4話
それから彼の家に厄介になり数日が経った。厳密には、彼の家についた僕はそのまま気を失い、ずっと眠りこけていたのだそうだ。
目を覚ました僕は、すぐに起きようとしたが、うまく体が動かなった。体は鉛のように重く、少し動くだけで、泥の中を進むような強い抵抗感があった。
それでもどうにか体を起こし、ベッドの淵に座ったところで、彼が帰ってきた。
彼は一瞬目を見開き、感情を露わにしたが、すぐに平静を装うと、食欲はあるか、と尋ねた。
とてもそんな気分にはなれなかったが、何日も寝ていたので胃の中は空っぽであったし、喉は張り付くような違和感と共に強烈な渇きを訴えてきた。
自分でも驚くほどにしわがれた老人のような声で水が欲しいと伝えると、彼は黙って水を渡してくれた。
その水の入ったコップも酷く重かったが、やはり体は水を求めていたらしい。一度口に含むと、そのまま一気にコップを呷った。いきなり勢いよく飲んだので咽ることとなったが、それ以上に体の隅々まで水分が染み渡っていくような感覚が例えようもなく心地よかった。
さらに追加で水をもらい、都合3杯も飲んだところで、ようやくひと心地ついた。
未だぼんやりとした頭で現状把握に努めていると、徐々に倒れるまでの経緯を思い出してきた。
自分の求めていた答えを、しかし欲してはいなかったその答えを、他ならぬ彼女から告げられた。
そして、僕は…そう、逃げたのだ。彼女から。何より、自分の過去から。
知りたいなどと願っていながら、結局はその覚悟すら無かったのだ。
自分が独りであったこと、それにその記憶まで失っていたという事実。それほどの異常が重なって、何もない筈はないのに、どこかでそのように考えていた自分がいた。
実は両親はどこかで生きていて、いつか自分を迎えに来てくれるなんて、そんな能天気なことを考えていたのだろうか。自らの愚かさに、その滑稽さに呆れてしまう。
そうであれば、彼女が僕の自立を促すかのように技術や知識を仕込んだりすることは無かっただろう。
彼女の話が事実であれば、これまでの2年半はきっと、彼女にとっての贖罪なのだ。でなければ、このように自分の都合の良いように過ごせたことは、それこそあり得ないことだろう。
だが、それならそれで疑問も残る。何故、彼女はそんなことをしたのだろうか。そればかりは、直接彼女に尋ねるしかあるまい。いや、その彼女の覚悟を、僕が踏みにじってしまったのだ。
目覚めた僕がすべきことは、やはり話をすることなのだろう。
彼女や彼に謝罪し、そして話し合うしかないのだ。お互いについて話をして。
そうして、例え分かり合えなかったとしても、そのように努めるしか、きっと道はないのだろう。さもなければ、ここでそうしないのならば、僕と彼女らの道は二度と交わることはあるまい。
猛烈な自己嫌悪と、未だ消化しきれぬその事実を胸に抱き、
「行かなければ」と、そう呟き立ち上がろうとした僕を、いつの間にか近くに来ていた彼が手で制した。
彼は手に持った器を僕に差し出した。中には黄金色に輝く、具のないスープが入っていた。
今はそれどころではないと思いつつも、そのスープから漂う芳しい匂いを嗅ぐと、ふいに涙が込み上げていた。
その匂いは、そう、僕が目を覚ました時、初めて彼女が作ってくれたものにそっくりで。
その味も、また。すなわち、これは彼女の手で作られたものに、違いなかった。
それに気づくと、僕は夢中でスープを飲み干した。
その味が、香りが、何より脳裏に浮かぶ彼女の声が、僕の心に染みわたっていくのを強く感じた。
永遠のようであり、一瞬のようでもあったその時も終わり、今度こそ彼女に会いに行こうと、そう思った。
食器を置くと、僕は立ち上がった。今度は彼の手は出なかった。
彼は僕を見て、しかし何も言わなかった。
僕は彼の家を出て、そう遠くない目的地へと向け、走った。
きっと今でも僕を待っているだろう、彼女の元へと。
体には活力が溢れ、動かす足は軽かった。あれほど重く、鉛のような体は、今は羽のように軽かった。