セリヌンティウスは走らない
「遅い! 遅すぎる! 八上のやつはどうしたの」
苛立ち紛れに手に握った木刀の切先を地面に叩きつけて乗竹希は、いまだに姿を現さぬ宿敵への怒りをぶちまけた。肩口まで伸びた黒髪の彼女の色白い手には不似合いな木刀が握られている。不似合いとはいえ、彼女は剣道の有段者である。
そして、私――高倉光一も静かに激怒していた。私はどこにでもいるような一介の高校生である。無難に授業をこなし、友人と馬鹿話をしたり買い食いをしたりして平穏無事な日々を過ごしてきた。ゆえ、この平和で生温い生活がずっと続くものと考えていた。
今日の授業を終えた私は、部活動に向かう友人たちを見送り、帰宅の途につこうとしていた。グラウンドを無駄に走り回る野球部や色気のないジャージでラリーを続ける女子テニス部を横目にぶらぶら歩いて自転車置き場へ向かう。私には竹馬の友がいる。八上染一郎である。
彼は希代の破廉恥野郎であり、北に無口系美少女がいると聞けば口説きに走り、南に天然巨乳がいると聞けば手をにぎにぎしながら駆け出した。その節操なさは私達の通う四乃山高校の留まらず、近隣にある複数の高校まで聞こえるほどである。その友が久々に一緒に帰ろう、と行ってきたことに私は多少驚いたものの「よかろう」と応えた。女の尻ばかり追い回す彼に小言の一つでも言ってやらねばと前々より思っていたためである。恋人ができたこともない私と恋人から愛人まで幅広く取り揃える八上では差がありすぎる、と言えなくはないがきちんと伝えることは伝えなければならない。学校からの帰り道ならば三十分ほどはみっちりと苦言を呈すことができるに違いない。
彼が待つ自転車置き場に近づくと私は周囲の様子を怪しく思った。静かなのである。本来ならば帰宅する生徒がわいわいと騒がしく帰り支度をしている自転車置き場だというのに今日はなにやらひっそりとしており、妙な暗さを感じる。無論、夕暮れが迫っているというのも暗さの原因であろうが、そういう物理的な暗さとは違う別の暗さがここにはあった。
のんきな私も流石に不安になった。阿呆のように口を半開きにしている学生を捕まえると私は「何があった?」、と尋ねた。学生は黙って自転車置き場の一角を指さすと足早に去っていった。私が指さされた一角に向かおうとすると、妙にガタイのいい男子学生に呼び止められた。
「近づくべきではない」
「なんだ? 何があったというのだ!」
私が語勢を強めて尋ねると彼は大きた体に見合わぬ低く小さな声で言った。
「決闘です」
「誰が誰と決闘するというのだ?」
「剣道部主将の乗竹希と八上染一郎です」
「なぜ、この二人が争う必要があるのだ?」
「八上が複数の女子にちょっかいを出して好いた惚れたの問題になった挙句、八上が更に他の女に手を出した。怒りに狂ったその女たちが乗竹さんに仇討ちを依頼したそうです」
なるほど、さもありなんである。八上は女であれば誰かまわず手を出す。甘言にさまざま手練手管を駆使して女に迫るその姿はある種、男としての清々しさがあるがそれをされる女の立場となれば怒りがわかぬはずがない。
「沢山の女が怒っているのか?」
「はい、はじめは声楽部の小森さん。次に小森さんの友達の大川さん。それからダンス部の枝野さん、それから三年の水鳥さん、それから……」
「もういい」
私は手を広げて男子学生の言葉を封じるとため息をついた。節操がないとは日頃から感じていたが、これほどとは幼い頃からの友として頭が痛くなった。男子学生は、少し伏し目がちに私を見るともごもごと口を動かした。
「いえ、まだ話は終わらぬのです。乗竹さんが八上の蛮行を糾弾するとあろうことか八上は乗竹さんを口説いたのです。そのせいで、怒髪天を衝くこととなり糾弾から決闘に成り代わったのです」
私は激怒した。
「破廉恥な奴だとは思っていたがここまでとは、もはや生かしてはおけぬ」
元来、私は単純な性分である。男子学生の静止も振り切り、走り出した私は一気に駆け出すと、女子の一団に囲まれている八上を捉えた。彼は目を釣り上げた女子に捕縛されてはいたが、妙に余裕ぶった顔でこちらを向くと「よう」と笑った。
