闇色に染まる世界(1)
「助けて……ラグナ……」
その声は小さいけれど、ハッキリと聞こえた。
何年、何百年ぶりだろうか。
ゆっくりと目を開く。
視界に入る世界はいつもと変わらない。
暗黒の世界だ。
けれど、周りの世界は……闇色の世界の周りは、確実に変わっていたようだ。
ゆっくりと首を動かす。
誰かが呼んでいる。
誰も知らないはずであろう名を呼んでいる。
まるで、絶望を知ってしまったかのような……悲痛な声で呼んでいる。
その誰かは分からない。
けれど、その声は酷く心地良くて。
でも、その声が絶望に染まっていることに酷く憤りを覚えて。
長い、永い時の中で……久しく感じることのなかった愛しさと、怒りを抱えながら。
彼はゆっくりと動き出した。
*****
ダンスパーティーから早くも二日。
ミュゼはほぼ監禁状態で屋敷にいた。
ダンスパーティーは年の暮れにやるものなので、それが終わると実家に帰省する人が多いのだ。
学園関係者のみのダンスパーティーであったとはいえ、ミュゼは婚約破棄を申し込む……という大問題を起こしてしまった。
このような待遇も仕方ないのだ。
ベッドの上で横になりながら、ミュゼの顔は苦悩に満ちていた。
目を閉じれば何度も何度も殺される光景が蘇る。
病気などで死ぬのは我慢できる。
しかし、一応は愛していた人に殺されるのは……彼女の心に消えない闇を落とした。
今回はまだ殺されていない。
だが、いつ殺される?
いつ死んでしまう?
「…………」
悩んでもどうにもできない。
ミュゼは目を開けて起き上がると、痛む頭を押さえた。
今の現状から死亡ルートを回避しなくてはならない。
できる気がしないけれど、もう死ぬのは嫌だ。
一番、手っ取り早いのは婚約破棄なのだが……それはできそうにない。
この世界は基本的に一夫一妻制だ。
しかし、貴族はお妾を作ることは少なくない。
アルフレッドがミュゼと夫婦になろうとそこに愛はなく、ただ義務的な政治的なものになる。
彼はアリシエラと愛を深め、子を作り、幸せな日々を過ごすのだろう。
ミュゼの家も公爵家もそれを認めてしまっている。
両家は何も言っていないが、それを裏づけるのは、この監禁とアルフレッドとアリシエラの関係を邪魔していないことだ。
「…………」
視界が歪む。
脳裏に浮かぶのは夜のような漆黒と、鮮やかな黄金色。
「ふふっ……今回は会っていないのに、ね。貴方に助けて欲しいなんて……思ってしまうなんて」
彼と出会ったのは四回目のミュゼが死ぬ少し前だった。
邪竜教に監禁されていた時、出会ったモノ。
この味方のいない世界で唯一優しかった。
この世界で、唯一、死ぬなと言ってくれた優しい存在。
「今回は…会えるかな……」
毎回違う結末を迎えるのだから…今回は出会えないかもしれない。
それでも、ただ、何も言わず自分の側にいてくれた彼に……出会えたら。
きっと記憶のない彼は、自分のことは分からないだろうけれど……一目でも会えたら。
「少しは、死ぬのが怖くなくなるかな……」
涙が溢れる。
死ぬのが怖い。
けれど、自分で死んで逃げようとするのはもっと怖い。
だから、彼女は何もできないことに涙を零す。
「ラグナ…ラグナ……怖いよ……」
震える身体を抱き締めて、どれだけそうしていただろうか。
扉を静かにノックされた音で、ミュゼは顔を上げた。
「………誰…?」
『お嬢様。アルフレッド様がお見えです』
ひゅうっ。
声にならない悲鳴を堪えて、喉が鳴る。
メイドの言葉を聞いて、ミュゼは口を押さえた。
さっきとは比べようにないほどに身体が震えていた。
声が怯えないように、努めて普通のフリをして答えた。
「……ごめんなさい…体調が、悪いの」
『ですが……』
「お願い、どうか……」
『……いえ。それは叶いません』
メイドの言葉は断言していて。
彼女は顔を歪ませた。
「………何故…?」
『監禁されているお嬢様に会いに来たのですから、アルフレッド様は旦那様を通しております。この面会は旦那様の許可の上に成り立ちます』
「………つまり…お父様が、アルフレッド様に会えと言っている、のね……?」
『はい』
返事をするよりも先に扉が開けられた。
ぞろぞろと入って来たメイドは直ぐにミュゼの身支度にかかる。
