6話
「これは…」
彼女の話、そして彼の意図は明確に理解できた。
頭痛が治まった時、僕は思い出したのだ。いや、忘れていることにすら、気づいていなかった。彼女の言う呪いの力とは、こういうことかと、僕はこの時ようやく知ることなった。
「そうか、僕は、僕の名前は…」
そう、僕は自分の名前すら忘れていたのだ。考えてみれば、彼女も彼も、ただの一度として僕の名前を呼んだことがなかった。ただの一度も、だ。
仮にも何年も同じ家で過ごしていた人間が、名前すら呼ばないなんてことがあるだろうか。絶対にありえないとは言わないが、それはかなり珍しいことだろう。ならば、やはりこれもまた、彼女や彼の気遣いなのだ。
そう感じた僕は、彼に目を向け、そうして彼の目元が濡れているのを見た。
「そうか…俺達のやってきたことは、無駄ではなかったのだな」
そう呟くと、彼は一度別室へと姿を消した。
ドアの向こうからは嗚咽が漏れ聞こえていたが、それを詮索するほど無粋ではない。
しかし、彼の態度を見ると違和感もあった。確かに尋常ならざる状態であったが、それでも半年ばかり式や技術を教えただけの弟子に、そこまでの感慨を抱くものだろうか?
そう考え、思い至る。
彼もまた、記憶を失う前の僕を知っていた?今のような一時の師弟関係ではなく、より深い関係だったのではないかと。そして、彼女も、また。
未だその二人の素性についての記憶は失われたままであることを申し訳なくも感じたが、少なくともいくらか希望は見えた。今食べたこの肉の正体さえ教えてもらえれば、その希望の正しさは証明されることだろう。
半時ほど経ってから再び姿を現した彼に問う。
「この肉は、魔物のものですか?」
「ああ、そうだ。その様子だとあいつから話は聞いてたみたいだな。それに、それはただの魔物じゃない。それは、竜の肉だ」
いくぶん目元が赤いが、落ち着きを取り戻した彼がそう答えた。
やはり僕の認識は間違っていなかった。こうして魔物の力を取り入れることで、おそらく龍のせいだと思われる失われた記憶を取り戻すことが出来るのだ!
しかし、まさか用意されたのが竜の肉であったことには素直に驚いた。まさか彼女に魅せられたあの個体ではあるまいが、竜などどいうものは、そんなにありふれた魔物ではないだろう。そしてその強さもまた普通の魔物とは比べ物にはならない筈だ。
彼がどのようにしてこの肉を調達したのかはわからないが、自分に同じことが出来るとは考えづらい。
さて、どうしたものかと考えていると、彼が補足してくれる。
「別に竜種である必要はない。確かに強い魔物の方が得られる力も大きいが、その分弱い魔物でも数を刈れば、同じ効果が出るはずだ」
「ありがとうございました。そして、貴重な肉も。とても、美味しかったです」
そう挨拶し、席を立とうとすると、彼は「少し外で待っていろ」と言い渡し、再び別室へと入っていった。
少しして出てきた彼が持っていたのは、一振りの剣であった。
刃渡りは30㎝ほど、ナイフというより短剣と呼んだ方が正確なものであった。特徴的なのはその純白の刀身と、龍の鱗のような意匠が凝らされた革の鞘であった。彼が促したためその短剣を握って軽く振ってみる。
今まで使っていたナイフより相当に大きいのに全く違和感はなく、とても軽く扱いやすかった。何より驚いたのはその切れ味だ。彼が差し出した2㎝ほどの厚みを持つ木の板に振るうと、なんの抵抗もなく真っ二つに立ち切れた。
どう見ても一介の村人が持つようなものではなく、まして辺境の村に住む14歳の小僧が持つものでは、どう考えてもあり得ない武器だった。
思わず彼に返そうと伸ばした僕の腕は、他ならぬ彼の手によって抑えられた。
「それはお前のものだ。そして、お前に必要なものなのだ」と、彼はそう言った。
実直な彼にふさわしく、単純で力強い言葉だった。そんな言葉に逆らう術はなく、僕は黙って頭を下げた。
僕が顔を上げた時には、そこにはもう彼の姿は無かった。
―――
彼女の家に戻ると、彼女もまた、彼と同じよう僕の顔を見て驚愕の表情を浮かべ、その瞳を潤ませた。
そこで気付く。まだぼんやりと靄が掛かったような状態で、はっきりとは見えなかったが、僕には彼女の顔が見えていたのだ。
彼女はフードなど被っておらず、到って普通の服装をしていた。
今まで彼女の顔を認識できなかったのもまた、例の影響なのだろうか。ならば、いずれは彼女の、恩人の顔も名前も分からぬこの状態から脱することも出来るのかと、そう考えると胸に抱いた小さな希望が、より大きく、強く光輝くように感じられた。
尚も感情を揺らしている彼女に、僕は告げた。
「旅に出たいと考えています。僕は、あなたに助けてもらった恩を忘れていません。だからこそ、僕は行かなければならないのです」
彼女は黙って頷いた。そしてこう話した。
「お前の気持ちは良く分かった。しかし、まだそれを許可するわけにはいかない。外は危険だ。せめて魔法の一つくらいは使えねば許可は出せない」
それはもう、半ば認められたようなものだった。いや、初めから認めてはいたのだろう。
そのために、二人は僕に生きる術を教えてくれていたのだ。いずれ来るこの時のために。
―――
それから半年ほど。彼女の教えを受け、いくつかの魔法と、そして自らの加護を知った僕はいよいよ旅立つこととなった。
ちなみに加護とは、人が生まれ持って与えられた特殊な能力のことだ。僕の場合は特殊なもので…まあ、いずれ詳しく検証する必要があるだろうが、とにかくあまり使えないものだった。
まずは村に立ち寄った行商人に同道し、近くの街へ行って冒険者を目指すこととなった。
旅立ちの時、彼女と彼は見送りに来てくれた。相変わらず、彼女の顔はぼんやりとしか見えなかったし、2人の正体も、名前すら思い出せないままだったけど、今はそれほど気にはならなかった。
いずれ思い出せるのだと、そう考えると自然と心も軽くなっていたからだ。もっとも、そのためには多くの魔物を狩り、その力を取り入れる必要があるのだが。
しかし、別段そうした使命感のみで旅に出たわけでもない。狭い村で暮らしていたから、外の成果への憧れもあったし、何より彼に振舞われたあの味が忘れられない。
世界には、あれほど美味なものが溢れているのかと思うと、自然と唾液がにじみ出てきた。
微かな不安と、様々な期待をもって、遂に僕は旅立ったのだったーーー
ようやく導入編終わりました。
書き直しが遅くなってすみません。当初1週間の予定でしたが、まだ半分も終わっていないという…
もはや完全に別物になっている気もしなくはないですが、大筋は変わらない予定ですので、変わらぬお付き合いをいただければ幸いです。