「お前というやつは」
「うむ。高倉、君を待っていた。と、いうわけだここに高倉を置いていく。俺が帰らなければこいつを煮るなり焼くなり好きにするがいい」
私が怒りと噴出さるよりも早く八上は口を開くと乗竹に向かって何やら曰くありげな言葉を述べた。私を置いていくとはどういうことか。一体何のことかわからず、私が目を白黒させていると八上が私の肩を軽く叩き言った。
「これなる男は高倉光一と言い俺の無二の友である。俺が三時間経っても帰ってこなければ、この男を殴り、罵り、縛り上げるがいい。どうだ、乗竹よ。認めてくれまいか?」
「逃げた鳥ならまだ帰ってくることもあるでしょうけど、クラゲのようにいつもふらふら浮き漂っている貴方が、帰ってくる訳が無い。その男も八上の人質になることなど認めないでしょう」
乗竹が木刀の切先を八上に向ける。八上は一段と大きな声で笑うと、私と乗竹を交互に見た。
「乗竹。お前は男の友情というものを分かっていない。これは命乞いで言っているのではない。ただ――」と言いかけて八上は少し逡巡していつものような不敵な笑みを浮かべた。「予てより、デートを申し込んでいた商業高校のカオリちゃんから今日ならば良いという連絡が来た。これに行かずして男子といえようか。いや言えぬだろう! 俺は三時間でデートを切り上げて帰ってくる」
「馬鹿な」と乗竹は驚嘆の声をあげた。「そんなことのために彼を人質にするというの?」
「そうだ。そんな事のために高倉を人質にするのだ」八上は勝ち誇った顔で言い張った。「俺は約束を守る。ただ、カオリちゃんとちょっといい感じになって、ちょっとブレーキを止められない場合になるかもしれないが、その時はその時である。その時は高倉を好きにするがいい」
それを聞いた乗竹は、可哀想なものでも見るような顔で私を一瞥すると「いいでしょう」とため息交じりの声で八上の願いを認めた。この時になって私は、口を挟み損ねたことを後悔した。すでに場の空気は、私が八上の人質となり怒り狂う女子の群れに放り込まれる空気になっている。
「では、俺は征く」
自転車に跨った八上は私のことを一瞥することも事情を説明することなく走り出した。佳き友の間では言葉はいらない、そんな風を装いながら彼は私を置き去りにしたのである。女子の一部は彼を強引にでも止めようとしたが、八上は華麗な自転車さばきでその全てを躱して風となった。その間、私は女子達によって縄で縛られ、彼を待つことになったのである。
縛られた私に向かって乗竹はやや呆れた声で「どうして、断らなかったの?」、と尋ねた。私は彼女に「やつに言いたいことがあるのだ」と短く答えた。乗竹は少し不思議そうな顔をしたあと「帰ってこないわよ」と言った。
乗竹と私は知らぬ間柄ではない。とは言っても仲がいいといわけではない。昨年、私と乗竹は同じクラスの一員であった。剣道に学問。さらにはクラス活動まで率先して行う彼女はクラスの代表というべき人物だった。クラス委員長は別にいたが、彼女が皆を率いてくれるので委員長はにこにこしているだけでよかった。そして、そのにこにこしていただけの委員長が私なのである。ゆえに私は彼女に大いに借りがあると言っていい。彼女がいなければ私は、役に立たない委員長としてクラスメイトから軽蔑されていたの違いない。
「皆はもう帰っていいわよ。どうせ、帰ってこないでしょうから、あとは私がやっておくわ」
憤怒に燃えていた女子に乗竹が解散を命じると、彼女らは口々に八上への恨み言を呟きながら去っていった。自転車置き場には身体を縄で縛られ蓑虫のようになった私と木刀を片手に疲れた顔をしている乗竹だけが残った。
「馬鹿じゃないの? 高倉君はどうしてお人好しなの?」
これは前にも言われたセリフだった。誰もやりたがらなかった委員長の職を受けたとき。文化祭の準備を押し付けられたとき。彼女はこう言いながら私を助けてくれた。
