You were in me who was free〜許婚を解消して自由になったはずなのに、俺の中にアイツがいた〜
許婚…… 本人たちの意志にかかわらず双方の親または親代わりの者が合意で結婚の約束をすること。
だが現代では当人以外が行った許嫁契約は法的な効力を持たない。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」
「もぉ、もぉ、もぉ、もぉ!」
「なんだアイツ!」
「なによアイツ!」
「「絶対にゆるさん(ない)!」」
激しく玄関が開かれると、溜め込まれたイライラが叫びによって爆発する。
靴は八つ当たりのように投げ出され、階段を駆け上る一際大きな音が家中に響くと、最後に部屋のドアが壊れんばかりの勢いで閉ざされ、再び大声がこだまする。
「あの、クソ男(女)ーー‼︎」
里原家と村山家の日常は、いつも通りの夕方を迎えていた。
——里原家
「毎日毎日うるさいのよ、歩夢! また愛歩ちゃんと痴話喧嘩したの?」
ノックも無しに扉が乱暴に開かれると、いまだに怒りの炎が燻る俺に、ガソリンを撒き散らす言葉をかける女が立っていた。
我が家の長女――里原 遥だ。
「はぁ? 痴話喧嘩!? 痴話でもなければ喧嘩でもねぇよ! 戦争だ、戦争! ヤツは倒すべき敵だ!」
鼻息荒く言い切ったのだが、姉ちゃんは口角を上げると人差し指をこちらに向けた。
「あんたら許婚じゃん」
「違う!」
「生まれる前から決まってたじゃん!」
「ちっがーう!」
しまいには腹を抱えてゲラゲラ笑い出す姉ちゃん。
そんなに弟を苦しめるのが楽しいのか?
そう、俺と天敵である村山愛歩は、認めたくはないが許婚の約束が結ばれている。
いつの時代の人ですか? って言いたい。
はっきりいって里原家も村山家もごく普通の一般家庭で、上流階級の風習とは無縁の家柄だ。
事の発端は60年前。
うちの曾祖父さんが戦争に行ってた時の話だ。
愛歩の曾祖父さんも戦争に徴兵されていたらしいのだが、配属先で知り合った同郷の二人。
すぐに意気投合し、生死を共にした戦友ってヤツになったそうだ。
終戦し、シベリア抑留さえも共にした二人は、何を思ったのか子供達を結婚させようと固く誓ってしまう。
だが残念ながら二人の子は、みな男の子だった。
じゃあ孫にとなったのだが、なんの因果かまた男の子ばかり。
そしてひ孫へと代が変わり、ようやく生まれた女の子が姉ちゃんだ。
喜びも束の間、2年後に村山家に生まれたのは女の子。
今度は女の子ばかりかと嘆かれた矢先に待望の男の子が生まれた。
……俺だ。
曾祖父さん達は涙を流しながら喜び、許婚を遺言に幸せそうな顔でこの世を去っていったそうだ。
記憶にない曾祖父さん……。その遺言を守る爺さん、婆さん、親父、お袋に何度言ったことか。
もういいじゃん。曾祖父さんは幸せに死んだんでしょ? と。
だいたい俺の名前も不満だらけだ。
幼い時にお袋に由来を聞いたことがあったが「愛と夢を持って人生を歩いて欲しいって意味なのよ」と教えられた。
……俺の名前に『愛』は入ってないし。
そりゃね。はたから見たら許婚なんて、ちょっと羨ましい要素があるのかもしれない。
だが、それは相手ありきのもので、アイツはダメだ。
そりゃね、外見が悪いとは言わない。百歩譲って、いや、一万歩譲って美人に見えなくもないとしておこう。中学生で成長止まりましたか? と問いたくなる凹凸の無いスタイルも、世の中には幼児体型という便利な言葉があるように目を瞑ることが出来る。
問題なのは中身だ。
わがまま、天の邪鬼、反抗、凶暴、性悪なんて言葉は愛歩の為にあるようなもの。
稀にアイツが可愛いなどというあり得ない噂話を耳にするが、所詮は猫を被った姿に騙されているに過ぎない。
何度ジ○ロに電話しようと思ったことか。
「なに顔を赤らめてるのよ。愛歩ちゃんのこと考えてるんでしょ? はいはい、お熱いことで」
この姉はとうとうボケてしまったようだ。
どこをどう見ても怒りで頭に血がのぼっているとしか考えられないだろ?
