第3話 消えた声の断片
聖灰学院の昼下がり。
廊下には光が差し込み、石畳に長い影を落としていた。
セリナは手帳を抱え、静かに歩く。心臓の鼓動だけが、いつもより大きく聞こえる。
「……」
声はない。けれど、文字ならば伝えられる。
彼女は黒いインクを指先に纏い、手帳を開いた。
――『声を探せ』
文字がページの上で震え、消えかけた次の瞬間、新しい言葉が浮かび上がる。
――『光る廊下の先』
セリナは迷わず廊下の奥へ進んだ。
光は高窓から差し込み、まるで道を示すかのように廊下を照らす。
「セリナ、待って!」
結の声が後ろから響く。
論理的な図書係は、セリナの無口さを承知しつつも、彼女の行動を見守らずにはいられなかった。
「大丈夫、私たちも一緒に行く」
リンも元気に手を振る。薬師見習いの少女の笑顔は、セリナに安心を与えた。
廊下の奥、光が差し込む踊り場に辿り着く。
そこには一冊の古い日記――手帳に似た装丁の本が置かれていた。
セリナは息を整え、ページをめくる。
白紙のページに黒い文字が浮かぶ。
――『あなたの声はここにある。代償を選ぶ覚悟はあるか』
代償――それはインク魔法のルールだ。書けば誰かの記憶を一頁奪う。
セリナは迷わずペンを取り、文字を紙に描き始めた。
黒い線が走るたび、微かに世界が揺れる。
手帳の文字は次第に形を変え、古い記憶の断片が浮かび上がる。
――『声――幼い日の笑い声……』
セリナの胸に、失われた自分の記憶の一片が押し寄せる。
だがそれは甘い追憶ではなく、消えた声の手がかり。
ページの文字は次々と変わり、彼女に問いかける。
――『奪うか、残すか』
迷いのない筆跡で、セリナは書き続けた。
大切な誰かを守るために。
代償を受け入れる覚悟とともに。
文字がページを埋め尽くした瞬間、手帳は静かに光を放ち、
かすかな声が、耳を打つ。
――「ありがとう」
声は、彼女のものではなかった。
しかし確かに、世界は少しだけ変わった。
セリナは握りしめた手帳を胸に、決意を新たにした。
「……これからだね」
心の中でつぶやき、黒いインクのペンを握り直す。
世界の秘密と、失われた声の断片を追う旅は、まだ始まったばかりだった。