「それが性分というものなのだろう。別に私だってこうしたいと思ってこうしているわけじゃない。だが、誰かが私に助けを求める。縋ってくる。ならば、それを無下に振り払うことなどできないではないか?」
「器量不足なのに? それはただうまく使われてるだけじゃない」
「ただ、うまく使われてるっていうのは分かっている。だけど、それの何が悪い。器量不足も知っている。だけど、誰かの為になるならと考えることのどこが悪いことだろうか?」
「悪いわよ。誰の為にもなってないんだから」
八上に苛立っているのか妙に刺のある言い方だった。乗竹が私にこのようなことを言ってくるのは珍しい。たいていの場合、彼女は私の器量のなさを批難することはあれど、行動までは否定されることはない。
「それを言うなら、君だってそうだろう? ほかの女子の代表となって八上を糾弾した。君自身も八上に口説かれたのかもしれないが、聡明な君のこと八上に乗せられて切った貼ったの恋模様などにはならなかったはずだ。それなのに乗竹さんは八上糾弾の代表になった」
「それは……、私には出来るから。高倉君はできないのに引き受ける。それがダメって言ってるのよ」
今日に限って妙にお節介を言ってくるものである。確かに委員長などは私の器量には向いていなかった、だが、今回のようにただ人質となるようなことならば、私の升ほどの器でも可能のように思う。彼女は私に人質にもなれないというのだろうか。そうだとすれば、私の器量というのは私が思っている以上に小さいのかもしれない。
「乗竹さんが言っていることはいつも正しいからきっとそうなんだろう。だけど、君は一つだけ間違っている。八上は帰ってくる」
「高倉君、それは本気で言っているの? だから、貴方はお人好しだって言うのよ。わかる?」
乗竹が苛立ちげに木刀をコツンコツンと床につく。昨年、ことあるごとに私を助けてくれていた彼女にこのように思われていたのかと思うと、情けないと考える反面、申し訳ない気持ちになる。だが、八上は帰ってくるだろう。それだけは私にはわかるのである。
「八上は確かに破廉恥でどうしようもない奴である。だが、私を見捨てるような真似はしない」
「すごい自信ね。どこを叩いたら八上を信じる気持ちが出てくるの?」
私と八上はもの心着く前からの付き合いであり、幼稚園になる頃にはすでに友達であった記憶がある。昔から私は万事、要領が悪く周囲の子供に劣ることが多かった。一方、八上は何事も物覚えがよくその上、運動神経も抜群であった。かくれんぼをすれば、私はすぐに見つかる。しかし、八上は最後の最後まで誰にも見つからなかった。あるとき、私が鬼になった。要領の悪い私は街が黄昏に染まる頃になっても他の子供たちを見つけることが出来なかった。子供たちは日が沈みはじめると誰とは言わずに帰路に着いて行った。私は他の子供が帰ったことも分からず、半べそになりながら彼らを探した。そして、日が完全に沈み当たりが真っ暗になった。
私は「もーいーかい?」と涙混じりの声で叫んだ。こう言えば、誰かが答えてくれるかもしれない、と思ったからだ。しかし、私の声に答える者はいなかった。私はたった一人でとぼとぼと帰り道につこうとした。すると後ろから小石が飛んできた。
振り返ってみれば八上が藪の中から出てきて「まだ、俺が隠れているというのに鬼が帰るとは何事か」と言った。私は自分が一人でない事に安堵して涙を目に湛えたまま笑った。八上はそんな私を見ると「全く、高倉は俺がいないとダメだな」と胸を張った。
「そんなことはない。私、一人でも平気だ」
私は強がってみせた。八上はふーん、と鼻で笑うと
「俺は遊びには全力を尽くす。最後まで遊ばないのは遊びではない。だから、お前も全力で遊べ。途中で帰るな」とわかったようなわからないようなことを言った。
それから私たちは高校生になっているが、彼の根底にはそれが残っていると私は思っている。彼にとってはなんでも遊びになのである。遊びだから多くの女子に声をかける。かけられる方としては堪らないだろうが、彼は誰に対しても全力を尽くしている。そして、今回のこともきっと遊びだと思っているに違いない。ならば、彼は帰ってくる。
