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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

三十代女性の選択と代償

作者: 銀城
掲載日:2026/02/23

 会社の空気は、重い。


 目に見えない “圧” がある。

 誰かが笑えば笑い声が広がり、誰かが怒れば怒気だけが残る。

 人そのものは、すぐ背景になる。


 彼女は、その背景になるのが上手かった。


 出社すると、タイムカードを押す。

 「おはようございます」と口は動くが、声は机の角に吸われるみたいに小さい。


 返事が返ってくるかどうかは重要じゃない。

 返ってこなくても何も起きない。

 返ってこないことに腹を立てたら、そこで負けだと分かっている。


 席に着くと、椅子が軋む音までも気になる。

 カタカタとキーボードを叩くだけでも、彼女の打鍵は周囲のリズムに合わせて薄くなる。


 メールの文面は丁寧で、無駄な感情がない。

 句点で息を区切り、語尾は柔らかい。


 「ご確認のほど、よろしくお願いいたします」

 「お手数をおかけしますが」

 「恐れ入りますが」


 誰かの地雷を踏まないための、日本語の防御膜。


 会議では、必要なときだけ声を出す。

 声を出すときも、誰かの意見に寄り添う形を取る。


 「それ、良いと思います」

 「私も同意です」

 「その方向で問題ないかと」


 自分の意見を出すのは最後。

 最後まで出す必要がなければ、出さない。

 出さなかったことが責められないなら、最初から出さない。


 昼休み、給湯室で誰かが雑談をしている。

 彼女は輪に入らない。

 入らなくても誰も困らない。

 それが一番楽だと知っている。


 廊下ですれ違うときは会釈で済ます。

 笑顔は口角を二ミリ上げるだけで足りる。

 相手が気づかなくてもいい。

 気づかれない方が安全だ。


 会社で彼女は、静かだった。

 静か、というより、削って整えた形だった。


 怒りも、喜びも、声も、存在感も。

 全部削って平らにしておけば、誰にも迷惑をかけない。


 定時。


 「お先に失礼します」


 同じ言葉を言って、同じ角度で頭を下げる。

 誰かが返事をしなくても気にしない。

 気にしたら、そこで自分が崩れる。


 帰りの道、街の光は柔らかく、吸う空気は心地よかった。


 駅前の人波は、仕事の顔をしたまま流れている。


 居酒屋の匂いが、妙に現実味を持って鼻に残る。


 変わり映えしない景色を味わいながら、今日も帰りつく。


 実家の玄関で靴を脱ぎ、ただいま、と口だけが動く。

 返事がないのはいつものことだ。


 廊下の奥、居間ではテレビが低く鳴っている。

 その音は聞き慣れているが、どこか遠い。


 そして、部屋のドアを閉めた瞬間、呼吸の仕方が変わる。


 空気が、自分のものになる。


 机の上のコントローラを掴むと、手が覚えている形で指が収まる。

 喉の奥に溜まっていた言葉が、そこで一気にほどけた。


 「いや、今の当たってないでしょ」

 「は? 味方どこ行ってんの。マジで」

 「はぁー……マップちゃんと見ろよカス」


 画面の中で、知らない誰かが撃たれて倒れる。

 それを見て、責める先が増える。

 自分は悪くないから、また言葉が出る。


 「ラグいって! 絶対ラグ」

 「運営さぁ……これ調整しろよ」

 「いや、私だけ頑張ってるんだけど」


 負けるたび、原因は外に増えていく。

 味方、ラグ、武器バランス、運営、回線。

 自分以外の何かを悪い形にしないと、胸の中の熱が逃げ場を失う。


 コントローラが机を叩いた音で跳ねた。


 プラスチックの軽い響き。

 なのに壁が薄い家では十分にうるさい。


 「うるさい!」


 廊下越しに母の声が刺さる。


 「だって!……」

 「だってじゃない! 毎日毎日、さっさと飯食って風呂に入りなさい」

 「……」

 「明日も仕事でしょう? それともまた夜更かしして朝起きられないって言うの?」

 「それは――」


 言い返す言葉はある。

 いつだってある。

 ただ、会社では飲み込める言葉が、家では飲み込めない。

 家は安全だからだ。

 安全だから、崩れる。


 「そんなにイライラするなら、やめればいいのに」

 「やめたら発散するものが無くなるじゃん!」

 「意味わかんない。ゲームでストレス溜まってるじゃないの」

 「うるさい!」


 「はぁ、大人なんだから――現実見なさい」


 現実、という単語が硬く床に落ちた。


 (何で私ばっかり……)


