


「レオンティーヌ! 他の男から贈られたドレスを着てくるとは、とんでもないアバズレだな!」

「仕方がありません。本来ならば贈ってしかるべき婚約者が何もしなかったのですから。なあ、リュクレーヌ」

「ええ。ゴットフリード、あなたはそんな、婚約者を裏切る行為をしてはいけませんよ」

「はい、母様。僕はそんな最低のことなんて決してしません!」


 見事なコンボが決まった。


 エンゲルブレヒトの皮肉に国王まで被弾している。


 裏切り、最低の言葉に顔を強張らせたのはジョゼフィーヌだ。カスパーの色に合わせ、レースと刺繍をふんだんに施された彼女のドレスは、今日のためにカスパーから贈られたものだった。大きなダイヤモンドのネックレスも、揃いのイヤリングも、靴も。全身カスパーの贈り物である。


 それを裏切りと母に言われた。最低と弟に言われた。


「お、お母様……お父様……」


 呼びかけに、二人は応じなかった。視線すら向けない。ゴットフリードが軽蔑を隠さず、レオンティーヌに一歩寄った。


「フロイライン・ジョゼフィーヌ。わたくしたちを家族のように言うのはやめなさい。不愉快だわ」


 顔を背けたままリュクレーヌが言った。


「え……」

「そうよ、どういうことなの!?」


 固まったジョゼフィーヌに代わって出てきたのは王妃だった。


 『フロイライン』は未婚の女性を指す言葉ではあるが、社交デビューを済ませた令嬢に使われるものではない。貴族令嬢ならば『ダァム』である。

 入場時、ジョゼフィーヌは『フロイライン』と呼ばれた。さらに姓はなかった。ジョゼフィーヌ嬢ではなくジョゼフィーヌちゃん、と呼ばれていたのだ。


 バルツァー侯爵家の令嬢ではなく、ただのジョゼフィーヌとして。


「何がでしょうか? 王妃殿下」

「ジョゼフィーヌよ! どういうことなの!? ジョゼフィーヌだってバルツァー家の娘でしょう!」

「いいえ」


 エンゲルブレヒトがあっさりと否定した。


「当家には、姉の婚約者にエスコートされて勝ち誇るような、恥知らずの娘はおりません」


 立っていられなくなったのか、ジョゼフィーヌが膝から崩れ落ちた。


「だ、だが!」


 片手でジョゼフィーヌを支え、カスパーがレオンティーヌを指差した。


「レオンティーヌ、そう、レオンティーヌと事あるごとに比べられ、そのたびに落とされて、格差をつけられたジョゼフィーヌが哀れだと思わないのか!?」

「誰にですか?」


 激しい剣幕でまくしたてるカスパーに、冷静に聞き返したのはレオンティーヌではなく母のリュクレーヌだった。


「誰にって……」

「八歳で王太子殿下の婚約者となって以来、レオンティーヌの教育は王宮で行われ、わたくし共は関わっておりません。母のわたくしが王都に居を移したというのに、王宮から邸宅に帰ることも許されませんでした」


 リュクレーヌは扇を強く握りしめた。


「どれほど厳しい教育であったのか、年に数回許された面会のたび、レオンティーヌは窶れ、笑わなくなり、受け答えは判で押したような「大丈夫です」「ありがとう存じます」ばかり。手元に残ったジョゼフィーヌは、そんなことにならぬようにと、むしろ甘やかしてしまったと後悔しておりますのよ」


 年に数回の面会、の部分に貴族夫人たちが息を呑んだ。窶れて笑顔を無くすほどの教育は、もはや虐待である。ましてや他家の令嬢に対してやりすぎだろう。


「嘘よ!」


 ジョゼフィーヌが叫んだ。


「お姉様が帰ってきたらお父様も王都に来て、みんなお姉様ばかり! なんでもお姉様を優先して! お姉様ばかり大切にして! 今までお姉様なんかいない者扱いしていたくせに!」


