スヴェトラーナさんの秘密
次の朝に目を開いたときに、目の前に広がっていたのはいつも見慣れた天井ではなく、昨日初めて見た天井であった。
部屋にかかった時計を見る。短針がちょうど7を指していた。
時計はこの世界でも変わらないんだなと考えつつ、用意してもらった着替え(サイズはやや大きかったのでいくらかたくし上げた)に着替え、
下の階に降りて行った。
スヴェトラーナさんはすでに起きており、こちらに気がつくとにこりと笑って「おはよう。」と声をかけてくれた。
スヴェータ「どうかしら?記憶は戻ったかしら?」
青葉「いえ、その」
そういえばそんな嘘をついていた。少し罪悪感があるが続けよう…。
青葉「すみません、まだなにも」
スヴェータ「そう。今日も図書館に行くのかしら?」
青葉「はい。」
スヴェータ「じゃあ、またお弁当を用意しておくわね。私もリガの散歩にいくから、一緒に家を出ましょう。」
こうして、僕はスヴェトラーナさんの家と図書館を往復する生活が始まった。
本ばかりで飽きるかと思っていたが、意外と読み進められるもので、読む速度もだんだん早くなってきた。
司書のニコラーエフさんとも打ち解けることができ、本を借りることもできるようになった。
時々スヴェトラーナさんやリガもとも一緒に図書館に行き、ニコラーエフさんを交えてお茶を飲んだりすることもあった。
警察にも行ってみたが、一切の身分証明ができない僕にたいして警察では何もできないようだった。
警察職員「我々で対処するとなると、ビザがない外国人、という扱いになるしかない。当然密入国で逮捕、収容所送りだな」
職員さんはスヴェトラーナさんとは関係がよく、僕のことを「身分が判明するまでスヴェトラーナさんの手元から離さない。」という条件付きで
見逃してくれた。僕はスヴェトラーナさんの交友関係に驚いたが、その理由はのちに判明することになる。
そして、ソビエトに来てから2週間余りがたった。
僕はスヴェトラーナさんの手伝いやリガの散歩代行、買い物の荷物持ちなどを手伝うようになっていた。
そして、そうでない日はやはり図書館でこの世界の歴史や地理、さらには文化なども調べるようになっていた。
僕がお昼ご飯を食べていたときに、司書のニコラーエフさんが話しかけてきた。
ニコラーエフ「よお!ここ空いてるか?」
青葉「あ、どうぞ!」
ニコラーエフ「わりいな、よいしょっと。」
最初は塩対応だったニコラーエフさんは、僕がスヴェトラーナさんの知り合いだとわかるとよく話しかけてくれたり、
興味のありそうな本を渡してくれたりするようになった。
ニコラーエフ「どうだ、記憶は?」
青葉「まだ駄目ですねー」
ニコラーエフ「そうかあ、早く戻るといいなあ。どこから来たかもわからねえんだろ?」
青葉「ええ。そういえばなんですが。」
ニコラーエフ「おう?」
青葉「スヴェトラーナさんはどうしてあんなにお知り合いが多いんですか?」
ニコラーエフ「なんだおめー、知らねえのか。そりゃスヴェータが「連邦英雄賞」の持ち主だからに決まってんだろ。」
青葉「……えっ!」
ニコラーエフ「ほう、マジで知らなかったんだな。まあスヴェータは言わんだろうし、俺たちもあまり口には出さないからな。」
この図書館で知ったのだが、連邦英雄賞というのは連邦でも最高クラスの勲章だ。戦争で偉大な功績や多大な貢献をした英雄に与えられるという。
青葉「スヴェトラーナさんはどんな功績を上げたんですか?」
ニコラーエフ「功績…ねえ…」
ニコラーエフさんはなぜかすこし遠い目をする。
ニコラーエフ「偉大な貢献だよ…偉大な、な。スヴェータが衛生兵だって話を聞いただろう?」
青葉「はい、写真を見せてもらったときに…」
ニコラーエフ「スヴェータは命を救ったのさ、建国の英雄と呼ばれる、アドミラル・ソローキンの命をな。」
青葉「!」
アドミラル・ソローキンはこの世界の大祖国戦争で5本の指に入る名指揮官として戦ったという英雄だ。
首都攻勢で重傷を負ったものの、賢明な看護により意識を回復し、再攻勢を行い首都モスクワを制圧した、と伝えられている。
青葉「ソローキンを救ったのがスヴェトラーナさんだったなんて」
ニコラーエフ「その時、スヴェータは非常につらい選択を迫られたのさ。」
青葉「選択?」
ニコラーエフ「スヴェータの旦那……セルゲイ伍長は戦車兵だった。首都攻勢で負傷し、応急看護所に放り込まれた。