 それが嫌で、余計にコントローラを握り直す。

 握り直した指が力んで、プラスチックがきしむ。


 「現実って何。私だって働いてるし」

 「働くのはあたりまえ――」

 「もういい、わかってる!」


 母の説教は続く。

 続いているのに言葉は遠くなる。

 自分の中の熱だけが近い。


 画面では、また負けている。

 味方からは暴言チャットが届いている。


 「くっそ……!」


 コントローラを机に叩きつけた。


 その瞬間。


 視界の端に薄い光が浮いた。


 スマホでもテレビでもない。

 目の前の空中に、透明な四角の枠が出現する。


 ポップアップ。


 半透明の薄い青色の板の上に、黒い文字が整然と並んでいた。


 ――神々に、あなたは対象者として選択されています。


 下に二つのボタン。


 【同意する】 【同意しない】


 「……は?」


 顔を左右に振った。

 青色の板はついてくる。

 壁の前でも天井を見ても、視界の中心にぴたりと居座る。


 「ねぇ! 今なんか出てるんだけど! 見える!?」

 「何が? こっちは話してるの! またそうやって――」


 母の説教は止まらない。

 止まらないから、余計に腹が立つ。

 そして、その文字がやけに優しく見える。


 選択されています。


 神々ーー転移、転生。

 異世界、チート、人生やり直し。


 母の声が背中から刺さる。

 現実を見ろと言われたばかりだ。

 だったら現実を壊してやればいい。


 イライラが指先に集まる。


 「……同意」


 押した。


 【同意する】を、軽く。


 軽く押しただけなのに。


 世界が真っ暗になった。


 電気が消えた暗さじゃない。

 目を閉じた暗さでもない。

 自分の内側まで塗り潰される暗さ。


 「え、えっ――!?」


 怖いのに足元がない。

 床も壁も、どこにも触れない。


 「ちょっと! なにこれ! ねぇ!!」


 叫んだ声が暗闇に吸い込まれる。


 そして、どこかで誰かがぼやいた。


 「……まぁたゴミかよ」


 男とも女ともわからない声。

 怒りでも哀れみでもない、ただの感想。


 暗闇が一気に剥がれた。


 真っ白の世界。


 上下も左右もない。

 白いだけの空間に、影が一つ座っていた。


 人の形。

 けれど輪郭が揺れている。

 煙みたいな靄みたいな、曖昧な存在。


 その靄が足を組んでいる。


 「はぁ……お前、合成行きね」

 「……え?」


 突然のため息に対し、掠れた声が漏れた。


 「いや、覚醒チェックはしておくか」


 言っている内容についていけない。


 「ここはどこですか?」


 靄は答えない。


 靄の視線がこちらに向いた。

 目はないのに、見られている感じだけがある。


 靄が指を鳴らすような仕草をした。


 その瞬間、彼女の視界の端に、別の“窓”が開いた。


 ポップアップに文字が走る。

 見たくなくても読めてしまう。


 【対象ログ:個体情報】

 年齢:36

 居住:実家

 職種:事務

 対外:静穏・同調・空気化

 対内:饒舌・他責傾向・感情制御不可

 破損履歴:入力機器コントローラ2件

 直近ストレス源:家族干渉/敗北体験

 同意操作:済


 「……な、なに……これ……」


 自分のことが文字になって並んでいる。

 削って隠してきたものが、項目になって残っている。


 靄が、さも当然のように言った。


 「見えるでしょ。引いたら詳細が出る。これ、うちの仕様」

 「……引いた?」

 「ガチャだよ。対象ガチャ。わかるだろ、引いたら内容が見える。察してくれ」


 靄は軽く肩をすくめる。


 「君たち、ああいうので勝手に盛り上がるよね。みんな押してくれる」

 「……」

 「対象ーーターゲット。材料。サンプル。候補。何でも入る」


 靄が笑う。

 笑いは音じゃなく、空気の揺れで伝わる。


 「まぁ、わざと曖昧にしてるみたいだけどね。余計な説明を入れると警戒するでしょ」


 今更にして、嫌な予感が背筋を伝う。


 「……帰して」

 「帰して? いや、無理。同意したから」


 靄は彼女の横に浮かぶログを指差す。