 涙を浮かべているが零すことなく、叫んではいるもののヒステリックでもない声量。カスパーに支えられつつも立ち上がろうとする姿は、健気といって差し支えなかった。


 これでもリュクレーヌが手塩にかけて育てたのだ。学園にいた頃は完璧な淑女とまで評されていた。


「今も……わたくしを絶縁して……」


 楚々としてカスパーに縋り、そしてついに涙をぽろりと落とした。自分の魅せ方を心得た涙である。震える吐息まで可憐だった。


「絶縁ではない。除籍したのだ」


 ジョゼフィーヌに引きずられることなくエンゲルブレヒトが訂正を入れた。ジョゼフィーヌの涙が止まった。


 絶縁よりもっと重い処分が下っている。


 絶縁は家を追放されて家名を名乗れず使えないが、許されれば戻る可能性がある。


 しかし除籍は、家系図から完全に抹消される、いなかったことにされるのだ。

 当然ながら戸籍がなければ働くのにも苦労する。たとえ殺されても、無戸籍ではろくな捜査はされず、犯人が貴族であれば罰せられることはない。平民も平民同士の犯罪として数年の刑罰で済んでしまう。無戸籍とはそういうことだ。勝手にどこでものたれ死ね。そう言われたも同然であった。


 むろん、新たな戸籍を作ることは可能だ。しかしなぜ戸籍がないかの説明や後見となる身元引受人、現住所など、本当にその人物が存在するかの証明が必要となる。貴族が家から除籍となればそれほどの罪を犯したとみなされ、まず身元引受人は見つからないだろう。


「そ、んな……いつ……」

「一年前から準備はしていた」

「何度諫めてもレオンティーヌを貶め、ありもしない嘘を広めるんですもの。実の姉であることを差し置いても王太子殿下の婚約者ですよ、不敬でしょう」


 リュクレーヌがため息を吐いた。そう、いくら姉妹とはいえ、ジョゼフィーヌがやったことは不敬なのだ。


「家内だけでも問題なのに、社交界で、他家のご令嬢まで巻き込んで……。クラウゼヴィッツ閣下が動いてくださらなかったら、大変なことになっていたわ」


 重い処分であるがゆえに、そう簡単に除籍などできないようになっている。審査期間が設けられ、審議の確認がされ、処分妥当となって処分が下るのだ。


 家だけではない。教会と、貴族の戸籍を管理する紋章院。この三つがジョゼフィーヌをなかったことにした。


「真か、紋章官」


 蒼褪めた国王の問いに、スッと進み出た紋章官がはっきりと答えた。


「はい。十日前、紋章院はバルツァー侯爵家よりジョゼフィーヌの名を抹消しております」


 持っていた手帳を開くこともなかった。それほど大きな決定であった。


 十日前。ジョゼフィーヌはうつろな目で母を見た。


「カスパー殿下から、お前にドレスが贈られた日よ」


 そうだ。大喜びでお礼を言いにカスパーの元へ向かった。すぐにドレスと、今身に着けている宝飾品、それから靴が家から届いた。そしてそのまま今日まで、王宮でカスパーと過ごしたのだ。


 国王と王妃も、同じバルツァー家の娘なのだから、ジョゼフィーヌとレオンティーヌを入れ替えれば良い、レオンティーヌは政務官にでもすれば良いと言ってくれた。


 だが、もう、それはできない。ジョゼフィーヌはバルツァー家の娘ではなくなった。ただのジョゼフィーヌになってしまった。


「……クラウゼヴィッツ?」


 カスパーがジョゼフィーヌを支えていた手を放した。ふわりとドレスが広がって、ジョゼフィーヌが両手を床につく。


「なぜ北領の辺境伯が、そこまでレオンティーヌに肩入れする? お前たち、やはり浮気していたんだろう!」


 お前が言うな。


 カスパーとジョゼフィーヌを応援していた親王家派を除く全員が思った。


「北領と王都がどれだけ離れていると思っているんです。北のが北から出てきたら、それだけで大騒ぎですよ」


 マルティナが呆れを隠さずに言った。


「ならば、なぜだ!? 私の婚約者と、何の接点があってこんなことをする!?」

「……なぜ、と疑問に思われることが、証明ですな」


 宰相マルセルだった。



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― 新着の感想 ―
王子の名前が『滓(カス)パー(脳無し)』というだけで、激しく察せられますね(笑)
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