チャプター9.最後の帰り道(43:46~)
シーン2-9:告げられない思い(43:47~)
(43:49~)
二人が歩いている道はモデルがあるのだと思われるが、筆者は特定できていない。印象としては、澄田家(のモデル)から西側の海岸に向かう道に近いように思われる。
(44:56~)
貴樹がロケットの打ち上げを見たことがあったのかどうかは定かではない。小説版では、花苗が第二話序盤の時点で、貴樹は見たことがあるのだろうか、そして(自分は)何年か打ち上げを見ていない、と考える場面がある。そこで高校に飾られている写真を見て「平成8年(一九九六年)8月17日」「平成9年(一九九七年)11月28日」という日付が示される。この二つは現実に行われている(https://www.jaxa.jp/projects/past_project/index_j.html参照)。本作でも、その写真が日付を読み取れる形で現れる(28:47)。
この場面は一九九九年の十月と考えられるため、作中でも二年ほど前には打ち上げが行われているようである(このため、花苗が「何年か見ていない」というのは、あえて見ようとしたり見に行ったりしなかったという意味なのであろう)。現実ではさらにその後、一九九八年二月二十一日に種子島で打ち上げが行われており、その次は二〇〇一年となる(従って、貴樹と花苗が見たのは架空の打ち上げである)。貴樹が種子島に来たのは一九九五年の三月から四月頃のはずだが、その時点からこの場面までに現実では上記の二回を含めて四回の打ち上げが行われている。現実の記録を解釈のために援用することに問題はあるだろうが、貴樹はロケットの打ち上げそのものを初めて目にして驚嘆したというよりは、打ち上げられた衛星の運命に特別な感情を抱いたと考えるべきであるように思われる。注釈32:59も参照。
なお、種子島宇宙センターから、一つの基準として高校までは、およそ十八キロほど離れている。相当な轟音を立てるので、二人にも打ち上げの音が聞こえていても不思議ではない。
(45:26~)
中種子町の風景である。高校近くの交差点から少し離れたあたりから、南を向いている。
(46:18~)
鳥の群れが見える。意味のある描写と考えるべきであろう。
(46:56~)
「満月を電線が分断している」という描写は、「君の名は。」でも使われている。「君の名は。」では、過去に新海誠が使った演出が意図的になぞる形でいくつか現れるので、その一環であろう。
本作での象徴的な意味については、47:50で示されるように花苗が目にしている光景だというのが示されていることから、遠いところにある月と、それを遮る電線、目にする人間という三つの関係が、貴樹と花苗の関係(の、花苗の認識)を象徴しているのであろうか。
なお、現実の暦では、1999年10月25日に満月となっているので、この場面の日付はその前後(の平日)ということになる(https://www.arachne.jp/onlinecalendar/mangetsu/1999/10/参照)。しかしこの時期では、「十月の半ば」と言いづらく思えるので、あまり現実にこだわって考える必要は無さそうである。
(47:11~)
貴樹が歩いていくのは島の西側にある海岸に通じる道でもあるので、この方面に貴樹の家があると考えれば、注釈43:40で指摘した、位置関係の現実との違いがいっそう明瞭になる。
(47:24~)
貴樹の夢の中で飛ぶ鳥は二羽である。
(47:44~)
この情景は26:23とほぼ同じだが、さらに、35:38および39:29で見られた種子島の風景とも同じである。貴樹が見ているのは、ただ夢見た理想というだけでなく、貴樹が実際に目にした光景が織り交ぜられたものなのである。そこから考えれば、貴樹が望むのは、そういった「遠く」に行くことそのものではなく、むしろ自分の見た光景、そういった接してきたものに対する感じ方を共有できる相手(当然ながら、明里)が隣にいることだったのであろう。そして、それは花苗が「望むこと」とは、決して重ならない。そして、花苗が「見てなんていない」と悟ったのは、花苗自身でもあり、種子島という場所そのものでもあったのかもしれない。
(48:01~)
中山海岸には電灯の類が一切ないため、夜間は完全に真っ暗である。それ故に、満点の星空を見ることができる。ただし、短いながら細い橋を渡ったり暗い坂道を通るため、夜間に海岸に向かうのは、かなり注意が必要。
(第二話補足)
何度か述べているが、漫画版では、完全にオリジナルの展開で花苗のその後が描かれている。物語としては興味深いが、本作にまで遡ってその進路などの設定を適用して考えてよいものかどうか。