「目、腐ってんの? このブーー!」
言葉の終わりを待たずして、的確な右ストレートが俺の顎を打ち抜く。
俺は世界が回るのを感じながら意識を手放した。
「よっ、歩夢。朝から不機嫌そうな面してるな」
「恭介か。――っ、痛っ。これは不機嫌じゃなくて昨日姉ちゃんにやられた顎が痛いだけだ」
顎をさする俺を見て、中学からの腐れ縁である川島恭介は「なるほどな」と意味ありげに笑った。
「本当に歩夢と遥さんは仲がいいな。俺も遥さんみたいな美人な姉が欲しかったよ」
「欲しけりゃやるぞ」
恭介は俺がどれだけ被害を受けてるのかを知ってるくせに、やたらと姉ちゃんを褒める。
とはいえ「気があるなら紹介するぞ」と渡りをつけようとすると、「いや、これは憧れだから」とはぐらかすあたり、もしかすると俺をからかっているのかもしれない。
俺の通う県立港山高校へと続く長い坂道に差し掛かると、決まったように脇道から二人の女子高生が歩いてくる。
学年一の眼鏡美女と名高い滝見さんと愛歩だ。
滝見さんは俺たち二人に気づくと笑みを浮かべて手を振ってきた。
「里原くん、川島くん、おはよう」
「おはよう、滝見さん、村山さん」
「おはよう、滝見さん」
「おはよう、川島くん」
俺と愛歩はお互いの顔を視界に入れないように、「ふんっ」と、顔を背けた。
こいつは毎日狙ったように同じ時間にやってくるので、嫌でも朝から顔を合わせてしまう。
前に恭介に「なら歩夢が時間をズラせばいいだろ?」と言われたが、それはそれで逃げたようで癪なのだ。
まぁ、朝から滝見さんに会えるのでプラマイゼロとしておこう。
いつもの通り俺と愛歩の会話だけがないまま四人で坂を歩いていく。
その時、顎の痛みに眉をしかめて右手でさすると、愛歩が挑発的な笑みを浮かべて話しかけてくる。
「あら、遥さんにやられたの? 不出来な弟を持つ遥さんに同情するわ」
「ふん。俺は凶暴な姉を持つ奏多くんを不憫に思うよ」
奏多くんは愛歩の一歳下の弟。
この愛歩が姉だ。きっと生きるのも辛い毎日を送っていると想像するに容易い。
「はぁ? 奏多は私のような姉を持って幸せに決まってるでしょ?」
「あー、やだやだ。何でも自分の思い通りに世界が回ってると勘違いしてる奴は怖いねぇ」
「あんたケンカ売ってるの?」
「ほら、すぐ暴力に訴えようとする。それだよ、それ」
俺と愛歩の口論がエキサイトし始めると、「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ」と恭介と滝見さんが割って入るのが登校時の日課である。
「そういえば滝見さん、学年6位だったね」
「それを言ったら川島くんは8位だったよね」
恭介は話をそらそうと、昨日張り出されていた中間テストの順位を話し始めた。
この二人、頭いいんだよな。
ちなみに張り出されるのは上位50人なので73位の俺の名前は載っていない。俺を見て勝ち誇った顔してる愛歩は、生意気にも49位にランクインしていた。
「愛歩ちゃんは英語98点だったよね」
「そういや歩夢は数学98点だったよな」
「えーっ、あの難しかった数学で98点なの!? 里原くん凄いね!」
滝見さんに褒められるのは気分がいい。
だが俺は数学が飛び抜けているだけで、特に英語は赤点ギリギリだった。
「数学って、ちゃんと答えと法則があるから分かりやすいんだよ。あのテストで50点も取れないやつは頭が固いんじゃないかな?」
俺は鼻を鳴らして愛歩をみる。
愛歩は昔から算数、数学が苦手なのだ。
プルプルと肩を震わせている愛歩。いい気味だ。
すると恭介が不味いと思ったのか愛歩を持ち上げ始める。
「村山さんの英語98点はすごいよね。あのリスニング、けっこうえげつなかったし」
「そうそう。愛歩ちゃんと一緒に映画とか見に行っても笑うポイントとか違うの。英語が出来るって羨ましい」
愛歩はここぞとばかりに顔をクイと上げ、見下ろすようにこちらを見た。
「英語なんて言語分析能力と暗記する努力があれば誰でもすぐに覚えられるのよ。あのテストで50点も取れない人は記憶力が猫並みだと思うわ」
くっ、この野郎!
