転生
とある月曜日の八時二十分。自宅から数百メートル離れた踏切の近くを俺は走っていた。
肩に掛かったカバンの重みに耐えながら、懸命に走る。息を切らせて走り続ける。
理由は至極簡単。月曜日と八時二十分という単語から導き出される最悪のイメージどおり、俺は寝坊したせいで走って学校に向かっていた。
すれ違う人はほとんどいないのは、もうほとんどが学校に着いているからだろう。そんな推測が更に心を焦らせる。
3分ほど走ったところで、踏切に着いた。学校まではあと2キロほどで、遅刻まではあと7分。
心の中では「もう諦めよう」という声と「まだ間に合う」という声が必死に議論を交わしている。議論の末、僅かに残った諦めない気持ちを拾い集め、踏切を渡ろうとしたところでバーが突如目の前に下りた。
「おいおい、マジかよ」
これで結果は一目瞭然となった。遅刻は確定だ。
高校2年生の秋を迎えた現在まで無遅刻無欠席が唯一の自慢だったのに、それすらも無くなってしまったのは何だか虚しかった。
踏切のランプが点滅する。もうすぐこの線路を長い電車が通過するのだろう。
時計を確認すれば、八時二十五分を指している。遅刻の5分前だ。
電車が来る方向をみても、まだ電車はここを通過するには遠い位置にいた。
『この距離ならいける!』・・・心の中で叫ぶ声。しかしこれを通過したところで遅刻は確定なのに、どうしてこんな状況でこの踏切を渡ろうと心の中で叫んでいるのだろう。
そんな疑問が頭をよぎる中、後ろから何か物音がした。何かが摩擦するざらついた音と何かが倒され、地面に衝突したような音。振り返って確認してみると、一台のさび付いた自転車がコンクリートの上に倒れ、後輪がくるくると滑らかに回っていた。
嫌な予感がしてもう一度前を向くと、一人の男が踏切のバーを跳び越えている姿が見えた。
「おい、危ないぞ!戻れよ!」
とっさに俺は叫んでいた。
「・・・・・・・・・・」
バーを跳び越えた人物はそのまま踏切のちょうど真ん中まで歩いて立ち止まった。
まるで叫び声が聞こえていないかのように、落ち着き払った様子でただぼんやりと空を眺めているだけで、呼びかけに応じる気配は無い。
ちょうど向こう側にあるトンネルから電車が姿を現していた。
「死にたいのか、さっさと向こうに渡れ!」
「・・・・・・・・・・」
「わかってるのか?危ないって言ってんだ!」
「・・・・・・・・・・」
しつこく叫び続けていると踏切の中央に立つ男は不意に振り返って、身体をこちら側に向けた。
服装は俺が通っている高校と同じ制服を着ていた。顔は病人のように青白い。そして自分が危険だと認識していないくらい笑顔だった。まっすぐで、透明な笑顔。
「早くしろ、本当に危ないんだって!」
「・・・・・・なら、君が手を引いて助けてくれ」
「は、何言ってんだお前?死にたくないなら自分でわたれよ!」
「僕は君が助けない限り動かない。たとえ僕の脳漿や血液がここら辺りに飛び散ろうが、僕の身体がばらばらになろうが知ったことじゃない。君が助けない限り、僕は動かない」
(突然喋り始めたと思えば何を言っているんだ?)
ただ理解不能な目の前の少年の言葉に困惑した。そして同時に恐怖も感じた。間違いなくこの男は異常者だと確信するには充分だろう。
助けようにもこの距離だと自分も危ない。しかし助けないとなると目の前のこいつは死ぬ。こんな異常者を助ける必要があるのか?
