第一話 過去の日常へのピリオド
現代の日本。
アジア全域に名を轟かせるこの国において、その独特な企業文化の厳しさは語るまでもないだろう。
一ノ瀬葵。どこにでもいる平凡な少女である私は、かつて、人よりは随分と恵まれた家庭で暮らしていた。
――そう、『かつて』は。
今、私と両親の目の前に座っているのは、この地域でも名高い大企業家――七海健吾その人である。
両親の会社が商戦で他社に敗れる。今の時代、それ自体は決して珍しいことではない。だが、勝者である相手側から、わざわざ敗者を呼び出して面会を求めてくるなんて、一体誰が想像しただろうか。
私たちが一向に口を開かないのを見て、対話の発起人である七海健吾が自ら口火を切った。
「本日の呼び出しについて、皆様におかれましてはさぞ不可解に思われていることでしょう。ですが、まず釈明させてください。今回の商戦において、私は決して競合を叩き潰そうなどという意図を持って動いていたわけではないのです」
その言葉を聞いて、隣に座る両親は理解が追いつかないといった様子で目を丸くした。
「叩き潰す気はなかった、とは……具体的にどういう意味でしょうか?」父が戸惑いながら尋ねる。
「具体的に申しますと、御社の事業をこれ以上圧迫するような真似はいたしません。それどころか、御社の再起に向けてある程度の支援をさせていただくつもりです」
「なぜ、ですか?」
予想外の返答に、黙って聞いていた母が思わず声を漏らした。
「私個人の考えによるものです。私は、ただむやみに競争相手を叩き潰すような真似は好みません。適度な競争があってこそ、企業は健全に発展できる。それに――私の提供する支援は、決して無償というわけではありません」
「その代償というのは……我が社を七海グループの傘下に入れろ、ということでしょうか?」父は依然として腑に落ちない様子だ。
「いいえ、今も今後もそのようなことはありません。それでは『支援』とは呼べないでしょうからね」
「では、具体的な条件とは何でしょうか」
「簡単なことです。そちらのお嬢さんに、我が家のメイドとして、私の娘の世話と躾を手伝っていただきたいのです」
そう言うと、七海健吾は父の隣に座る私へと視線を向けた。
「もちろん、あくまでアルバイトのようなものとお考えください。お嬢さんに学業を放棄させてまで、専属のメイドになれと強制するつもりはありません。そのような不道徳な真似をするつもりも、毛頭ありませんので」
父はひどく困惑した面持ちで私を見た。だが、私の顔に不快な色は一切浮かんでいなかったはずだ。
――より正確に言うならば、感情を表に出す気すら起きなかったのだ。
私は淡々と口を開いた。
「構いません。それが七海様のご所望でしたら、私に異存はありません」
七海健吾は満足げに頷いた。
「結構。では、明日にでも必要な荷物をまとめて、七海家へお越しください」
――この日を境に、一ノ瀬葵の人生は全く別のものへと書き換えられてしまったのだった。




