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「助かります!」と言った手前、イロハさんは当然のように浴場へと着いてきた。
「アリスお嬢様。滑りますので足元のはお気を付けください」
「はい。気をつけます」
浴場への扉を開けると、背中から注意を呼び掛けられた。
転ばない様に気をつけないと。また以前の時のように転んだら忍びない。
イロハさんは俺に続く形で後ろを歩いている。
そのお陰で裸は見ずにすんでいるのが幸いだ。
なので俺は振り返らず、足元へと視線を向けながら答えた。
「…………よし!」
今日は無いみたいですね……、ほっ。
足元に石鹸が落ちてないことを確認して俺は安堵する。
これで変な事は起こりようがない。起こりようがないはず!
……けど、念のため細心の注意を払って歩く。
油断禁物だ! 石鹸が無くても滑ることはあるかもしれない。
「アリスお嬢様。そのようにゆっくりと歩かれなくても――」
「いえ! 以前の時のようにご迷惑をお掛けするわけにはいかないので!」
以前の時。それすなわちイロハさんのお尻を鷲掴みしてしまった過去を指す――。
あの時は不注意でとんでもないことをしてしまった。
だから、もうあんなことをするわけにはいかない。
「…………」
注意は絶対にしないと!
じゃないとまた気絶する!
気を緩めない様に意識を足元へと集中させる。
それを見てか、イロハさんは俺の隣へとやってきた。
「アリスお嬢様、お手を」
言いながら、イロハさんは手を差し出してきた。
掴めということだろうか?
浴場でなければ、裸の恰好でなければ、何も疑問を覚えなかった。
けれどもここは『浴場』そしてイロハさんは『裸』だ。
正直、抵抗を覚える。やらしいことをしている気分?
とにかく、なんだか触れちゃいけない気がした。
結果、俺は差し出された手をじっと眺める。
どうしていいのかわからなかったからだ。
「どうかされましたか? お手を握ってもらえれば安心だと思われますが」
「そ、そうだとは思いますが……」
「でしたらお握りになってください。――いえ、握らせてもらいますね」
言って、イロハさんは俺の手をとった。
ひゃぁ! 肌が触れて!?
手のひら越しに、柔らかさと温かさが伝わってくる。
「い、イロハさん!?」
「それでは向かいましょう。お身体をお流ししますので」
イロハさんは、狼狽する俺を気にせず洗い場へと歩いていく。
手を引かれているので、自然と足が一緒に向かった。
ちなみに走ってるわけじゃないから危なげは感じなかった。
多分、そこらへんは配慮してくれているのだろう。
けど、なんだか強引……。 気のせいかな?
などと思っていると洗い場前。
「こちらへお座り下さい」
「は、はい」
◇◇◇
「痒いところはございませんか?」
「はい……、大丈夫です……」
頭を洗ってもらいながら、今更ながらに思う。
イロハさんと二人っきりは初めてだ。
「そういえば……、イロハさんと二人っきりなのは初めてですね……」
「言われれば、そうですね」
「はい……、なので不思議な感じがします……。その……いつもと違うというか……」
イロハさんは基本的にイノリお姉ちゃんと行動を共にすることが多い。
そのせいか、今までこうして二人っきりで会話をする機会が無かった。
だからかな? なんだか新鮮な気分だ。
「おかしいですよね……? いつも顔を合わせているのに……」
「いえ、お気持ちは何となくですがわかります。普段はこうした機会がないですからね。私も少し不思議な気分かもしれません」
「イロハさんもですか……?」
「はい。私もです」
次第、互いに笑みが零れる。なんだか少し楽しいかも。
こうしていると色々しゃべってみたくなる。
そうだ! あのことを聞こう!
「イロハさん……」
「いかがなさいましたか?」
泡が目に入りましたか? と心配して聞いてくる。
そっちにとられてしまったか。
「いえ……、今日の食事はイロハさんが用意してくれたんですよね……?」
「はい、私がご用意いたしましたが……何かございましたでしょうか?」
髪をすく手が僅かに止まった。
訊ねる声音には不安が僅かに混じっているように思える。
どうやら責め立てるように聞こえてしまったらしい。
「何もありませんでしたよ……、普段通りとてもおいしかったです……」
「そうでしたか……、安心いたしました。お褒めに預かり恐悦至極です」
お流ししますね。と髪がお湯で流される。
そして、今度は背中へと手が伸びた。
「今度はお身体を」
「お願いします」
頭の泡もとれて口元が楽になる。
続き続き。
「それで、続きなんですけど」
「続き、ですか?」
「はい、どうやって食事の準備をしたのかなーって思いまして――」
俺は疑問の経緯を説明していく。
それを聞いて、イロハさんは「なるほど」と声を零した。
「質問の意図がわかりました。――クロハとは顔を合わせましからね。その時にお戻りになられたことを知りまして準備をいたしました」
「なるほど! そうだったんですね!」
クロハさんと会っていて事前に聞いていたから準備が出来た訳か。
イノリお姉ちゃんに会いに行ってる間にクロハさんと会っていたのなら全て説明が付く。
これ以上なく納得だ! 謎がとけてすっきり!
などと思っていると、身体の泡が流された。
心身ともにすっきり! 気分が良かった。
「終わりました。――それでは湯船に入りましょうか」
「はい!」
再び手を引かれて、湯船に浸かる。
「温度は大丈夫でしょうか?」
「? はい、大丈夫ですよ」
「でしたら、なによりです」
「……?」
怪訝な顔を浮かべる俺に、イロハさんは柔らかに笑う。
なんで笑って……? まあいいか。
温かさに包まれ、長閑な時間が流れる。
そして適度な会話のお陰か、意識せず――のぼせることはなかった。




