滴る記憶
夜中の二時、蛇口から聞こえる水滴の音で目が覚めた。
ポタン、ポタン、ポタン。
規則正しく、まるで時計のように響く音。昨日の夜、確実に蛇口を閉めたはずなのに。
美穂はベッドから起き上がり、スリッパを履いて台所へ向かった。月明かりが窓から差し込んで、シンクの金属が鈍く光っている。
蛇口に手を伸ばすと、それは完全に閉まっていた。
ポタン。
また音がした。美穂は首をかしげて蛇口の下を覗き込む。一滴の水が、シンクの底に落ちて小さな波紋を作った。
「おかしいな」
彼女は蛇口をきつく締め直した。しかし、数秒後にまた音が響く。
ポタン。
今度は確実に見た。蛇口の先端から、透明な水滴が落ちていく様子を。でも蛇口は閉まっている。完全に。
翌朝、美穂は不動産屋に電話をかけた。
「あの、水道の修理をお願いしたいんですが」
「どちらの箇所でしょうか?」
「台所の蛇口です。夜中に水が滴るんです。でも、蛇口は閉まっているのに」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「あの物件でしたら...以前にも同じような相談がありました。修理業者を手配いたします」
修理業者の田中さんは、午後に到着した。蛇口を分解し、パッキンを調べ、配管をチェックした。
「異常ありませんね。どこにも漏れはないです」
「でも確実に音がするんです」
田中さんは首を振った。
「聞こえませんが...もしかして、上の階からの音じゃないですか?」
美穂は最上階に住んでいた。上に部屋はない。
その夜、美穂は台所で待機することにした。時計を見る。午前二時まであと十分。
ソファに座り、台所を見つめる。静寂が部屋を支配していた。
午前二時。
ポタン。
音が響いた。美穂は立ち上がり、懐中電灯を手にシンクに近づく。蛇口の先端を照らすと、そこには何もなかった。完全に乾いている。
ポタン。
また音がした。でも水滴は見えない。
懐中電灯の光をシンクの底に向けると、そこに小さな水たまりがあった。一滴分の。
美穂は混乱した。音は確実に聞こえる。水たまりも実在している。でも蛇口からは何も落ちていない。
ポタン。
三度目の音。今度は水たまりが少し大きくなった。
目に見えない水が、確実に落ちている。
美穂はインターネットで物件の過去を調べ始めた。この古いマンションには、いくつかの記録があった。
十年前、三階の304号室で女性が亡くなっている。浴槽で溺死。発見されたのは死後三日目。水道の蛇口は全て開けられており、部屋は水浸しになっていた。
美穂の部屋は304号室だった。
記事を読み進めると、さらに詳細が分かった。被害者の佐藤ユミさん(当時32歳)は、生前から「夜中に水の音が聞こえる」と管理会社に相談していた。修理業者が何度も来たが、異常は見つからなかった。
彼女の日記には、こう書かれていた。
「見えない水が滴っている。どこから来るのか分からない。でも確実に聞こえる。この音が私を呼んでいる」
その夜、美穂は眠れなかった。時計を見ると、午前一時五十分。あと十分で例の時間だ。
彼女は決意して台所に立った。今夜こそ、この謎を解明する。
二時になった。
しかし、音はしなかった。
美穂は拍子抜けした。静寂が続く。もしかして、もう止んだのだろうか。
午前二時五分。まだ何も起こらない。
安堵のため息をついた時、背後で音がした。
ポタン。
振り返ると、浴室の方から聞こえてくる。
美穂は慎重に浴室のドアに近づいた。ドアノブに手をかける。冷たい金属が肌に触れる。
ドアを開けると、浴槽が見えた。空の浴槽。でも音は続いている。
ポタン、ポタン、ポタン。
浴槽の底を見ると、そこには薄っすらと水が溜まっていた。透明で、光を反射している。
蛇口は完全に閉まっているのに。
美穂が浴槽に近づくと、水の量が徐々に増えていることに気づいた。見えない蛇口から、見えない水が注がれているように。
水面が彼女の視線を捉えた。最初は自分の顔が映っているだけだった。でも、よく見ると...
もう一つの顔があった。
水の中から、別の女性が見上げている。青白い顔、濡れた黒髪。口を動かして何かを言おうとしている。
美穂は後退りしようとしたが、足が動かない。水面の女性が手を伸ばしてくる。水の表面を突き破って。
「一緒に...」
かすかな声が聞こえた。
「一緒に沈もう...」
美穂は必死に体を動かそうとした。でも体が重い。まるで水の中にいるように。
浴槽の水位がさらに上がっている。もう半分近くまで溜まっている。
「誰も信じてくれなかった...」
水中の女性の声が明確になった。
「でもあなたは聞こえる。あなたには分かる」
美穂の足首に、冷たい手が触れた。
「佐藤さん...」美穂は震え声で呟いた。
水中の女性が微笑んだ。悲しそうな、それでいて安らかな笑顔だった。
「もう一人じゃない」
翌朝、管理人が304号室を訪れた。住人からの苦情で、夜中に水の音がするという。
ドアの鍵が開いていた。中に入ると、浴室から水が溢れていた。
浴槽には二人の女性が沈んでいた。一人は美穂、もう一人は...記録上、十年前に死んだはずの佐藤ユミだった。
二人とも穏やかな表情をしていた。まるで長い間待ち望んでいた再会を果たしたように。
蛇口は完全に閉まっていた。
しかし今でも、夜中の二時になると、304号室から水滴の音が聞こえてくる。
ポタン、ポタン、ポタン。
新しい住人を呼ぶように。
見えない水が、また誰かを待っている。