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「――さま、アリスお嬢様」
「んぅ……」
呼びかける声に瞼を擦りながら見上げるとお屋敷の前だった。
もう着いたのか……。て当然か、寝ていたわけだし……。
「お目覚めになりましたか?」
「……はい。もうすっかり暗いですね」
視線の先に見えた空が黒曜色になっていた。
窓辺からのぞく明かりが眩しい。どうやら移動中に太陽は沈んでいたようだ。
「申し訳ございません」
「? なんで謝るんですか?」
唐突だったので俺は呆気にとられながら訊ねる。
俺が眠っている間の道中で何かあったのだろうか?
「いえ、その……、馬車をゆっくりと走らせたものですからご帰宅の時間が遅くなってしまいました。まことに申し訳ありません」
と述べ、クロハさんは頭を下げてくる。ん? これって……。
どうやら『もうすっかり暗いですね』が責め立てるようなニュアンスに聞こえたらしい。寝起きだったからもしかしたら語勢が強かったのかもしれないな。
けれども俺にクロハさんを責め立てるような意図はない。むしろ眠っている俺を気遣ってあえてゆっくりと馬車を進めてくれていたのだろう。感謝こそすれ、怒るだなんてお門違いだ。
なので、俺はすぐに誤解を解くため慌てて否定した。
「ち、違いますよクロハさん! 私はただ、起きたら空が暗くなっているなー、と思っただけで他意はないです! むしろゆっくりと馬車を進めてくれてありがとうございます! お陰でぐっすり眠れました! 本当に感謝です!」
俺は勢い任せに言葉を続ける。
ちゃんと伝わっただろうか……? 変な事とか言ってないといいけど。
思ったことをそのまま口に出したので少し不安だった。
けどその不安も杞憂だったようで、クロハさんは頭を上げてくれた。
「……お心遣いに感謝します。そう言って頂けると幸いです」
「本当に本心ですよ! 本当に感謝しています!」
お心遣い、という言葉に反応して、俺は更に畳みかける。
飾り気ない本心からの言葉だ。決して擁護する意図はない。
それをクロハさんもちゃんとわかっていたようで、声音が少し柔らかくなってくれた。
「はい、お気持ちは十分伝わりました。ありがとうございます、アリスお嬢様」
「誤解が解けて何よりです! ――それよりお屋敷の中に入りましょうか。いつまでも外にいるのもあれですし」
「そうですね。では私は馬車を戻して参りますので、アリスお嬢様は先にお屋敷へ入られてください」
「分かりました。先に入っていますね」
とりあえず俺は馬車から降りる。
それを確認してクロハさんが、
「はい、それでは失礼します」
と、立ち去るのを見届けて、お屋敷の中へと入っていった。
◇◇◇
「ただいま戻りました」
「おかえりなんだよ! ご主人様ー!」
扉を開けるなり、ラビが俺に抱き着いてきた。
完全に不意打ちだ。な、なんで扉の前に居るんですか!?
勢いよく抱き着いてきたものだから数歩後ろに後ずさってしまった。
そのままの勢いで尻もちをつかなかったのは不幸中の幸いだ……。
押し倒されていたら目も当てられない光景になっていただろう。(いかがわしい意味で)
なんてことを考えながらラビを引きはがそうとしていると、もう一つ『おかえり』が聞こえてきた。
「アリスお嬢様ー! おかえりー!」
「シロハさん~、居るんだったら止めてくださいよ~」
声の主はシロハさんだった。
抱き着くラビを見て、「あはは」と楽しそうな笑みを浮かべている。
笑ってる場合じゃないですよ! 助けてください!
「シロハさん~!」
「ラビ。楽しみにしていたのは分かるけど、アリスお嬢様が困ってるよー!」
「ご主人様ー! ご主人様ー! ――む、わかったんだよ」
シロハさんが一言言うなりラビは大人しく引き下がった。
え? あのラビが素直に言う事を聞いてる!?
俺は物理的にシロハさんから助けてもらうつもりだった。
抱き着くラビをシロハさんが抱えて引っ剝がす。
そんな光景を頭に浮かべていた。
しかし、実際にそんなことは起きなかった。
言葉での抑止で、一言注意しただけで、あのラビが大人しく言う事を聞いた。
正直信じられない……。あのラビがだよ!?
「ラビ……。私が居ない間に、変な物でも食べましたか?」
「? 別に食べていないんだよ? 普通に超絶美味しいご飯だったんだよ。――あっ! 今日の夕食のコーンスープはラビが作ったから是非食べて欲しいんだよ!」
「そ、そうですか。後でいただきます……」
「ちゃんと食べてくれるってー! よかったねー! ラビ!」
「うん!」
どうやら変な物を食べておかしくなった訳じゃないらしい。
それにしても二人が前にも増して仲良くなってる気がする……。
俺が居ない間に一体何があったんだ?
ともかく、いつまでも扉の前に居るのも変だ。移動しよう。
「えーっと、私はイノリお姉ちゃんに帰ってきたことを伝えに行きますね?」
「それだったらラビも一緒に行くんだよ!」
「え? ラビも? ラビは別に行く必要はないんじゃ――」
「だったらシロハも行くー!」
「みんなで行くんだよ!」
「え、ええー……、まあ、構わないですけど」
なんだか変な流れになってしまった。
別にみんなで押しかけなくてもいいのに……。
「よし! じゃあイノリお嬢様のお部屋に突撃だー!」
「おー! なんだよ!」
イノリお姉ちゃんが迷惑がらないといいけど……。
そう思いながら、俺はトボトボと二人の背中へと続いた。