すげえ重傷だった。意識はあったが、死ぬか死なないかの瀬戸際。だが規定通りに薬品や医療器材を使ってやれば、戦いはできなくなるが助かるだろう命だった。
そこに、ソローキン大将が担ぎ込まれてきた。こちらも重傷で、意識すらなかった。その時、薬品はもう残り一つしかなかったんだ。」
青葉「……」
ニコラーエフ「一兵卒に過ぎない愛する夫を救うか、蘇生させなければ負けるであろう名将軍を救うか。スヴェータの判断は早かったね。
実に早かった。たった今夫に使おうとしていた薬と機材をそのまま大将の方へ回した。セルゲイの意識はあり、ずっとその様子を見ていた。」
青葉「セルゲイさんは?」
ニコラーエフ「死んだよ。2時間後にね。セルゲイは泣き言もうめき声も上げずにスヴェータの判断の判断を誉め、死んでいった。
ソローキン大将は戦後にその話を聞いて、元帥になった後は医療器材の十分な確保を何よりも最優先にするように厳命したそうだ。」
青葉「ニコラーエフさんはその話をどこで……」
ニコラーエフ「その場にいた。俺はセルゲイの戦車の操縦手だったんだ。戦車の中で無事なのは俺と隣にいた無線手だけだ。砲手だったセルゲイを
応急看護所まで連れ込んだときのことだったよ。」
青葉「それは……」
ニコラーエフ「ああ、辛かったさ。だが誰よりつらかったのはあの二人だ。スヴェータは全く無表情で、だが涙をボロボロこぼしながら将軍の治療をしてた。
セルゲイは一切声を上げず、まるで薬品など必要ないかのようにふるまった。心配かけたくなかったんだろうな。
戦後、スヴェータとセルゲイは勲章をもらい、ソローキン将軍の計らいで十分な報奨金と、まだ小さかった息子のウラジミールに十分な教育を施すことを
約束してもらった。実際、ウラジミールは航空機メーカーでバリバリはたけるようになった……。」
僕は目頭が熱くなるのを感じた。
ニコラーエフ「スヴェータがどう考えてるのかは俺はわからねえ。だが、お前さんが考えている以上に苛烈な人生を送ってるのは間違いねえ。
お前さんがどこから来たのか知らねえが、その顔じゃあ多分戦争は知らねえな。知らねえ方がいい。知ってほしくもねえよ。」
ニコラーエフさんがため息をついた。
ニコラーエフ「……心気臭くなっちまったな。わりい。」
青葉「いいんです。ありがとうございます。」
僕はスヴェトラーナさんが作ってくれたお弁当を食べ始めた。普段に比べて妙に塩辛い気がした。
その日はどうも本を読む気にならず、すぐに帰ってきてしまった。
スヴェータ「あらあら、おかえりなさい。今日は早かったんだねぇ」
青葉「…ええ、ただいまです。」
スヴェータ「どうしたんだい?何か落ち込んでいるみたいだけど。」
青葉「スヴェトラーナさん、お話があります。」
スヴェータ「何か思い出したのかい?聞こうじゃないか。さあ、中にお入り。」
スヴェトラーナさんはいつも通り優しい顔をして、僕を家の中に入れた。
まず一番に、僕はスヴェトラーナさんに謝罪した。
青葉「ごめんなさい、スヴェトラーナさん。僕、記憶喪失というのは嘘なんです。」
スヴェトラーナさんが目を丸くする。
青葉「僕は……こういっても信じてもらえるかわかりませんが、異世界から来た人間なんです。」
スヴェトラーナさんがさらに目を丸くする。
僕は自分の状況を説明した。
スヴェータ「……それじゃ、まだ元の世界に戻る方法はわからないんだね?」
青葉「はい…」
スヴェータ「しかし、どうして話してくれる気になったの?」
青葉「ソ連邦英雄章のことを聞きました。」
スヴェトラーナさんの顔がすこし歪む。
スヴェータ「ニコライかい。おしゃべりな人だわ」
青葉「僕は…もうこれ以上嘘をついているのが嫌で……ごめんなさい、もし失望したなら出ていきます。」
スヴェータ「行く当てはあるのかい?」
青葉「……」
スヴェータ「あたしは、アオバを収容所送りにはしたかないね。正直に言ってくれていなかったのは少し残念だけど、
まあどちらにしろ頼るものはないわよね。あたしは何も変わらないよ。」
青葉「スヴェトラーナさん……」
今日、僕は二回目の涙をこぼした。
スヴェータ「日本に行きたいかい?」
青葉「はい。」
スヴェータ「まっていなさい。」
スヴェトラーナさんがどこかに電話をかけ始めた。
スヴェータ「もしもし。どうも。お久しぶりです。実は……」