「猫は記憶力いいけどね」
「あら、もしアンタが50点以下だったら猫に失礼だったわね」
「はぁ? 胸が幼児だと頭も幼児か?」
「アンタこそ無駄に身長が高いから栄養が全部そこに吸い取られたんじゃないの?」
「「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ」」
二人に宥められながら学校に到着すると、俺と愛歩はお互いを馬鹿にしたような変顔を見せつけながら玄関へと入っていく。
俺と恭介はA組、滝見さんと愛歩はD組。
とりあえずこれで俺に平穏が訪れたわけだ。
「仲が良すぎるってのも問題だな」
「はぁ? 誰と誰がだ?」
「そりゃ歩夢と村山さんに決まってるだろ」
クラスへと向かう廊下で、恭介はトンチンカンなことを言い出した。
「あのな恭介。今までさんざん見てきただろ? あれを仲が良いって感じるなら、俺はお前に精神病院を紹介しなきゃいけない。どう見たって犬猿の仲だろ?」
「まっ、本人がそう言うならそう言うことにしておくさ」
俺が首を傾げて足を止めると、恭介はスタスタと先に行ってしまう。
どうもあいつの感性はズレているようだ。
昼休み、俺と恭介が楽しく話していると「先輩、ちょっといいですか」と、一年生らしき幼さの残る女子が恭介を呼びにきた。
あれだ。リア充ってやつだ。
あいつはモテ男なのだ。
年に数回女子に呼び出されては告白されている。
だが何故かいつも断っており、未だに彼女いない歴を更新し続けている。
ちなみに俺は生まれてから一度も告白されたことがない。
それは決して不細工だとか、性格が悪いとか、変な性癖があるからではない……はず。
そう、現代社会において珍しい許婚という存在が、俺を青春から遠ざけているのだ。
珍しいがゆえに噂は瞬く間に広がってしまう。だから小学、中学、この高校二年生までその手のトキメキとは無縁なのだ。
俺だって愛歩の存在さえなければ告白の一度や二度くらいあっただろうと信じている。
しばらくすると、恭介はバツが悪そうに頭を掻きながら戻ってきた。
「また断ったのか? けっこう可愛い子だっただろ?」
「まぁ、そりゃね。でも好きでもない子に告白されても断るしかないだろ?」
「そんなもんかなぁ。付き合い始めてから好きになるってのもあるかもよ?」
俺の返しがよほど意外だったのか、恭介は驚いた顔をして瞬きを繰り返した。
「えっ、どうした? 俺、なんか変なこと言ったか?」
「いや、歩夢が言うと説得力あるなぁって」
「それってどういう意味かな恭介くん?」
俺がコメカミをピクピクさせながら尋ねると、恭介は表情を緩めた。
「だって歩夢の場合生まれた時から相手が決まってるだろ? 長い付き合いから好きになるってことを目の当たりにすると納得出来るっていうか」
「あのな恭介。クドイようだが言っておく」
「歩夢は滝見さんみたいなのがタイプって言うんだろ?」
「そう。優しくて、可愛くて、細っそりしてるのに出るとこ出てて、まさしく愛歩とは真逆。俺だって滝見さんが許婚だったら人生薔薇色だったよ」
「もしそうだったら真逆のこと言ってそうだけどな」
俺が一睨すると口を閉じた恭介は、鳴り始めたチャイムの音で自分の席へと戻っていった。
授業が始まり、ふと、さっきの恭介の言葉を思い返す。
間違ってもそんなことはない。滝見さんは本当に俺の好みなのだ。
いつも明るくて優しく微笑んでくれて、俺の癒しの女神なのだ。
……そう妄想したところで愛歩が許婚という現実は変わらないのだが。
凹んだ俺はそのまま机に突っ伏した。
とりわけ代わり映えのない毎日を過ごしていたある日、珍しく早く帰宅していた親父が俺を呼んだ。
「歩夢、ちょっと座れ」
「んっ、何?」
リビングに面した和室で親父は何やら神妙な面持ちで座っており、俺の顔を見ると軽く咳払いを一つする。
「実は昨日、村山と外でばったり会ってな、ちょっと二人で飲みに行っていたんだ」
親父のいう村山は愛歩の父親だ。
里原家と村山家は曾祖父さんのおかげで繋がりが強く、親父とおじさんの仲はいい。
どうりで昨日親父が帰ってくるのが遅かったわけだ。
しかし改まって親父が俺を呼ぶってことは、愛歩のやつが俺の悪口でもおじさんにチクったのだろう。
「歩夢。お前と愛歩ちゃんは許婚だ。俺は愛歩ちゃんを娘のように見ているし、村山も歩夢を息子のように見ている」
「……うん」
確かにおじさんは俺に優しい。
でも優しいだけじゃなくてちょっと厳しい時もあるのは、きっと親父が言ったように俺をそう感じているからなのだろう。
正直言えば愛歩はともかく、おじさんやおばさん、奏多くんのことはけっこう好きだ。
「俺も村山も、歩夢と愛歩ちゃんが一緒になることを当たり前のように思っていた。でもな、昨日村山と話してたんだ。お前たち二人の気持ちを考えてるかって。
歩夢、正直な気持ちを教えてくれないか。愛歩ちゃんをどう思ってる? お前たちの気持ちによっては……許婚を解消するつもりだ」
「えっ?」
俺は咄嗟に答えれなかった。
愛歩との許婚を解消出来るチャンスが来たことは分かっている。
あれだけ望んでいたことなのに、いざチャンスが目の前にぶら下がると手が伸びなかった。
本当に俺の愛歩への気持ちだけで答えていいのだろうか?