 「見て。会社では静か。家では饒舌。他責で吐き出す。感情制御はできない。でも“同意”は押す。大丈夫安心して、君みたいな量産型はどこにでもいる」


 「……」


 喉の奥が冷える。


 「君、会社で静かにしてるのもさ、“波風立てなければ上手くいく”って学習でしょ。ログに出てる」

 「……やめて」

 「やめない。こっちは説明する必要がない。ログが全部書いてる」


 靄は淡々と結論を落とした。


 「まぁ当たり前だけども、覚醒要素も無しです、か」

 「……私、選ばれたって……」

 「選ばれたよ。対象として。さっきも言ったけど、材料も対象に含まれる」


 靄は言い捨てる。


 「うーん、とりあえず合成の前にトレード出してみて、誰もいらなければ合成ね」


 すっと消える。


 真っ白の世界だけが残った。


 音がない。

 風もない。

 時間だけがある。


 「……逃げなきゃ」


 夢かと思ったが余りにも感覚がリアル。


 しかし、歩いてもどこにも辿り着かない。

 叫んでも、反響がない。

 世界が“応答”しない。


 あらゆる感情が押し寄せ、涙が噴き出した。


 それでも、視界の端のログは消えない。


 【対象ログ:個体情報】


 文字が、ずっとそこにある。

 自分の弱点が、整理されて並んでいる。


 母の声が蘇る。


 ――大人なんだから、現実見なさい。


 現実。


 ここには運営もいない。

 味方もいない。

 ラグもない。

 原因を外に置ける場所が、どこにもない。


 自分が押した。

 自分の指で。

 同意を。


 その事実だけが、この世界で黒く残る。


 じわじわと胸が焼ける。


 ――狂いそうだった。


 どれくらい経ったのか。


 そのとき、白い空間が淡い黄色に染まった。

 卵の薄皮みたいに頼りない色。


 訪れる世界の変化。

 彼女には何でもよかった。

 あのままあそこにいたら確実に壊れてしまう。


 そこには、色の異なる靄が現れた。


 「お、トレード成功してるじゃん」


 軽い声。

 軽いから、逆に怖い。


 「いやちょうどよかった。君が欲しかったんだよ」


 欲しかった。

 必要とされた。


 その言葉だけで胸の奥がほどけかける。

 救われる可能性が彼女を安堵させる。


 「……あ、ありがとう、ございます」


 会社で覚えた丁寧さが勝手に出る。


 靄が笑った。


 「いいね、その反応」


 そして、何でもないように続ける。


 「実は覚醒の条件にね、合成時『三十代女性』があってさ〜。素材を探してたんだよ」

 「……素材……?」


 背筋が凍る。


 「そっ、条件ぴったり。だから欲しかった」


 靄は、視界の端のログを指先で弾く。


 息が止まる。


 「やめて……お願い……」

 「お願い? 誰に? 君、いつもそうやって外に投げるよね。『誰かが何とかしてくれる』前提」


 靄の声が少しだけ愉快そうになる。


 「でもね。ここは違う。ここは“説明してないのに都合よく解釈して、同意を押した奴の世界”なんだよ〜」


 言い訳が行き場を失う。


 自分が押した。

 自分が選んだ。

 人のせいに出来ない。


 靄が気軽に手を振った。


 「それじゃ、合成開始〜」


 淡い黄色の世界が、ぴしっと割れる。


 割れた隙間から虹色の光が漏れ出し、身体の周りをぐるぐる回る。


 回る、というより、混ぜられている。


 足元がないのに身体が引っ張られる。

 骨が溶けていく気配がする。

 内臓が置き去りになる。


 まるでミキサーの中。


 「やだ、やだやだやだ!!」


 叫んだ声は色の渦にちぎれて消える。


 気がつけば、近くに他にもいた。


 男か女か年齢もわからない。

 ただ人の形だけがあって、阿鼻叫喚だった。


 すれ違った顔は泣いていた。


 その顔が母の顔に重なる。

 いや、自分の顔だ。


 所詮、どこにでもいる。

 どこにでもいるから、集めやすい。


 どこにでもいるから、溶かしても困らない。


 ――混ざる。


 虹の縞が、皮膚の内側に入り込んでくる。

 自分の輪郭が、誰かの輪郭と擦れる。

 擦れて、崩れて、わからなくなる。


 【対象ログ:個体情報】


 視界の端のログが、砂嵐みたいに乱れた。


 年齢:36

