(19)たゆたう
猫の日ショートショート。エブリスタさんにも投稿しています。
夏が来るとあの黒猫を思い出す。
わたしの一回きりの、たいしたことない霊体験。
その日、祖父母と両親は、朝から出かけていた。
家に残ったのは、高校生の兄と、中学生のわたしだけ。
わたしと兄は、お昼ご飯にカレーライスを作ることにした。大人が慌ただしくしている日は、料理をすると喜ばれる。
カレールウがなかったので、わたしが買い出しに。日焼け止めを塗って、サンダルを履いた。
田舎町だから近くにコンビニなんてない。カレールウは、二キロ先の古い雑貨屋まで行かないと、買えない。
外は暑かった。錆びた標識。色褪せたポスター。軽トラックの排気ガスと、空き地にしげる草の匂いが混じり、私の鼻をかすめる。
陽炎がゆらぐ坂をのぼるうち、汗が流れた。
お兄ちゃんは家で料理なんてズルいなぁ、と、思った。
疲れたわたしは、雑貨屋でカレールウのほかに、バニラのアイスキャンデーを買った。お店を出てすぐ、歩き食い。
半分ほど食べたところで、上から鳴き声がした。ニャーオ。
視線をあげると、古いブロック塀の上に、黒猫がいた。太陽がまぶしくて見えづらい。
ニャーオ、ナーオ。
アイスがほしいのか、黒猫は甘えた声を出していた。
「だめ、だめ。猫にアイスは毒だよ」
人間の甘いものは動物に与えてはいけない。わたしはアイスを背中に隠し、黒猫に向かって、しっしっと手を振った。手が逆光で陰る。
猫はそんなのお構いなし。たっと塀から降りてきて、わたしの足もとに来た。
「え」
思考が止まった。溶けたアイスキャンデーが、したたり落ちた。
くるぶしが、急にひんやりしたから。冷たい水をかけられたみたいに。……夏の黒猫は、こんな体温じゃないはずだ。
下を見ると――黒猫の体は、わたしの足をすり抜けていた。バニラのしずくも日の光も、猫の体を無視して地面に落ちている――。
黒い毛並みが不気味に思えた。
わたしは声にならない叫びをあげ、道を駆けだした。
甘え声を出していた黒猫は、態度を変えた。金の目を見開いて追ってきた。いや。たすけて。そんな言葉が口に出た。
動揺したわたしは、歩道の亀裂に足をとられた。バニラアイスが宙を舞う。
わたしがこけようという瞬間、黒猫はわたしの体を、猛スピードですりぬけていった。黒猫はわたしもアイスも無視して、ある獲物に向かっていた。
わたしは膝を押さえながら起きあがり、猫が飛びかかっている生き物を見た。
蛇だ。ずんぐりとした体形の、赤茶色の蛇。
黒猫は俊敏な動きで、蛇の頭に噛みついた……正確には、噛みつこうとした。
猫の鋭い牙、長い爪、どちらも蛇の体を通らない。この世の者でない黒猫は、蛇にさわれないようだった。
だけれど赤茶色の蛇は、身をくねらせ、遠くに這っていった。黒猫の攻撃は痛くなくとも、冷たくて、いやだったのだろう。
残った黒猫は、未練がましく鳴いた。そして、陽炎のように揺らいで消えた。
わたしはしばらく座り込んでいたが、草むらに「マムシ注意」という看板があったので、さっと立ちあがった。看板に描かれたマムシの絵は、さっきの蛇とそっくりだった。
家に帰ると、兄にとても心配された。その足のけがはどうしたかと。
わたしはまず、買ってきたカレールウを、兄に手渡した。
わたしは兄にすり傷の手当てをされながら、ありのままを話した。
マムシと、おばけの黒猫を見た、と。
兄は薬箱を棚に戻しながら「へえ」と。気のない返事をした。
「ほんとに見たの。あれはきっと、幽霊猫か化け猫よ。すごい顔でマムシに襲いかかっていたんだから」
捕まえられなかったけど。
「その黒猫、お前になにかしたの」
「……黒猫のせいでマムシに会った……。ううん。マムシから、助けてもらったかも」
「ならよかった」
その黒猫は幸運を呼ぶ猫か、ただの猫だよ。兄はそう笑った。
悪いものじゃないなら、もう一度あの黒猫に会いたかった。
だってせっかくのオカルトだ。怖がらずに観察したい。「霊が見える」とまわりに自慢したい。
こういうよこしまな心がいけないのか。マムシが出ないよう道が整備されたからか。
中学生の夏以来、あの黒猫を見ることはなかった。
ただバニラアイスを食べているときは、くるぶしが冷えて、猫の気配を感じた。
今年も夏が来る。
わたしは子供のころに会った、あの黒猫を思い出す。
主人公の少女は羽海といい、以前に書いた短編に端役として登場しています。
『ぼくの怖い話』
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