死んだ曾祖父さん達の思い。親父やお袋、おじさんやおばさんの思い。
俺が何も言えずにいると、親父は初めて聞くような優しい声を出した。
「正直な歩夢の気持ちでいい。思っていることを教えてくれ」
「……許婚を……解消したい」
俺は親父の目から視線を逸らすように俯き、自分の気持ちを告げる。親父はゆっくりと大きく息を吐き出し、「そうか、分かった」と納得するように呟いた。
その場にいることが苦しくなった俺は逃げるように立ち上がる。
「歩夢、すまなかったな」
背中越しの一言を聞いて、俺は部屋まで駆け上がった。
ベッドに飛び込んだ俺の心の中はぐちゃぐちゃだ。
許婚を解消できた嬉しさ。家族の期待を裏切った苦しみ。
そして何故だか愛歩のことを思い浮かべてしまう。
おそらくアイツもおじさんから同じことを言われているだろう。
なんて答えたのだろう。
もしアイツが許婚の解消を嫌がっていたら。
いや、そんなはずはない。
そんな答えを聞けない考えがグルグルと頭の中を駆け巡っているうちに、いつしか俺は眠りについていた。
翌朝、目が覚めてリビングに降りた俺を迎えたのは、いつも通りの朝だった。
親父がいてお袋がいて姉ちゃんがいる。
ただいつもと違ったのは、親父が発した「村山には言っておいた」という一言だけ。
たったそれだけの違いだが、俺と愛歩の許婚は解消された。
「よっ、歩夢。なんだ、朝から元気がないな?」
俺の肩をポンと叩いてきたのは恭介だ。
俺が反応せずにいると、首を傾げて顔を覗き込んできた。
「おいおい、本当にどうしたんだ? 体調悪いのか?」
「……いや」
「絶対変だって。ははぁん。さては里原さんにフラれたとか」
その言葉に俺の体はピクリと反応して、足を止めてしまった。
「マ……ジかよ」
俺は無理矢理笑顔を作って、戯けて見せた。
「フラれてないって。むしろフったって感じかな。いやぁ、空気が美味い」
「そ、そうか」
「「自由って最高だな(ね)」」
シンクロして俺の言葉に被せてきたのは、脇道からやってきた二人の女子の一人。
愛歩だった。
「あっ、川島くん……里原くん、おはよう」
「滝見さん……村山さん、おはよう」
いつも元気な二人の挨拶がぎこちない。
理由はおそらく俺と愛歩にあるわけで、俺は開き直るように声を出した。
「滝見さん、おはよう。いやぁ、村山、清々しい朝だな」
「――っ! 川島くんおはよう。本当、清々しい朝ね、里原」
見上げた空は今にも雨が降り出しそうな雲に覆われている。
「自由って最高だな」
「自由って最高ね」
俺と愛歩の頑張りはそこまでだった。
ただただ無言のまま坂道を歩く四人。
結局俺は学校に着くまでの間、愛歩の顔をまともに見ることが出来なかった。
昼休みになると、恭介は俺に付き合えと教室の外を指さした。
やってきたのは屋上へと続く階段の踊り場だ。
「こんなところに連れてきて、どうしたんだ恭介」
そう聞いたものの、あたりはついている。
「俺が口出す問題じゃないのは分かってるけど……歩夢、無理してないか?」
「無理? してない、してない。念願叶っての許婚解消だぞ。俺には薔薇色の世界が見えるくらいだ」
恭介はグイと顔を近づけると、真っ直ぐ俺の目を見た。
「本当か?」
「本当だって」
「……そうか。いらん気遣いして悪かった」
「いや、その、心配してくれてありがとな」
これは本音だ。
心配してくれる恭介の気持ちが嬉しかった。
「じゃあさ、俺が村山さんに告白しても、もう問題無いんだな?」
「――はぁっ?」
えっ、何言ってるの?
