第2話 空白の手帳
聖灰学院の夕暮れは、昼間の賑わいとは打って変わって静かだ。
廊下を歩く足音も、遠くで閉まる扉の音も、すべてが柔らかく吸い込まれるようだった。
セリナは手帳を抱えて図書館の自分の席に座る。
拾った“空白の手帳”。表紙は淡い灰色で、何も書かれていないように見える。しかし、ページをめくると、かすかに文字の跡が浮かんで消え、また別の文字が現れる。
――『書き換えよ』
セリナは息をのみ、ペンを握った。
黒いインクが紙の上を滑るたび、微かな光を放ち、文字は確かに形を持つ。
「ふふ、やっと見つけたか」
図書館の扉がわずかに開き、結が顔を覗かせる。
論理派でありながら温かな目をした図書係は、セリナの手元を静かに観察する。
「何を書いてるの?」
リンの声が重なる。薬師見習いの少女は、今日も元気に飛び込んできた。
感情豊かな声は、セリナの無口を気にせず、その笑顔だけで彼女の心を温める。
セリナはゆっくりと手帳を差し出した。
文字は一つずつ浮かび上がり、まるで手帳自身が語りかけるかのようだった。
――『声を取り戻せ。代償を恐れるな』
ページの文字はすぐに消え、黒いインクの跡だけが残る。
その瞬間、セリナは手帳がただの紙の束ではないことを悟った。
文字には意思があり、導こうとしている――自分の失った声の行方へ。
「……やるしかない」
心の中でつぶやき、セリナはペンを握り直した。
インクは代償を伴う。書くたびに、誰かの記憶を一頁分だけ奪う。しかし、迷いはなかった。大切な人を守るためなら、その犠牲も受け入れる。
ページに触れると、文字が微かに光る。
その瞬間、図書館の空気がひんやりと震え、セリナの周囲だけが世界の時間から少しだけ浮かんだように感じられた。
「ねえ、セリナ」
結の声が、今度は少し真剣な響きを帯びる。
「君の力は、ただの奇跡じゃない。気をつけて」
リンも同意するように頷いた。
「でも私たちは信じてるよ。セリナの文字なら、きっと道を開けるって」
セリナはゆっくりと手帳に向き合い、次の文字を書き始めた。
微かに震える筆跡が、暗い図書館の中で小さな光となる。
――『声の断片を探せ』
その文字を最後に、ページは静かに閉じた。
しかし、心の奥底に、次に何が起きるのかを示す予感が漂っていた。