心の中の問いかけの答えは出ない。
「頼むから早く向こうへ渡ってくれ!」
「・・・僕はこれから夢の世界へ行くんだ。僕は自分で夢の世界を諦めるつもりはない」
「何が夢の世界だ。死ぬんだぞお前?」
「死ぬっていうのは違うな。この腐った世界からの旅立ちだよ」
「そんなことどうだっていい。早くわたれって・・・・」
俺の声は男には届かない。耳に届いていても、心には届いていない。
このままだと確実に男は電車と接触する・・・つまり、死ぬ。
「ああクソッ!!」
俺は決断した。
余裕で間に合う・・・何度も心で呟き、恐怖を打ち払うかのように踏切のバーを跳び越える。
バーの内側に立つと向こう側まではさほど遠くないはずなのに、随分長い距離だと感じてしまう。
リズムよく響く踏切の音が何故か胸をざわつかせる。まるで‘逃げろ’とでも言うかのように辺りに鳴り響く。大丈夫、電車はまだ来ないはずだ。
着ている制服がずいぶんと窮屈に感じる。まるで‘行くな’と言うかのように俺の動きをほんの少しだけ鈍らせる。まだ間に合う。電車はまだ遠い。
自分の思考を一気に振り払い、踏切の中央に立つ男へと身体を前進させた。
「さぁ、いくぞ!」
なんとか間に合った。もう電車はかなり近くまで迫っているが、手を引いて線路の外へ飛び込めば間に合うはず。
男の手を握り、そのまま外へと引っ張りながら自分も身体を投げ出そうとした。
「・・・・・・」
「おい、早くしろ。さっさと線路の外に飛び出すぞ!」
ニヤリ
男は先ほどの透明な笑顔とは程遠い、歪んだ笑顔で俺を見つめた。思わず男から目をそらした。
その直後に、男は俺の手を強く握り締めた。万力のようなその強さに顔を痛みでゆがめた。
そして男はそのまま握っていた手を線路の中へと引っ張った。
不意の引っ張りに対応できなかった俺はそのまま線路の中へと身体が入ってしまった。
「君に助けてもらおう何て最初から思っちゃいない。一緒に夢の世界へ行こうと思ってたんだ」
「お前っ!何言って・・・」
キィィィィ!!
「え・・・」
「さようなら。またあの世界で」
直後右側から聞こえた大きな金属音。それは電車の断末魔だったのかもしれない。
男の声が全て聞き取れた頃、黒光りした立派な電車はすでに俺の身体を吹き飛ばしていた。
脳が飛び散った?身体がばらばらになった?骨が粉々になった?男は?
どれもわからない。だって痛みも何も感じないのだから。
ただ、少し細めで長身だった俺の身体は空を舞い、そして地面に落ちていった。
断末魔を上げることなく、ただ死んだ。
線路と電車はは飛び散った血液で赤く染まっていたことだろう。
* * *
目を開けると、白い天井が目に映った。
ぼんやりとしたまま上体を起こせば、四方八方白い壁が目に入った。
自分の記憶を振り返っても、一度たりともこんな部屋に来たことは無かった。病院だって大きくなってから来たことは予防接種くらいしか無い。
夢でも見ていたわけじゃなければ確か電車に轢かれて死んだはずなのだ。あの宙に身体が吹き飛ぶ様子は夢でだって見ることはないだろう。
あれこれと思考を整理してみても、まったく見当がつかなかった。ありえるとすれば‘天国’か‘地獄’くらいか。
「目が覚めましたか」
「え?」
声は男とも女とも区別のつかない中性的で、無機質だった。
その声は飛翔した俺の意識を連れ戻すには充分すぎた。何しろここは誰も居ないただの白い部屋という見立てだったからだ。
声のするほうを見れば、またもやこの場には異様な存在があった。
頭には黄金に輝くリング、背中には大振りな真っ白の翼を生やして、床から少し浮いている。顔に特徴は無く、男か女なのかもわからないが、冷ややかな微笑を浮かべて涼を見ていた。
それからゆっくりと口を開く。
「おはようございます」
「・・・・・・・・・・・・・あ、。おはようございます・・・?」
あまりの唐突な挨拶に戸惑いながらも、何とか語尾に疑問符をつけて返事をした。