恭介が愛歩に告白?
またまたご冗談を。
「もう歩夢に気兼ねしなくていいんだろ?」
「そ、そりゃ俺は関係ないから。で、でもあれだぞ、愛歩だぞ。恭介もアイツの本性分かってるだろ? やめとけって。よっぽど今まで告白して来た子の方がいいって」
「そりゃ、歩夢のおかげでよく知ってるよ。強情っぱりで、気が強くてーー」
俺はウンウンと頷く。
「繊細で、心根が優しくて、とっても可愛い女の子だ。俺、ちゃんと見てたから。でも、歩夢が本気で止めるなら、俺は告白しない」
恭介の顔は真剣だった。
まさか今まで誰とも付き合ってこなかった理由が愛歩だったなんて。
そう考えると俺はどれだけ恭介を傷つけて来たのだろう。
好きな相手の悪口を聞かされ続け、それでも許嫁という俺がいるせいで心を表に出せなかった。
……俺に止める資格なんかあるはずがない。
「……俺は止めないけど……後悔するなよ」
「しないって。よし。なら俺、今日の放課後告白してくる。結果はちゃんと教えるから」
恭介はニコリと笑うと階段を降りていった。
恭介の告白が上手くいったら……失敗したら。
どちらを想像しても俺の心はズキズキと痛むのだった。
放課後。盛大なため息を吐きながら校門を出ると、「里原くん」と声をかけられる。
振り向けば滝見さんが片手を上げていた。
「途中まで一緒に帰らない?」
「えっ!? いいけど……滝見さん一人なの?」
「うん。愛歩ちゃんは用があるって」
俺の脳裏に恭介の顔が浮かぶ。
きっと告白するために呼び出したのだろう。
妙な脱力感を感じながら滝見さんと二人、下り坂を歩いて行く。
「ねぇ、里原くん。愛歩ちゃんと許嫁を解消したって本当なの?」
「本当だよ。愛歩……村山も喜んでただろ?」
「うん、喜んでた。すっごく無理して喜んでた」
「無理して?」
「そう、無理して。無理矢理吹っ切るぞー、みたいな」
少し愛歩の気持ちが分かる気がする。
好き嫌いとか別のところで心がぐちゃぐちゃで、元気なフリをしていないと崩れ落ちそうな、そんなどうしようもない気持ち。
「里原くんはどうなの?」
「俺? 俺は素直に喜んでるよ。だって好きな人を好きなように好きになれるんだよ。めっちゃ自由って感じかな」
「あははは、愛歩と同じこと言ってる。じゃあ、アタシが立候補しようかな?」
「へっ!?」
ほんのりと顔を赤くして悪戯っぽく笑う滝見さん。
「ま、またぁ、滝見さんは冗談がキツイなぁ」
「冗談じゃ……ないよ」
嘘……だろ?
だって滝見さんは愛歩の親友で。
そりゃめっちゃ可愛いし、タイプだし、憧れてたけど。
「アタシね、結構前から里原くんっていいなぁ、って思ってたの。今までは愛歩に遠慮してたけど、もう許婚じゃないって言うしね」
まるで恭介と同じだ。
今、愛歩も同じ状況なのかもしれない。そう考えると、激しく胸が痛んだ。
「里原くん。アタシと付き合わない?」
家に帰りベッドの上で天井を見上げていると、スマホが震えた。
恭介からの電話だ。
『もしもし、歩夢。俺、村山さんに告白したよ』
『そうか。どう……だった?』
『フラれた。今はちょっと考えられないって。俺、焦り過ぎてたのかもな』
『……』
『おい、歩夢、聞いてるのか?』
『あ、あぁ』
『ったく。少しは慰めの言葉とかないのかよ。まぁ、詳しくはまた明日話すよ』
『あぁ』
『……ツー、ツー』
気がつけば電話は切れていた。
――今はちょっと考えられない。
それはついさっき俺が滝見さんに言った言葉と同じだった。
どうして俺はホッとしているんだろう。
なんで俺は滝見さんを断ったんだろう。
親友の恭介、あれだけ憧れた滝見さん。
自分でも気持ちが分からなくて、とても嫌な奴になったみたいで、吐き気がするほど気持ちが悪い。
その時、部屋のドアが開かれて、軽くノックが聞こえた。
開けてからノックするのは姉ちゃんだ。
俺はムクリと起き上がると、そのままベッドに腰を下ろした。
「なに?」
「ご飯って呼びに来たけど……歩夢、落ち込んでんの?」
「別に、体調が悪いだけ。後から食べるって言っておいて」
