1話
窓から差し込む柔らかな朝陽で、僕は目を覚ました。
すぐに起きるべきか、しかしもう少し寝ていたい。そんな益体の無いことを考えていると、勢いよく僕の体を覆っていた布団が剥ぎ取られた。
勢いよく剥ぎ取られた布団は、僕の体から拳一つ分ばかり離れた空中で静止し、そのまま窓の外へ飛んでいった。
僕の部屋には誰もいない。普通なら驚くことだと思うが、この不思議な現象も、毎日のことでは流石に慣れるというものだ。
もっとも、タネも仕掛けも分かりきっている現象を、不思議であると表現するのが正しいのかどうかは、意見が分かれるところだと思うけれど。
つまるところ、これは彼女なりの朝の挨拶といったところなのだ。
素直に声で伝えれば良いものを、このような方法を頑なに取りつづけるところに、彼女の底意地の悪さを感じないでもない。
しかし止めて欲しいなどと願ったところで無駄だろう。そんなことで考えを改めてくれるのなら、それこそ毎日こんな乱暴な手段で起こされることもあるまい。何よりこうしたやり取りや、僕を驚かせることを彼女は好んでいるらしいから、尚更たちが悪い。
ともあれ、僕に選択肢が無いことは明らかだった。未だ肌寒さの残る春の朝、それに今は夜が明けたばかりの時間なのだ。布団もなくそうそう寝られるものではない。
次なる彼女の悪戯がある前に、俺は身支度を整え、食堂へと向かった。
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食堂に着くと、予想通り彼女はすでに食卓に着いていた。相変わらず、家の中だというのに目元まですっぽりと覆い隠すフードを目深に被っていて、彼女の表情は伺い知れない。
いや、そもそも彼女の素顔を見たことなど一度もないのだから、これも別に驚くことではない。同居人の顔も、名前すら知らないという異常な状況も、慣れてしまえば何ということもない。
普通は拘るところなのかも知れないが、僕は普通の人間の感性とは違うらしい。
それというのも、僕はとある奇妙な体験をしており、それに由来する。
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『僕』は、今から3年前に初めて目を覚ましたのだ。
いや、これでは説明不足か。別に僕が言葉を解する超早熟な3歳児というわけでも、前世の記憶をもった特異な人間という訳でもない。
確かに僕はこの辺境の村で産まれて、およそ15年もの歳月を過ごしていたようだけど、僕にはその記憶がまるで無いのだ。
厳密には、記憶の欠片のようなものは、ある。それこそ必死に思いだそうとすれば、子供の頃と思しき自分や、その暮らしぶりなどもおぼろげには思い出せる。
ただ、それらの殆どは自分の記憶というより、誰かの見た光景、といった方がしっくりとくるのだ。空高く、とは言わないまでも、子供の視界ではまずないだろう位置からの情報だった。未だに不思議に思うことも多いが、あまりに深く思い起こそうとすると、鈍い頭痛がはしるのだ。厄介なことにどんどん強くなってくるから、大した情報は得られないまま、今を迎えているのだった。
3年前、目を覚ました僕の周りには誰も居なかった。
別に物理的にそうであった訳ではない。狭い村だから、家から一歩出れば大抵の近所の住民や無邪気に遊ぶ子供達を見かける。
そうではなく、僕には、およそ肉親や親族と呼べる人が存在しなかったのだ。さらに言うと、特に近所の大人に世話になっていた訳ではないようだった。
ではどうやって若干12歳の子供が、いや、子供が12歳まで暮らせていたのだろうか。
これについては良く分からない。俺はもちろん、村の誰もが何一つ知らなかったのだ。普通に考えると、相当に異様なことだろう。
ろくに働けるわけでもない子供が一人でどうやって暮らしていたのか。採取を行って生きていた?確かに山に入れば食べられるものを見つけることも出来るだろう。だが、仮にそうだとしても、ろくに走れもしない子供が山に入るなど自殺行為だ。山には危険な獣だっている。
なら十分な資産があった?いやいや、それならそれで、周囲の人々が気付かない訳はないだろう。それに、仮にお金があったとしても、村にはお金を使える場所もない。
ひと月に一度ほど訪れる行商人のおじさんがその唯一の機会だが、そもそもこの村では貨幣が使われていない。厳密にいうと無いわけではないが、使う機会がないのだ。事実、行商人とのやり取りだって、ほとんどが物々交換だ。
それにそもそも、いくら子供一人暮らしだといっても、一度の機会でひと月分の物資を集めようとすればそれなりの量になる。誰にも気づかれずには不可能だろう。
ともあれ、そんな異様ともいえる状況にあって、僕はおろか、村のすべての人間が『そういうもの』だと納得してしまっているのだ。いや、『彼女』を除いて、全員か。
彼女は、村の外れに居を構える占い師であった。さらには薬学の知識も備えているらしく、村人からは薬師として扱われていた。彼女はよく「占いが本業なのに何故薬ばかり…」と愚痴っているが、仕方ないだろうと思う。
占いで腹は膨れないし、病も傷も治ることはない。価値がないとは言わないが、必死に働いて、ようやく細やかながらも安定した暮らしを持てる辺境の村人達には、まさしく無用の長物だろう。
そんな彼女は今では僕の唯一の家族であり、恩人だ。
実は僕が3年前に目覚めたその日から今まで、彼女の家で世話になっている。目覚めた僕にも自宅らしきものはあったが、同然誰もおらず、記憶を呼び起こすきっかけになるものすら、何もなかった。
どうすればよいのかと途方に暮れていた時、彼女が声を掛けてきたのだ。
「行く当てがないならウチにおいで。きちんと働いてはもらうけどね」と。
まさしく渡りに船で、断る理由もない。それからは、彼女と共に暮らすことになったのだ。
村人からの話を聞く限り、彼女はもう老齢といっても差し支えない年齢であり、あまり動いている姿を見かけたことがない。
魔法についてはかなりの腕前のようだが、それで何だって出来る訳ではない。
初めの言葉通り、家事や、彼女の仕事を手伝って、それから一年の時が経った。