こういう物を小さな頃に見たことがあった。確かこれを子どもは‘天使’と呼んでいたはずだ。
そうしている間に天使は床に降り立つと、俺の目をじっと見つめて口を開いた。
「上野涼17歳4ヶ月、性別男、職業高校生、趣味は読書、好きな食べ物カレーライス、嫌いな食べ物ハンバーグ」
天使は息継ぎもせずに次々と俺のプロフィールをばら撒いていく。
突然プロフィールをばらされ戸惑いながらも、止めに入ることにした。さすがにこれ以上放っておくのはいけない気がする。
「おいおいちょっと待ってくれ。何だよいきなり?」
「それで、今確認したプロフィールは上野涼のもので、あなたは上野涼で間違いはありませんね?」
「いや間違いはないけど、いきなり何だ?あんたは誰?ここは病院か?」
俺の問いに天使は目を細めて、天井を見上げた。
どうやら答えるつもりは無いらしい。
それからすぐに視線を涼に戻して衝撃的な言葉を告げる。
「上野涼。十月十日午前八時二十六分十三秒、通学路の踏切で電車に轢かれ死亡。これも、間違いありませんね」
聞いた瞬間、背筋が冷やりとした。あの時の光景がフラッシュバックで鮮明に見えてくる。
黒光りの電車・・・吹き飛ぶ身体・・・飛び散る血液・・・。
それらの記憶を押し込み、辛うじて俺は口を開いた。
「何言ってんだ、あんた?」
「おかしいですね。轢かれた瞬間をあなた自身は自覚していたはずですが・・・」
「俺が言いたいのはそういうことじゃない。何であの瞬間を知っているんだ?」
「それらを今からご説明しようと思っています」
天使はそういうと、一枚の写真を取り出して、手渡してきた。
そこに映っていたのは赤く染まった踏切と、中央付近にある赤い人型の物質。血溜まりの中から指が辛うじて数本見えた。
そこまで観察したところで、俺は嘔吐した。あの‘物質’が生前の自分であるという事実は到底耐えられなかった。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・・・・・・」
「大丈夫なようですね。では説明を始めましょう」
大丈夫なわけない。俺がそう言おうとしても身体がこわばって口が開かない。
しかし天使はそんな様子に気づくはずも無く、淡々と事情を述べていく。
「上野涼さん。あなたは先ほど述べた時刻にお亡くなりになりました。ご愁傷様です。その点については本人も自覚しているらしいので説明は省きます」
「・・・・・・・」
「そして次にこの場所の説明に入りましょう。私はこの‘死後の世界’を管理する神々の一体、テミスと申します」
「・・・死後の世界?神?」
「はい。ここは現世において亡くなった人々が暮らすもう一つの世界です。つまりあなたはさっき亡くなったのでここの住人となりました。驚きましたか?」
あまりぶっ飛んだ説明だが、何も言い返すことが出来ない。
あの写真の中のものは間違いなく自分であるからには、今更何を言われようともありのまま受け入れるしかないのだ。たとえ目の前の人・・・いや、神がこの世界を死後の世界といったとしても。
「ここへ来た死者はこの世界で好きに過ごします。老人でも、赤ん坊でも、小学生でも。また新たにこの世界で赤ん坊として生まれてすくすくと育ち、老衰して死んでいく。仕組みは現世と大差ありません」
「なら、ここにいるのは全員死者ってわけか。んで、第二の人生でも始めましょうってことか?」
「ええ、そう考えてもらっても構いませんよ。ちなみにこの世界は何て呼ばれていると思います?」
「そんなの知るはず無いだろ」
「では覚えて置いてください。‘ローゼズリフェ’といいます。素敵な名前でしょう」
テミスは何故か笑いをかみ殺したような表情で言った。
しかしすぐに表情を戻し、説明を再開する。
「実はあなたもその対象でこうしてローゼズリフェに呼ばれたのですが、我々の手違いであなたはこちら側へ来てしまった」
「こちら側?」
「本来出会うことの無い私と会えてしまう場所ですよ。この世界の中心です」
そういわれて、もう一度室内をぐるりと見回してみた。