早く出てけと俺はそっぽを向くのだが、姉ちゃんはドアの前に立ったまま動こうとしなかった。
「許婚の解消は歩夢が望んだことでしょ? 今になって後悔してるの?」
「別に後悔してねーし。ようやく自由に恋愛出来るって喜んでるし」
「ふーん。言葉と態度が全然マッチしてないわね」
「だから体調が悪いんだって。ほっといてくれよ!」
思わず怒鳴り声をあげても、姉ちゃんは出て行かない。
むしろ一歩ずつこちらに歩み寄ってきた。
「アンタはどこまで子供なの? 自分の気持ちに向き合えないからっていじけて。歩夢の言う自由ってなんなの?」
「決まってるだろ。勝手に決められた相手じゃない、自分で選ぶことが出来る自由だ」
「ふーん。なるほどね」
姉ちゃんは俺の前で足を止めた。
「ねぇ、歩夢」
「なんだよ!」
ぶっきらぼうに応えると、姉ちゃんはいつもと違った真剣な表情で、軽くコツンと俺のおでこを指で弾いた。
「見ててイライラするから言うけど……許婚は解消したかもしれないけど、あんたが言う選ぶ自由の中に愛歩ちゃんもいるのよ」
「……」
「自由になったっていうなら、ちゃんと自分の心と向き合いなさい」
姉ちゃんは呆れたような、でも優しげな笑みを浮かべると、手をヒラヒラとさせ「素直が一番よ」と俺の部屋を出て行った。
――俺が選ぶ自由の中に愛歩もいる。
その言葉に俺の胸がズキリと痛む。
俺の中に愛歩が? ――俺はその考えを打ち消すように頭を大きく横に振った。
だいたい今でも愛歩の事を好きか嫌いかで聞かれれば好きではない。ただ……嫌いとも言えない。
「あーっ、もう。くそっ」
俺は何度も頭を掻きむしった。
自分で自分が分からない。
もともと俺は答えのないことに頭を使うのが苦手なんだ。
モヤモヤするくらいなら行動してしまえばいい!
俺はスマホを持つと画面に指を滑らせた。
「な、何よ突然呼び出して」
「あぁ。ちょっとな」
俺は愛歩の自宅に電話して、近くの公園に呼び出していた。
許婚を解消してから愛歩とはまともに話をしていない。会って話せば俺の気持ちが分かるんじゃないのか――そう思ったのだ。
電話口の愛歩は実に嫌そうな声を出していたが、「仕方ないわね」と驚くほどすんなり俺の呼び出しに応じてくれた。
チラと愛歩を見ると、お風呂から上がったばかりなのか髪はしっとりと濡れており、そっぽを向いた顔はほんのりと赤らんでいる。
「で、呼び出してまでの用ってなんなのよ?」
「えーっとな」
纏まらない考えのまま、俺は思いつくままの言葉を話し始めた。
「なぁ、愛歩。お前って俺のことどう思ってる。俺は許婚が解消されて自由に恋愛出来るんだって嬉しかった。でも……なんかすごい気持ちが落ち着かないんだ。何かぽっかり抜け落ちたみたいな。でな、ちょっとお前のこと考えてみたんだ。俺は愛歩のことどう思っているんだろうって」
「う、うん」
「で、お前との思い出を振り返って……好きじゃないなぁって」
「はぁーっ!? アンタ、もしかして嫌いって念押しするためにわざわざ呼び出したの!」
顔を背けていた愛歩だったが、俺の言葉に憤然として般若の面になってしまった。
怒りで顔をさらに真っ赤にし、拳を振り上げている。
俺は両手を前に出して「ま、待て、待て。落ち着け」と宥める。
「ちょっ、ま、待てって。最後まで聞けって。好きじゃない……好きじゃないけど嫌いじゃない」
「――何よそれ!?」
「俺だってうまく説明できねぇよ。ただ……好きとか嫌いとかそんなんじゃなくて、その――愛歩がいないと落ち着かないっていうか」
「……それって、私が必要ってこと?」
驚いたような顔した愛歩は少し顔を伏せると、普段からは想像出来ないか細い声を出した。
「そう……なるな」
素直に愛歩の問いに答えるのはいつ以来だろうか。
きっと小学校に入る前だろう。
顔が熱い。
きっと俺の顔も真っ赤だろう。
「だから、その……許婚じゃなくても。あー、その……」
