14話
一体何事かと音の発生源へと目を向けると、ユルゲンが額に青筋を浮かべて体を震わせていた。見ると、右足だけが半歩ほど前に出た形になっており、その右足の下の床が見て分かるほどに凹んでいた。
おそらく先ほどの現象はユルゲンが床を踏み鳴らしたものなのだろう。音はともかく、建物ごと揺れたかと思うほどの衝撃と、その窪んだ床板を思い出すと、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
そして、僕が伏せていた顔を上げたのとほぼ同時、笑顔で額に青筋を浮かべたままの彼が叫んだ。
「挨拶っ!!」
「ひゃっ!」
「すみません!」
部屋中に響き渡るその怒声に、少女は短く悲鳴を挙げ、僕は即座に謝罪することとなった。
その後、未だゆるまぬ彼の表情をみて、僕と、もう一人の少女―イヴというらしい。が、簡単に挨拶を済ませると、ユルゲンは満足したのか大きく頷き、比較的爽やかな…とっても子供なら泣いて逃げ出す程度には強面の彼のことなので、見るものの心をざわつかせるような笑顔を浮かべていた。
「良しとしましょう。そのような反応をされるのは初めてではありませんし、釈然としないものはありますが、まあ構いません。ただ挨拶を疎かにするのは感心できませんね。いいですか、そもそも礼儀がなってない人間には碌な人がいません。冒険者とてそれは同じことです。確かに冒険者には教養の無い人がなることも少なくはありませんが、それでも上にいく人たちはしっかりしています。まずは敬いなさい。そして感謝するのです。人との出会いに、そして魔物にも」
「魔物にも、ですか?」
「ええ、そうです。確かに彼らは人々を傷づける存在です。ゆえに討伐されても仕方がない。それは別に間違ったことであるとは言いませんが、どのような理由があっても、人間が他者の命を奪うことは、当たり前のことではないのです。それに慣れてしまえば、きっと私たちはもう、人ではない何かになってしまうのだと、私は考えています」
正直に言うと、僕はユルゲンのその言葉の意味を、あまりはっきりとは理解できなかった。内容はもちろん分かったが、納得は出来なかったのだ。それでも、彼の言葉には重みがあった。それは彼の経験が物語るものであったのかも知れないし、別の要因があるのかも知れなかったが、言い知れぬ重みを感じた僕は、思わず頷いていた。少女もまた、同じだった。
ユルゲンが一度手を叩くと、妙な空気を振り払うように一際明るい声で話し始めた。
「では気を取り直して、講習を始めましょう。何か質問があれば挙手してからお願いします」
―――
本性(自称)だという、その柔らかな物腰や言葉遣いから分かるように、ユルゲンは見た目にそぐわず理知的で、話し方もとても分かりやすかった。時折僕がした質問にもわかりやすく答えてくれており、案外こういったことに慣れているかもしれないと思った。
内容については、冒険者に必要な基本知識、ギルドについて、そしてこの講習の必要性が主であった。
冒険者ギルドの役割はその名の通り、冒険者に必要な情報の収集・共有や、パーティ結成の補助、クエストの斡旋などが主な役割だ。
その他、簡単な食事や宿泊についても可能となっている支部が多い。ただ宿泊については格安である代わりに、碌に稼げない新人や、怪我等で稼ぎの無い冒険者に対する救済制度でもあるらしい。
ある程度稼げる者はすぐに定宿などに移るし、そもそも街で満足に生活出来ないほど稼ぎが少ないのであれば、冒険者の適性が無いという証明でもある。
そのため、明確な期限が定められている訳ではないのだが、ギルドの宿泊設備を利用するのは長くても3ヶ月程度とのことだった。
クエストについては、一度ギルドで精査してから受注が可能になるので、明らかに達成不可能なクエストを受けることは基本的に不可能なのだそうだ。
また、クエストで必要な物品は貸し出しも可能であるし、失敗しても成果に応じて一定の金額が支払われるなど、ギルド側からの補助もあるらしい。
ただ、一部にはギルドを通さず、個人間で依頼を受けるものも多いらしい。
当然そうしたケースでは様々なトラブルが発生することがあるため受けないように、と彼にしては珍しく、声を荒げて話していたのが印象的であった。
また、このアベルの街のギルドでは、極端に強力な有名冒険者などは所属していない代わり、そうした新人育成に力を入れている支部だということも説明された。
もっともそれは、初めからそうであった訳ではなく、このアベルが擁するダンジョンが初心者向けの難度が低いものであることや、勇者アベルにあやかって名を上げたい新人が多く集まるため、自然とそうした方向に特化したというのが実情であるらしい。
中でも珍しいのが、新人育成のための制度がギルド主導で強引に行われていることのようだ。
新人冒険者が初めてのクエストで死亡する、あるいは取り返しのつかないミスや怪我をすることは、それなりにあるらしい。
そのため、初めの数回は熟練の冒険者が付き添うよう推奨されているのだが、それは現実的ではない。
別に一定の経験を積んだ冒険者がすべて悪辣な人間ばかりだという話ではなく、単純に儲からないからだだ。
無論、依頼主はギルドなので報酬は出るが、その報酬は微々たるものだし、あるいは依頼を断る罰則--つまり罰金を支払っても尚、普段の仕事の方が稼ぎの良い冒険者も少なくはないとのこと。
何より、冒険者ギルドとしてもある程度腕の立つ冒険者には自分の支部に長く所属して欲しいので、あくまで「お願い」という形に留まるという裏事情もある。
それがアベルでは強制化されている。それはつまり、それでもギルドが正常に運営出来ているということだ。
型破りなものが多い冒険者にあって、貴重な存在--実力があり、面倒見の良い冒険者が少なからず所属しているという証明でもある。
そこまで聞いてようやくわかった。妙に高く感じた登録時の手数料はそのために使われるのかと。
いや、実際のところ他の街のギルド事情など今の僕には知る術もないので、本当にそれほど高いのかは分からないのだけど。
そうしてユルゲンからの話は終わり、本日の講習は終了となり、解散の運びとなった。
ただしこれで講習が終わりという訳ではない。明日、実際にユルゲンと共にダンジョンへと潜り、一定の実力を示すことが出来れば、それでようやく一人でクエストを受ける権利が得られるのだ。
まだ見ぬダンジョン、そして冒険への期待を胸に、僕は帰路についた。