 居住:実家――

 職種:事務――

 対外:静――

 対内:饒――

 破損履歴:入力機――


 文字が、潰れる。

 行が、飛ぶ。

 項目が、意味を失う。


 “情報”が、壊れていく。


 その瞬間。


 カチン、と乾いた音。


 虹色が止まった。


 世界が、ぶつりと切り替わる。


 淡い黄色。


 床がある。

 呼吸ができる。

 身体が、ある。


 彼女は、喉の奥から空気を吐いた。


 「……っ、は……っ……!」


 生きている。

 生きている……ように思えた。


 助かったのかもしれない。

 もしかしたら救われたのかもしれない。


 目の前に、先ほどの靄がいる。


 靄は、しばらく無言で彼女を見ていた。

 いや、“彼女”を見ているのかどうかすら曖昧だった。


 靄の前に、薄い窓が浮かぶ。

 さっきのログに似ている。

 でも、内容が違う。


 【合成結果:失敗】

 【素材情報:破損】

 【識別:不可】


 靄が、ため息をついた。


 「……あーあ」


 そのため息は、怒りでも悲しみでもなかった。

 ただの、手間が増えた音。


 「失敗か。クソ。せっかく条件ぴったりだったのに」


 彼女は震えながら顔を上げた。


 「……た、助かった……? 私……まだ……」

 「助かった?」


 靄が、少しだけ笑う。


 「いや、違う。助かったんじゃない。合成が“失敗した”だけ」

 「……」

 「失敗素材はね、情報が壊れる。ログが壊れる。壊れたら、もう“何”か分からない」


 靄が指を鳴らす。


 視界の端にあったはずの【対象ログ:個体情報】が、消えた。

 代わりに、ノイズだけが薄く揺れる。


 彼女は、自分の名前すら、思い出せない気がした。

 思い出せるのに、言葉にできない。

 輪郭が、掴めない。


 「ほら。もう、“三十代女性”って条件も消えた。素材としての価値が、さらに下がった」

 「……や、やり直せる……? だったら……もう一回……」


 声が震える。

 必死に掴んだのは、“やり直し”という単語だった。

 会社で静かに削ってきた分、人生をやり直すという響きだけが甘い。


 靄は、頭を掻く仕草をした。


 「君、頭悪いね〜」


 軽い。

 軽すぎる。


 「君、今の状態だと“何か分からないもの”なんだよ。トレードに出しても、誰も欲しがらない」

 「……じゃあ……どうすれば……」

 「どうもできない。ログが壊れてる時点で終わ終わり」


 靄は、ため息をもう一度吐いた。


 「ただでさえ価値がなかったのに、失敗でさらに価値がなくなるとか、笑えない」


 笑えない、と言いながら、声には笑いが混じっている。


 靄が、空中の窓を指でなぞる。


 【売却】

 【確認:素材情報破損/識別不可】

 【換金額:微量】


 「待って……!」


 叫んだ声は、届かない。

 届く前に、指先の動きだけで決まっていく。


 「まあ、ジェムになるだけマシか。完全破棄よりはね」


 カチリ。


 何かが“確定”した音がした。


 彼女の身体の縁が、砂みたいに崩れ始めた。

 崩れているのに痛みはない。

 痛みがないから、余計に怖い。


 情報が剥がれる。

 記憶が薄くなる。

 会社の机の角も、母の声も、コントローラの感触も――色褪せる。


 “何か分からないもの”になる。


 最後に残ったのは、指先の軽さだった。


 【同意する】を押した、軽さ。


 あの軽さが、今は世界そのものを剥がしていく。


 靄が、窓の隅に浮かぶ数字を見て、またため息をついた。


 「……はぁ。これだけかよ」


 小さなジェムが、ひとつ。

 いや、ひとつと呼べるかも怪しい。

 ほんの欠片みたいな光が、靄の掌に落ちた。


 靄はそれを放り投げるように、どこかへ送った。


 「次、引き直すか……。三十代女性、どこかにいないかな」


 独り言みたいに言って、靄は消えた。


 淡い黄色の空間に、何も残らない。


 名前も、年齢も、怒りも、静けさも。


 最初から背景になるのが上手かった彼女は、


 最後まで背景のまま、


 “換金”された。



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