恥ずかしくて、心臓が飛び出しそうなほど強く、激しく鳴り響く。その場から逃げ出したい気持ちを拳を握ってなんとか抑え込み、俺は声を振り絞った。
「俺のそばにいてくれないか?」
愛歩は顔を伏せたまま何も喋らない。
沈黙が続く中、愛歩はとても小さな声で呟いた。
「You were in me who was free」
「えっ? 何? ご、ごめん、なんて言った?」
顔を上げた愛歩は、泣きそうな顔をしながら笑っていた。
公園の電灯が照らす普段見たことのないその表情はとても綺麗で、俺は少し見惚れてしまう。
「もっと英語の勉強しなさいよ」
「へっ?」
「だから、仕方がないからそばにいてあげるって言ったの」
「なんだよ仕方がな――」
俺は言葉を飲み込んだ。
スッと手を握られたから。
ガサツな愛歩の手は小さくて、暖かくて、心を落ち着かせてくれる。俺は壊れ物を触るように優しく握り返した。
「こ、これからは許婚じゃなくって、こ、恋人同士ってこと?」
「そ、そうなるかな」
妙に気恥ずかしくて、でも心地がいい。
きっと俺たちは『許婚』って言葉に振り回されていたんだと思う。
今、愛歩のことを好きか嫌いかと聞かれれば迷わずこう答えるだろう。
――愛歩が好きだと。
公園から家まで送っていく時も、俺はそのまま愛歩の手を握っていた。
おじちゃんやおばちゃん、奏多くんにも改めて挨拶しなきゃと考えていると、愛歩が唐突に昔の話を始める。
もちろん俺と愛歩の喧嘩の日々だ。
「ふふっ。そうそう、あの時は歩夢がお父さんに怒られてたよね」
「愛歩が告げ口したからだろ?」
「そうだっけ?」
ペロリと舌を出す愛歩。
あれだけいがみ合っていた記憶しかない思い出も、今じゃ笑い話だ。
「ほら、愛歩が大事にしてたクマのぬいぐるみ。引っ張ったら腕が取れたやつ。俺が隠しておいたのを見つけた時、愛歩めちゃくちゃ泣いてたよな」
その時ピタリと笑い声が消える。
「……ちょっと待って。もしかしてあれ、歩夢の仕業だったの?」
――地雷だった。
「はははは、ど、どうだったかなぁ。む、昔の話だし」
繋いでいる手が痛いほど握られる。
とてもじゃないが愛歩の方に顔は向けられない。
「私がどれだけ大事にしてたか知ってたよね! 私が歩夢のゲームソフトを割ったからってちょっと酷くない!?」
――ちょっと待て。
今なんて言った?
小学生の頃、俺が小遣いを貯めて買った大人気だったゲーム。
それがクリア目前で突然、そのゲームソフトが割れている事件があった。買い直すお金もなく、俺は涙したものだ。
犯人はお前か――愛歩!
「お、お前だったのか! 俺がどれだけクリアを楽しみにしてたか知ってただろ!」
強く握られていた手をさらに強い力で握り返す。
「「ふんっ」」
俺と愛歩は顔を背け、相手の手を痛めつけることに力を注いでいた。
一応家まで送り、俺は帰ろうとして踵を返す。おじさん達への挨拶はまた今度だ。
すると背中から大きな声が聞こえて来た。
「バカ歩夢! お、おやすみ」
「バカ愛歩! お、おやすみ」
振り返らずにそれだけ言うと俺は走り出した。
気持ちが悪いくらい足取りが軽い。
俺はニヤつきながら全力疾走するのだった。
翌日の朝を迎えた俺は憂鬱だった。
愛歩とのことではない。いや厳密に言えばそうなのだが、恭介と滝見さん。二人に合わせる顔がないのだ。
告白を止めなかったのに結局俺が付き合い始めたとか、告白されたのに結局元に戻ったとか、人として性格を疑われるレベルだ。
仮病を使って休もうかとも思ったが、よく考えれば立場は愛歩も同じ。
男として俺だけが逃げるわけにはいかない。
俺は覚悟を決めて学校へと向かった。
学校へと続く長い坂道の手前。
いつも通りの場所に恭介はいた。
「よっ」
「……よっ」
普段通りに見える恭介は、俺の横に来ると同じ歩幅で歩き出す。
親友を失うかもしれない。
そんな恐怖が込み上げてきたが、それは自分が蒔いた種。
俺はゴクリと唾飲み込んで横に顔を向けた。
「き、恭介。昨日のことなんだけど」
「あぁ、それな。俺、彼女が出来たよ」
「はぁっ?」
あれっ? 何この流れ?
