第1話 沈黙の魔女
聖灰学院の図書館は、朝の光に満ちていた。大理石の床に反射する光は、静かに棚を照らし、埃ひとつ舞わぬ空気の中、ページをめくる音だけが響く。
十七歳の少女、朝倉セリナは、いつもの席に座っていた。
口を開かない彼女に、言葉は存在しない。けれども、指先には黒いインクが宿っていた。
ペン先が紙を擦る音。
それだけで、世界が少しだけ変わる。
「……ふぅ」
その声はない。けれど、手帳に現れる文字が、世界に語りかける。
「――窓の桟の花に水を」
紙に書かれたその指示通りに、窓際の鉢植えの花に水が滴り落ちた。
図書館の他の生徒は、ただ驚いた表情で見守る。誰もが魔法の声を求める中、セリナの力は“文字”でのみ現れる。
「ねえ、また変なことしてるの?」
声がした。
図書係の結が、優しく彼女を覗き込む。論理的で落ち着いた眼差し。セリナは軽く目で応え、紙に浮かぶ文字を指でなぞった。
「本当に、君は――面白いな」
結の言葉もまた、セリナには音として届かない。しかし心で理解できる。
リンが軽やかに跳ねるように近づく。
「セリナ、今日は何を書くの?」
感情豊かな声。薬師見習いのリン。彼女はセリナの無口を気にせず、ただ笑顔を向けるだけだった。
セリナは手帳を開いた。
表紙には何も書かれていない――まるで白紙の世界。
だが、ページをめくると、かすかな文字が浮かび上がる。
――『書き換えよ』
その文字は、次第に消え、また新しい文字が現れた。
セリナは息をのみ、ペンを握り直す。
「……」
言葉はなくとも、意志はある。
文字は、彼女の声となる。
紙に触れるたび、黒いインクはほんの少しの代償を奪う――記憶の一頁。だが、セリナは躊躇わない。大切な誰かを守るためなら、その代償も受け入れる。
「――始めよう」
その心の声を、ペン先が紙に映す。
文字が躍る。世界が微かに揺れる。
手帳が微かに光った。
セリナは、知っていた――この魔法が、ただの奇跡ではなく、試練になることを。