一応は断りを入れたのだろうけれど、そうやって勝手にやるのだから……最初から聞かなければ良いのに、と思わずにいられない。
拒否権など、初めからなかったのだ。
淡い紫のドレスを着せられて、髪を結われたミュゼはメイドに案内されてサロンに来た。
柔らかな日差しが差し込むその場所で、アンティークのソファに座ったアルフレッドがこちらに気づく。
彼の後ろには一人の男が立っていた。
「っっ……⁉︎」
朝日のような髪と瞳を持つ彼の姿に見覚えがあって、ミュゼは硬直した。
いや、忘れようがない。
二回目の人生で、彼女の命を終わらせた人。
アリシエラを崇拝していた騎士候補その人だったのだから。
二人の目は憎しみに染まっていて、ミュゼは胃酸が戻ってきそうなほどの吐き気を感じる。
「随分と遅かったな」
「………申し訳…ありません……」
恐怖で頭がおかしくなりそうだ。
寒い季節ではあるけれど、それとは違った寒さを感じて身体が震える。
それはそうだろう。
自分を殺した男が二人もいるのだ。
おかしくならない方が、おかしい。
ミュゼは言うことを聞かない身体を叱咤し、向かいのソファに座った。
「………後ろの、方は……」
「わたしの友人兼護衛だ。騎士科に通う騎士候補であるが……優秀ゆえに雇っている」
「ジャン・ビィスタです。お見知り置きを」
「……ミュゼ・シェノア……です。よろしく、お願い致します……」
微笑むジャンの目は一切笑っていなくて。
ミュゼはぎこちない笑みを返す。
「………ご用件は、なんでしょうか」
彼と目を合わせているのが辛くて、ミュゼは早々に聞いた。
しかし、その瞬間……アルフレッドの顔は激怒に染まる。
「………お前に、文句を言いにきた」
「……文句、ですか…」
アルフレッドは二人の間にあるテーブルをガンッ‼︎と叩きつけた。
「お前の所為でアリシエラが泣いたんだ」
寝耳に水、というのはまさにこのことだろう。
唐突な言葉に、ミュゼは理解できずに呆然とする。
「…………え…?」
「お前が酷いことを言ったから‼︎アリシエラが泣いたんだっ‼︎」
意味が分からなかった。
いつ、酷いことなんて。
「お前が……あのダンスパーティーで言った言葉……それがどれだけアリシエラを傷つけたと思っているっ‼︎」
傷ついたのはこちらなのに。
〝ミュゼが妻となり、アリシエラこそが正妻として相応しい〟と陰口を言われる。
ただ、考えなくてもそうなるであろう未来のことを言っただけだ。
それで何故、アリシエラが傷つくのだ。
「………何故…アリシエラ様は傷ついたの、ですか?」
「分からないのかっ‼︎」
「………分かり、ません……」
「お前っ……‼︎」
ドンッ‼︎
ミュゼの右腕に、剣が切り傷を作った。
ソファにジャンが腰に帯刀していた剣が刺さっていた。
静かに流れる血を見て、ミュゼは悲鳴をあげた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ⁉︎」
「お嬢様っ……⁉︎」
錯乱状態に陥ったミュゼの元に、側に控えていたメイドが慌てて駆け寄ってくる。
何度も何度も身体を揺すられるが、ミュゼは頭を抱えていた。
思い出すのはあの日、この騎士候補に殺された記憶。
腕を、足を、次々と切り落とされて……最後は心臓を突かれた。
痛かった。
怖かった。
今もまた、この男に剣を向けられている。
「ジャン……⁉︎」
アルフレッドもそのような行動は予想していなかったのだろう。
驚いた声をあげて狼狽していた。
しかし、ジャンはどこ吹く風で飄々としていた。
ミュゼを見る目は侮蔑と殺意と、怒気に染まっていて。
でも、その顔は貼りついた仮面のように笑っていた。
「反省していないようなので。少しお灸を添えただけです」
「だがっ……」
「別に殺していないのだし、大丈夫でしょう」
なんで、そんなことを言えるのだろうか?
なんで、初対面の男にいきなり剣を向けられなくてはいけないのだろうか?
なんで……自分の周りにいる人達はこんなにもおかしいのだろうか?
ミュゼは錯乱する思考の中で空を見上げる。
もう分からない。
嫌だ、苦しい。
助けて欲しい。
静かに涙が溢れる。
「もう、嫌だ……助けて…ラグナ……」
その呟きと共に、世界は闇色に染まったー……。