私が、昔話を乗竹に語って聞かせると、彼女は「やっぱり馬鹿よね」と一刀のもとに切って捨てた。
「いや、馬鹿だから来るのだ」
「……馬鹿につける薬はなし。決めたわ。八上が来なかったら私は本当に高倉君を斬るわ」
妙に清々しい顔で木刀を握り締めた乗竹が私を見つめる。私はといえば、縄で縛られており身動きひとつできそうにない。格好の悪いことこの上ないが、現在、過去未来において格好良い私という者はいない。ならば、器量のないまま最後まで付き合うのが私のあるべき形だろう。
「良いだろう。だが、八上は来る。そうなった時、乗竹さんはどうするのだ?」
「どうするってどうもしないわよ。来たら八上を斬るだけだもの」
「八上が斬られることに関してはいいだろう。ナマス切りにして魚の餌にでもなんにでもすればいい。だが、私はどうなるのだ。ただ、巻き込まれ。縛られ。何もいいことないではないか」
蓑虫のような姿のまま私は、胸を張った。
「知らないわよ。高倉君が勝手に人質になっただけじゃない」
「それはそうだが、どうにも納得がいかない。本来ならば私が、八上に苦言を呈するつもりだったというのにそれを乗竹さん達に先を越され、あれよあれよという間に人質だ。少しくらいいい目にあってもいいではないか?」
「分かったわよ。じゃー、八上が帰ってくれば何か考えましょう」
メンドくさい、とでも言いたげに乗竹さんが頷く。その後、私たちは八上の帰りを待った。特にやることがなかったので、乗竹とたわいもない話をしていたのだが、自転車置き場を訪れる生徒が揃って私たちを見るとギョッとした表情になるのは困った。
一人は木刀を片手に仁王立ち、その横には縄でぐるぐるに縛られた蓑虫である。ちょっとしたSMプレイに見えないこともないだろうが、どちらにしてもまともな組合せには思えないに違いない。
「乗竹さん、少しお願いがあるのだけど」
「そう、ちょうど良かったわ。私もひとつ提案があったの」
それはどちらとなくいい出したことであった。
「縄をはずしてくれないか」
「縄を外しましょう」
こうして私は物理的な自由を回復したのである。時刻はもうすぐ午後六時になる。黄昏が迫っている。もうすぐ太陽が山々の間に沈む。そうなる頃になれば私は彼女に斬られるだろう。だが、そうはならないという自身が私にはある。八上――私の無二の親友は帰ってくる。このスタートラインというべき自転車置き場に。
「高倉君、孔雀って知ってる?」
「孔雀ってあの派手な羽の?」
それは唐突な会話だった。
「そう、その孔雀。孔雀ってあんなに綺麗な羽してるのに蠍とか毒蛇を喜んで食べるのよ。とんでもない悪食だと思わない?」
孔雀といえばあの煌びやかな羽に目が行きがちで、何を食べるかなど私はまったく知らなかった。しかし、蠍や蛇を食べるというのは確かに変わっている。わざわざ毒を持っている生き物を好んで食べる必要はないだろう。だが……。
「この際は外見はどうでもいいんじゃないかな。孔雀が喜んでいるなら食べたいものを食べさせるべきだよ」
「でも、幻滅しない? あんなに優美なのに食べてるのは蠍や毒蛇なのよ」
「多分、孔雀にとって周囲の評価なんてどうでもいいんじゃないかな。僕たちが幻滅しようがしまいが、孔雀にとってはなんにも変わりはない。食べたいものを食べる。それが一番、楽だろうさ」
「そう。高倉君はいいわね」
何がいいのかわからないが、乗竹は少し機嫌を持ち直したようで今日一番の微笑みをこちらに向けた。このような会話を繰り広げながら私は、このまま八上が来なくてもいいかと思った。すこし、乗竹と話しているのが楽しくなったからだ。彼が来なければまだもう少し彼女と話をしていられる。彼が来たところで何もいいことはない。彼女は八上を斬らなければならないし、八上はひどく体を痛めるだろう。そう考えれば、来ない方がいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、校舎の方から六時を告げる鐘の音が響いた。太陽は山々に完全に隠れ、残照とも言えるわずかな光が空を茜色と藍色に染めている。黄昏の色である。昔、かくれんぼをした時と同じ空がそこにあった。