四方八方白い壁、天井も真っ白でここが中心といわれてもいまひとつピンとこなかった。
視線を戻すとテミスは話を続ける。
「本来なら現世での記憶も全て消えているはずなんですが、これも手違いで残ってしまったらしく、こうして特例ですが私が説明をしています」
「それはご苦労なことだな」
「ええ、大変面倒くさいです。しかしこれはこれで面白いのかもしれません」
そういうとテミスは目を細めた。まるで爬虫類のようなその目は何を考えているのかは分からない。
「さて、ではあなたにはこれから‘4つの国‘を選んでもらいます。こちらをごらんください」
そう言った直後、部屋の壁にモニターが現れた。
モニターに映るのは、見慣れない4つのエンブレムと、広大な地図だった。
「この4つのエンブレムから、どれか一つを選んでください。それがあなたの生きる国となりますので」
「選べっていったって、4つの国がどういう国なのかも分からないのにどう選べばいいんだ?」
「ですから、こういったことも全て‘特例’なんですよ。あなた以外の人は皆自分が生きる国も選べずにローゼズリフェで生きているんですから、あなたに国の概要をお話しするのは不公平だとは思いませんか?」
テミスにそういわれても、俺は納得がいかなかった。いや、いくはずがないのだ。
だってこれは向こう側の‘手違い’であって、決して‘贔屓’ではないのだから。
「あんたらのミスで俺はこっちに来たんだ。それぐらい融通利かせてくれたっていいだろ」
「意外に図々しいんですね、あなた。では本音をいいましょう。このまま色々お話してはこちらとしても面白みが無くなってしまうのです」
「それはあんたらの都合だ」
「しかしこの世界は我々の都合で動いているのです。どうかご理解を」
テミスの主張はまったくもってご都合主義だが、言い返すのも馬鹿らしくなり俺はこれ以上言い返さなかった。開き直られたら勝ち目など無い。言い返したところで向こうは絶対に何も教えてくれないのは目に見えていた。
諦めてモニターのエンブレムを眺めた。
地図の北のほうにあるエンブレムは水色、東側にあるのが銀色、西側が緑色、南が黄色になっている。
水色のエンブレムには女神の横顔が描かれている。
銀色のエンブレムには剣を構えた騎士が描かれている。
緑色のエンブレムには翼を広げた龍が描かれている。
黄色のエンブレムには天使が描かれている。
「どうです?直感で選んでくださって構いませんよ」
「どうって言われてもな・・・」
「どの国も色々な事情があって面白いですよ」
どの国も色々な事情がある。
裏を返せばどこへ行っても面倒くさいということである。
ならば直感で選んでみてもいいのかもしれない。考えたところで何も分からないのだから。
そう考えた俺は水色の女神のエンブレムへ人差し指を向けていた。
「俺はこれがいい」
何が気に入ったのかは分からない。
ただ頭の中ではっきり浮かんだのは水色の女神のエンブレムだった。
「ほう・・・。‘フィランシア王国’を選択しましたか。了解しました」
「フィランシア・・・王国?」
「おっと、口が滑りました。いけないいけない」
「ちっ、それで・・・・これから俺をどうするんだ」
本当は聞くまでもない。おそらく向こうへと転送されるのだろう。
ただ、最後の希望を込めて言ってみただけだった。
「あなたを向こうへと転送いたします。後は色々と頑張ってください」
「いや待てよ。頑張れってどうすればいいんだ?」
「自分で考えてくださいよそんなこと。あ、向こうで死んだら今度こそあなたが想像した‘無’になりますので気をつけてくださいね」
そういうとテミスは俺の頭に手をかざした。
「向こうで野たれ死ぬのも良い。頑張って死ぬのもいい。どの道いつかは向こうで死ぬことになります。大切なのは、後悔しない様に生きることでしょうか」
「・・・・・・・」
「ふふ。では・・・上野涼、転生、ローゼズリフェ」
そのまま視界は白い光で一瞬で閉ざされた。