想定外なんだけど。
いや、昨日フラれたって言ってたはずだ。
「昨日あの後さ、ちょっと歩夢のことで相談受けてたんだよ。んで、色々話してるうちになんか親近感持っちゃって。その流れで付き合っちゃおうかってなってな」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
俺は頭を抱えた。
家の前で別れてから、愛歩は恭介に俺のことを相談したのか?
で、相談してるうちに「やっぱり歩夢より川島くんがいい!」ってなったってことか!?
あっ、ダメだ。
仮病とかじゃなくて今にも倒れそうだ。
俺が足元から崩れそうになっていると、元気な明るい声が聞こえてきた。
「おはよう、里原くん、恭介くん」
「おはよう、滝見さん、村山さん」
「おはよう、川島くん。歩夢、なに今にも倒れそうな顔してんのよ。あっ、さては期限切れの牛乳でも飲んできたんでしょ」
気さくに声をかけてくる愛歩。
だが俺は返事をすることが出来なかった。
まさか僅か半日、いや数時間でフラれていたなんて。
そうだよな。許婚じゃないんだ。唐突に終わりが来るのが恋愛だもんな。
「そうそう里原くん。愛歩とよりを戻したんだって? 昨日の愛歩の惚気は凄かったんだからね」
「本当だよ歩夢。俺も滝見さんから聞いたけど、普通真っ先に俺に教えるだろ? まぁ、よりを戻すとは思っていたけど、まさか一日とはな」
……あれっ?
あれれれれ?
話が噛み合わない。
俺は混乱する頭のまま、恭介の肩をグッと掴んだ。
「き、恭介。お前、いったい誰と付き合うことになったんだ?」
恭介は「んっ?」と不思議そうな顔をすると視線を横にずらした。
その先は……。
「――っ!? 滝見さん!?」
「あれっ、さっき言わなかったっけ? 昨日滝見さんから歩夢達がよりを戻したこと教えてもらって、そのまま話し込んでたんだ。そしたら面白いくらい俺と滝見さんの考えが似てて、そのまま付き合ってみようかって」
「アタシもびっくりしちゃった。恭介くんってもっとクールな人かと思ってたら、むちゃくちゃ面白いんだもん」
「ははっ、ははははは」
もはや乾いた笑いしか出てこない。
いや、凄いお似合いカップルだとは思うが、この腑に落ちない気持ちはどうすればいいのだろうか?
「でも歩夢が泣きながら『好きだー』って叫ぶところは見たかったな」
「アタシも是非見たかったなぁ」
言ってねーし。
俺が愛歩を睨みつけると、プイと顔を背けられた。
「違う違う。それは逆。愛歩が泣きながら『好きなの。もう一度チャンスを下さい』って言って来たんだよ」
「――はぁ? 寝ぼけてるの? いったい私がいつそんなこと言ったのよ。何月何日、何時何分、地球が何回まわった時よ?」
「昨日の19時22分、地球が1兆6784億4053万628回まわった時だ」
「歩夢って平気で嘘をつくわね。さっさとその舌抜かれればいいのに」
「そういう愛歩は昨日のことすら覚えてないなんて、若年性アルツハイマーじゃないのか?」
「「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ」」
いつも通り四人での登校。
その居心地の良さに、俺は誰にも見られないように頬を緩ませた。
——村山家
リビングで村山奏多はソファに座りながらスマホを耳に当てていた。
『予定通りでしたね遥さん』
『ホント、歩夢も愛歩ちゃんも世話がかかるねぇ。奏多くんもお疲れ様。うちの親は「ちゃんと上手くいくのか?」なんて心配してたよ』
『うちの親もですよ。なにせ曾祖父ちゃん達の悲願ですからね。でも俺は絶対姉貴も歩夢兄ちゃんもくっつくって分かってましたけど』
遥と奏多。
二人が両親を巻き込んだ計画の成功を労っていると、両家の玄関先が慌ただしくなり始めた。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」
「もぉ、もぉ、もぉ、もぉ!」
「なんだアイツ、なんだアイツ!」
「なによアイツ、なによアイツ!」
「「絶対にゆるさん(ない)!」」
溜め込まれたイライラが叫びによって家中に響きわたる。
階段を駆け上り一直線で自室へと向かうと、二階からのドアが壊れんばかりの勢いで閉ざされ、再び大声がこだまする。
「「クソ歩夢(愛歩)ーー‼︎」」
『……平和だねぇ』
『そうですね』
里原家と村山家の夕方は騒がしい。
今までも、これからも。
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