「遅い! 遅すぎる! 八上のやつはどうしたの」
鐘の音で本来の目的を思い出したのか。乗竹は苛立ちげに木刀の切先を地面に突き立てた。私は大きく息を吸って来る時が来たのだと思った。それと同時に、八上に対する怒りがふつふつと湧いてくる。どうしてこないのだ。
「高倉君、言い残すことがあれば聞いておくわ」
木刀を正眼に構えて乗竹が菩薩のような微笑をたたえる。私は無駄な命乞いをすることなく、静かに目を閉じた。
「我が墓碑に名はいらじ。ただ、唯一の心名残は彼女の一人くらいは欲しかった」
「やっぱり、馬鹿よね」
そう言うと彼女が木刀を勢いよく振り下ろす。私の頭はスイカ割りのスイカのようにぐずぐずに砕かれる予定だった。しかし、頭に響くべき衝撃はいつまでまっても来なかった。私が恐る恐る目を開けると顔にキスマークをいくつもつけた八上がいた。
「高倉。三時間ぶりだな」
「いや、三時間と五分ぶりだ。遅い」
「そういうな、これでも急いで帰ってきたのだ。離れたくないと駄々をこねるカオリちゃんをなだめすかし、帰り道で知り合った恵子さんと連絡先を交換し合い。俺に会いたいといきなり電話してくる愛ちゃんを説得して、万難を排してここにたどり着いたのだ」
「八上。すまない。私はお前が帰ってこないほうがいい、と考えてしまった」
「なぁに気にするな。俺もこのままカオリちゃんとデートをしてお前を忘れようかと二、三度考えた」
私たちはお互いの顔を殴りあった。
「そのどうでもいい茶番はもう終わりでいいわよね。まさか、このあと無駄に暑苦しい抱擁とかすれば私が感動して許す、とか考えてない?」
「乗竹。お前は人を信じる美しさがわからぬ奴だな。ここはお前も仲間に入れてくれ、と言って三人で抱き合う場面だぞ」
八上は私を抱え起こすと、キスマークがついた顔を乗竹に向けた。そのふてぶてしい顔はここから去った時と変わらぬものでいかにも堂々としたものであった。乗竹はもう一度木刀を構え直す。
「死になさい」
無慈悲に振り下ろされた木刀は八上の胴を見事に払った。八上は低い声を上げて地面にうずくまった。おそらく八上は明日学校に来ないだろう。乗竹も多少は手加減しただろうが、あたりがあまりにも良かった。
「高倉君。これで晴れて貴方は自由の身よ。おめでとう」
「そうだな。まったく何もいいことはなかったけど、自由を得たことに関しては素直に喜ぼう」
少し困ったような顔で乗竹は、私を祝った。私はといえば特にいいことがあったわけでもなく。素直に喜ぶことはできなかった。そのため、彼女からは私がひどく困った顔をしているように見えたことだろう。
「そうね、あまりにもこのままでは不幸よね。ここは一つ、あなたの願いを叶えましょう」
「何を叶えてくれると言うんだ」
「あなたに彼女ができました」
何のことかわからず。私が首をかしげていると乗竹は少し怒ったような顔で「付き合ってあげるっていってるのよ、馬鹿」と言った。
私はこのときになってようやく事態を理解した。こうして、十七年間、彼女のいなかった私に彼女ができたのである。
「確かに願いが叶ったよ。ありがとう」
「悪食な彼女でも幻滅しないことね」
私たちが微笑んでいると、地面にうずくまっていた八上が息も絶え絶えに「俺は全く良くない。だが、おめでとうだ」と呟いた。私はこの無二の親友を抱え起こしてやると肩を貸してやった。
真宮傑さん主催の「3ワード企画」参加作品になります。
アミダくじを引いて、出たキーワードをもとに小説を書くという企画です。
僕のキーワードは スタートライン、帰り道、黄昏の三つでした。
当初、考えていた以上に難しく。ギリギリまでかかってしまいました。