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どこにもなかった風景、経験しなかった思い出

奥さんのいる人の子ども

作者: あめのにわ

この街に戻ってくるのは数年ぶりだった。

なじみの商店街を歩くと、ほとんどの個人経営店は潰れ、シャッターが閉まっていた。


すぐ近くに総合ビルが建築されるため、商店街自体が閉鎖されるという。

総合ビルに移転する店も、廃業した店もあるのだろう。

おそらく後者の方が多いに違いなかった。


商店街を抜けると、十階建てのマンションがあった。

築三十年ほどであろうか。

エレベーターはなかった。ぼくはコンクリートの階段を上った。


サチヨさんの部屋は三階にあった。


扉の脇には「山内サチオ」という表札がかかっていた。

そして、


「いま、所用で実家に戻っています」


と書かれた貼り紙も。


ぼくは訝しく思った。

こんなものは、以前はなかった。

それに、サチオという男性のことなど聞いた覚えもない。

彼女が実家に戻っているというのも疑わしかった。


おそらく何かのトラブルを防止するためのものだろう、とぼくは思った。何が起こっているのか。あまり良い想像はできないのだが。

サチオとは、自分の名前を男性名にした変名なのだろう。


ぼくは鞄の中から封筒を取りだし、それを開けた。

中には鍵が入っている。少し古びて、使い込まれた鍵だった。

それをドアの鍵穴に入れて回す。

ドアは当たり前のように開いた。かつてそうであったように。


室内には誰もいなかった。

昼間なので買い物にでも出かけている、という様子であった。


2LDKマンションの室内は、女性らしく小ぎれいに整頓されていた。

居間の片隅には、アップライトピアノが置いてある。

ピアノの上には毛糸で手編みされたカバーがかかっていた。

おそらくサチヨさんが作ったものだろう。


午後の陽光がレースのカーテンを通して差し込み、部屋を暖めている。

ぼくはキッチンにあるテーブルの椅子に座った。

そして待った。


小半時ほど経つと、鍵を差し込む音がして扉が開いた。

サチヨさんだった。

彼女は特に驚きもせずぼくを認めると、いそいそとヒールを脱いで鞄を下ろし、部屋に入ってきた。


——来たのね。久しぶり。

——ああ。


サチヨさんは、ぼくの記憶にある姿からあまり変わっていなかった。ただ、少しやつれたような印象を受けた。


——わたし、忙しいの。赤ちゃんが生まれたの。

——ええっ?

——いま、託児所に置いてあるわ。


ぼくの子どもではないのか、と不意に思った。

しかしすぐにそうではないことを自認した。サチヨさんと別れてから、もう数年以上経っていたのである。


——わたし、裁判しなきゃならないかも。奥さんのいる人の子どもなの。


その声は淡々として、はじらいも、衒いもなかった。


(ああ、この人もいろいろあったんだな。さみしかったのかもしれない。ぼくの知っていたサチヨさんとは、少し変わってしまった。)


ぼくは少し哀しくなった。


サチヨさんとやり直すことができるだろうか。

いまのサチヨさんとやり直したいと思うことじたい、あるだろうか。


そしてもし仮にそれが可能だとしても、ぼくは他人の子どもをこの人と一緒に引き受けられるのだろうか。

それは遠い、遠い道のりのように思えた。

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